4組目 何気ない早朝
夏の朝、二子玉川の空はすでに白みきり、湿り気を帯びた空気がタクシーのボンネットを撫でていた。
後部座席に座る乗客は、見るからに長身の白人男性だ。大きなスーツケースを二つ、手慣れた様子で積み込ませ、彼は乗り込むなり「Haneda, Terminal 3. Not highway, please. Just local roads.」と短く告げた。
「一般道ですね、承知いたしました」
バックミラー越しに目が合う。少し緊張した面持ちだが、窓の外を流れる多摩川の景色に興味深そうな視線を投げている。急ぐ様子はない。空港へ向かう足で、あえて渋滞の多い市街地を選ぼうとする客には、大概「旅の風景」を楽しみたいという意図がある。
私はメーターを倒し、二子玉川の住宅街から環状八号線へと舵を切った。
朝6時の環八は、すでに静かな喧騒を孕んでいる。世田谷の閑静な通りを抜け、蒲田の雑踏へ近づくにつれて、街の表情は刻々と変わっていく。単調な高速道路の防音壁とは違う。道端のコンビニに集まる学生、登校する小学生の列、開店準備に追われる商店街の店主たち。
「Beautiful, isn't it?」
信号待ちで停車した際、彼がふと声をかけてきた。視線の先には、古びた看板が並ぶ路地裏の風景がある。
「ええ、日本の日常です」
そう答えると、彼は小さく笑った。高速道路の「速さ」を捨ててまで彼が見たかったのは、この「生活の匂い」なのだろう。第3ターミナルへ着いてしまえば、そこはもう国際的な非日常の空間だ。その前に、彼が住む国とは違う、この土地の呼吸を感じておきたかったのかもしれない。
多摩川を渡る橋の上から見下ろす水面は、朝日を反射して銀色に輝いていた。
環八の交通量は増え、トラックが背後をせわしなく追い抜いていく。だが、車内は不思議と穏やかな時間が流れていた。私はメーターが刻む数字よりも、この男が後部座席から切り取る「東京の断片」が、彼の旅の記憶にどう刻まれるのかを想像していた。
第3ターミナルへのスロープを上がり、出発ロビーの車寄せに車を停める。
トランクから荷物を降ろすと、彼はチップを添えて「Thank you. That was the best way to see the city.」と言った。
「よいご旅行を。Have a safe flight.」
自動ドアが閉まり、タクシーが再び流れに乗る。バックミラーに映る彼は、すでに空港の巨大な建物へと視線を向けていた。
夏の朝の渋滞は、少しだけ愛おしい。私にとっての日常が、誰かにとっては特別な旅の風景の一部になる。その事実が、少しだけ今日のハンドルを軽くしてくれた。




