自分の醜さと彼女の美しさと
小学三年生の頃、思い出したくないことが起こった。それから小中と、学校に行くことはなかった。俺は高認を取って、大学受験を行い、偏差値五十くらいの私立大学に入った。そして、今日は大学の新歓であった。
テニス同好会に寄ると、机にいた男子は俺を一瞥した後、スマホの画面に視線を戻した。まるで、外れを引いたような反応であった。対応してくれた茶髪のお姉さんに「情報発信しているから、フォローしてね」と言われたのだが、正直にそのSNSを「やってない」と答えたところ、苦笑いされてしまった。多分、嫌われて馬鹿にされている。行きたくない。
机の裏のほうを見ると、肌が綺麗ですらりと長身の男子が、女子二人と話していた。女子二人は、その男子の瞳を興味を持って、見ていた。男子が、笑いながら何かを言うと、女子もその空気感に浸りながら、笑う。彼は主人公で、彼女らはヒロイン。俺もあんな風に冗談を飛ばして、和やかに自然に楽しげに、女子と話したかったけれど、そんなことできなかった。いつも話を被せてしまったり、あるいは緊張していて聞き取ってもらえなかったからだ。いたたまれない空気になるのは嫌だった。
鉄道同好会に立ち寄ったところ、ジオラマの整備をしていた男子二人に親しげに話しかけられた。俺はどんなことをやっているか聞きたくて、尋ねたところ、今回作ったジオラマのこだわりポイント、そして鉄オタの種類についてきめ細かく説明を受けた。
そろそろ終わるかなと思っていたところ、後ろにいた細身の男子が話に割り込んできて、似たような話をされた。しゃべり方は情熱的であり、途中から敬語を止めていた。多分俺が、彼らと同じようなファッションセンスであったためだろうが、残念ながら鉄道についてよく分からなかった。情熱が求められる同好会は嫌だった。
最後に見たのが、漫画アニメ芸術サークルである。しかし、近寄ってチラシを取っても特に何も言って来ない。大人しめの男子が、原稿用紙に書かれた説明文を、聞き取れるか取れないか微妙な声量で、読み上げてくれた。俺はその内気さが好印象だった。俺はライトノベルしか読んだことはなかったのでその趣旨を述べると、「あ、大丈夫ですよ…」と頼りなさげに言った。
俺はベッドに寝っ転がりながら、漫アニのチラシを見ていた。俺は書かれていた連絡先にメッセージを送った。
次の日、新入生ガイダンスが終わった後の、第一回の講義はどれも説明ばかりであった。講義中さりげなくスマホを見たが、返信がくる気配はない。
授業が終わると、茶髪でピアスを開けた男が、不気味なほど太いアイシャドーをした女と眼鏡をかけた地味そうな女、そしてもう一人短髪の男に呼びかけ、ご飯の計画を立てていた。
彼らの前を通り過ぎる時、「俺も誘われないかな」なんて考えてしまったけれど、よくよく考えたら俺は彼らと面識がなく、ましてや友達ですらない。眼鏡をかけた女子は、少々パサパサ野暮ったい黒髪で、恥ずかしそうに笑う。俺は彼女のことが好みだったけれど、その彼女は新しいものにときめくかの如く、茶髪の男を見つめていた。まだ入学して数週間しか経っていないのに、どうしてそんな親友みたいになれるのか、理解不能だった。同じ出身の高校なんだろうか?
その日の夜、漫アニサークルから「体験しませんか?」とメッセージが来ていた。俺は日程を調整し、指定先で落ち合うことになった。サークルがある建物は、大学の講義が行われている棟から少し遠い場所にあり、若干迷いながらの到着であった。小さく古いエレベーターにのり、三階の待ち合わせ場所の廊下に着く。俺が着いたのは三分前であったが、黒い縁の太い眼鏡をかけた男子がすでに待っていた。
「もう一人、体験の方がいますから。待っていただいてもいいですか」
指定時刻から二分ほど経過していた。この五分間、沈黙が覆った。あちらから話しかけることはなかったし、こちらからも話しかける勇気はなかった。待ち合わせの相手が時間に遅れると、損した気分になるな、と思いながら足を揺らす。一体誰だろう。性格の悪い奴に決まっている。もし会ったら、一言言ってやろう。小学校で五分前行動を習ったはずだ。馬鹿な奴である。
こちらの棟の廊下はまばらで、空調機の音だろうか、ノイズが鳴り響いていた。突然、エレベーターが開いた。中から出てきたのは、薄い水色とピンクのジャンパースカートを着た女子である。ファッションはもちろんのこと、丸顔のなのも相まって、大学生どころか高校生か、なんなら中学生にも見える。お世辞でも、走り慣れているとは思えない腕の振り方で、こちらに近づいてくる。たった十メートルくらいの距離だったのに、ゼエゼエと息を吐きながら、膝を持って、彼女は下を向く。
「すみません! 遅れました! 迷ってしまって」
呼吸がまだ荒いまま、彼女は前屈みの姿勢で見上げる。ロングヘアの黒髪が顔に乱雑にかかって、その隙間からまん丸の目が、見えた。髪はパラパラとしなやかで、束にはならず一本一本独立しているようであった。肌は、日の当たらない物置小屋においてあるものの如く、真っ白だ。唇は何かをアピールするように、厚いピンク色である。彼女の視線に対して、たじろぐことしかできなかった。「あ…」とだけ繋げても、結局のところ何と言っていいのか。
「いえ。大丈夫ですよ。道、分かりましたか?」
俺が動転しているのをよそに、先輩が声をかけた。彼女が高い声で返事をしていた。先輩と彼女の後ろを、俺がついていく。撫で肩だ。歩くたびに、背部のあたりまであるロングヘアが、揺れる。俺はまるで催眠術にかかったように、何も考えられなくなって、ただひたすらに後姿を眺めていた。見るたびに、心臓が突き上げられる。自分の気持ちが不明のまま、熱だけが上がるというのは、率直に気持ち悪かった。
漫画アニメ芸術サークルには、新入部員である俺たち二人を除いて、男子が三人と女子三人。案外、女子比率が多かった。低いテーブルの前に座っている。俺たちに気が付くと、「おっ」と声をかけてきた。男子は全員眼鏡である。太っているかとかの差異はあったが、その程度であった。女子のほうは個性豊かである。
サークルの活動説明が始まったものの、あの子のことがどうにも気になって仕方がない。ある時、思わず目が合う。俺は、その瞳で覗かれると心臓が凍り付く。彼女が首をかしげて、俺は慌てて視線を逸らす。
一体どんな活動をやっているのか気になったが、実際はアニメやゲームや漫画の感想を共有するダラダラとしたサークルであった。大抵はお菓子を持ち込んで、ゲームをやり、気が向いたらみんなでアニメを見るそうだ。活動日は毎週火曜、木曜。自己紹介が始まり、好きな作品や座右の銘を発表することになる。
まず真っ赤に染めた髪をしたバーギーパンツの女子である。
「『大衆に開かれた芸術は馬鹿に開かれた芸術』、八森 春奈です。よろしくお願いします」
「お、稀代の芸術革命家!」
「つぇええ! つぇえええ!」
俺はざわざわとした不快感で、思わず立ち上がりたくなった。ノリがオタクのものだ。帰りたい。新歓で、ぼそぼそと話していた彼らとは思えない声量だった。この部屋の中では人格が変わるのか。絶対、ドン引きしているでしょと彼女のほうを見ると、ニコニコしていた。そして、ゴスロリファッションの女子が続く。
「オタクのアイドル、ルリちゃんだよ~。三留だけど、よろしくね~。ハート、打ち抜いちゃうぞ。あ、『彗星幽遠の王子様』で『SSR悠人君』出しました。あがめよ」
「ルリちゃん先輩、流石っす!」
「俺のハートを、打ち抜いてください!」
最後はふくよかでクマのような女子。女子で唯一眼鏡をしている。
「夢女子だったが、最近は腐女子に。逆カプは地雷。推しは同担拒否。よろしく」
まるでなにかの呪文のごとく、常軌を逸した早口で何か言っていた。早すぎる。人間のコミュニケーションじゃない。まるで、百戦錬磨の仙人のようである。
「推しカプ言ってねえぞ」
理解できた先輩の男子が野次を飛ばしていた。
「『ゆう×なお』が至高」
「ええ。『なお×ゆう』のほうがいいじゃん」
「表出ろ」
口をはさんだゴスロリに、クマのような女子が低く言うと、「こわ~」と笑う。名前は結局、分からなかった。男子も、独特のノリでそれに続いた。続いて、新入部員の番になる。
「浦辺 季保です。乙女ゲーマーでして、『彗星幽遠の王子様』もソシャゲはやってないんですけど、1と2はやってます。推しは蒼君。よろしくお願いします」
「ほう。コンシューマーのタイトルを、プレイされていると。ソシャゲで来る前は、知る人ぞ知る名作でしたからね。こんな逸材が来るとは、うちも捨てたものではありませんな。歴史の話をしなくてはなりません」
クマのような女子が嬉しそうであった。あんな可愛い彼女にオタク趣味があったなんて、意外だった。この子なら、現実の男だって選べるだろうに。俺が現実の女性を選べるなら、きっと二次元ではなくて現実を選ぶ。
「佐藤 郭志です。ラノベをよく読みます。よろしくお願いします」
俺はオタクだと思われたくなくて、できる限りゆっくりと話した。みんながこちらを向いていて、とても居心地が悪かった。
「どんなラノベを読むの?」
男子の先輩が、質問してきた。
「ラブコメとか…」
「へえ。『ハルホイ』とか? 二期やるじゃん。今期の覇権アニメだと思うよ」
「まあ、そんな感じです」
「ふうん」
ここで沈黙が覆った。本当はハーレムものや俺TUEEEEばかり読んでいるんだけど、プライドが邪魔して作品名を挙げられなかった。
最初に俺たちのことを案内してくれた先輩が、「ポテトチップスあるよ」と呼び掛けてくれた。そこから、雑談が始まった。やはり、特段やることは決まっていないらしい。俺はあの子と話したかったが、浦辺さんはクマのような女子と盛り上がっていた。それから、十九時くらいに彼女は帰ることになった。俺も追いかけるように、帰った。
帰り道、彼女は早足で行ってしまった。走って追いかけようと思ったけど、ストーカーみたいで嫌だった。ああ。嫌われてしまったんだ。俺なんかと目が合ったら、気持ち悪いって思うよな。俺はトボトボと歩き出した。
ノリが合わないからもうやめようか迷っていたけれど、木曜日もサークルに行くことにした。「行っておけば、浦辺さんと付き合えた」なんてことは、嫌だったからだ。俺と浦辺さんは、『基礎英語A』で一緒の教室だった。しかし、授業の終わりには、いつも快活そうな女子二人やもう一人の茶髪の男子に話しかけられていて、浦辺さんと話せる機会は無かった。それを見ると、俺の胸の中が締め上げられるような気がして、辛くて、視線をそらした。
二回目のサークル参加でも、浮くことはなかった。俺は話せることはあまりなかったけど、赤い髪の八森先輩はタブレット端末で黙々と絵を描いていたりと、それが許される感じだった。クマのような女子と話していた彼女だったが、突然俺に対しても話しかけてきた。俺は全然準備していなくて、「あ…」とか「え…と」しか言えなかった。途中から緊張で何の話をしているか分からなくなったが、ゲームの話だった気がする。浦辺さんは、乙女ゲーム以外にもロールプレイゲームやパズルゲームをやるみたいだった。それから、大学の敷地の外まで一緒に帰るようになった。
そんな日々が三週間くらい続き、ボチボチ大学の講義に慣れ始めた五月。春の開花とともに、浦辺さんも日焼けするようになった。そのことについて、「大学になってから外出るようになったからね。元々、インドアだったから。日焼け止めをもっと強いのにしようかなあ」と言っていた。浦辺さんの笑顔もますます快活で色っぽくなっていって、水を与えられた植物のごとく、すくすくと美しく健康的になった。俺の意識の中で、彼女はますます強くなっていった。
基本的にこのサークルの部屋ではみんな靴を脱ぎ、床にはカーペットが敷いてあったから、男女問わず寝っ転がったりしていた。俺が浦辺さんから乙女ゲームの話を聞いていると、突然「ちょっと待ってて」と言われ、四つん這いになって棚のほうまで行く。「ほらこれ、こっちが派生作品」。
持って来たパッケージを俺に見せる。彼女の緩いカーディガンの中は、外から入ってきた光が透けている。カーディガンは白に近いグレーであったのだが、真っ黒な生地が間に挟まっていた。それが何なのかすぐに理解できた。彼女の二つのものの左側には、赤い出来物があって、それが象徴となり俺の記憶へ鮮明に焼き付いた。
夜、常にそれが再生し続けていた。俺はそのことを思い出すのは悪いことだと考え、止めようとした。何度も寝返りを打つ。もちろん彼女は、俺がこんなことを考えているなんて知らない。
なのに、彼女はすべてを見ていて、今度会った時に嫌悪感を持ったまなざしを向けてくるのではないか、と思えて仕方がなかった。そして、彼女は俺に対して微塵も興奮してくれていないのに、俺が一方的にこういうものをぶつけている。しかも、現実では絶対できないから、想像の中で何とかしようとしているわけだ。
彼女の緩い胸元の奥がどうなっているのか、その中に意識をねじ込もうとする試みはやまなかった。彼女の綺麗な笑顔も消えなかった。そしてその笑顔を、無理くり発情させて、なんとか俺を男して見てくれる表情へと変える試みも、止められなかった。いるはずもない彼女が横に寝ていて、ほどけた下着と、軽やかなロングヘアと、あのすべてを壊してしまうかのような分厚い唇が見える。俺はそっと手を、下に持っていった。何かに対して隠れるよう、慎重に。
すべてを吐き出し、支配し、獣になり果てた後、俺は拘置所に入れられた人間のようにぐったりと動けなかった。俺は箱ティッシュに手を伸ばすが、ギリギリで届かなかった。頭蓋骨の内側から急速に冷めていって、感覚がなくなり、自分の存在が実在しているのか不安になった。俺はよろよろと、鏡の前で座り込んだ。
俺の太股の付け根には、劣情という罪を犯した証拠が、絡み付いていた。行き場を失い外気に晒されているそれは、俺の存在が誰からも受け止められないことを表していた。映し出された姿は、痩せ焦げていて頼りない。俺は目の前に写っているものが醜いミイラに見えてきて、視線を逸らす。俺みたいな醜い男が、あんな美しい女性と結ばれることなんてないんだ。彼女は大腸の裏側でさえ、美しいに違いない。彼女の魂は、アルプス山脈の高地を漂っている。
俺は泣いてやろうと思った。泣けば、自分の醜さが許されるのではないかという、気持ちがあったからだ。だが、何度、目を固く閉じても、あるいは高速で瞬きしても、彼女の喘ぐ姿を想像しても、涙は出てこなかった。俺は泣けない自分を、呆然と眺めた。
大学で浦辺さんを見かけた。廊下の椅子に座っていた浦辺さんに、日焼けした一人の大柄な男が声をかけていた。彼女の顔が緊張でこわばっていたから、仲のいい男ではないと察した。多分、ナンパだ。助けに行かなくちゃと思った。でも、動けなかった。小学校のいじめられた記憶がフラッシュバックして、恐怖が俺の心を覆った。助けに行く勇気が無いくせに、彼女がその男に取られてしまったらどうしよう、と俺は思った。
結局、彼女が何度か愛想笑いをすると、その男は白けた顔をして去っていった。俺はそれを見て、安堵のため息をついたが、自分が情けなくて仕方がなかった。
「大丈夫だった?」
ナンパされ怯えている彼女を助けられなかった。その事実を、隠しながら聞いた。いつ「意気地無し」って糾弾されるか怖くて、自分の話している声色がおかしいものに思える。それがさらに、自分を不安にさせる。
「いや、ナンパされてて。ああいうガツガツした人、苦手」
彼女は心底うんざりしたように答えた。
「そっか」
俺は、何か緊張の糸が切れたように、心地良い脱力感に襲われる。俺は内心ガッツポーズを決めた。可能性があるかもしれないと思うと、俺の心臓の鼓動が高まった。実は地味な男子が好きなんじゃないか。大人しい男子が好きなんじゃないか。俺のこと好きなんじゃないか。きっとそうなんだ! 漫画アニメ芸術サークルに入る女子だから、たぶん気が合うんだよ!
まだ、希望を捨てる必要なんてない。そう思うと、最近の陰鬱としていた日々に光がともされた。上手く話せば、分かってもらえるかも! 優しくすれば、好きになってもらえるかも! 告白すれば、実は両想いだったりするかも!
俺はそれからの日々に、デートプランを計画した。どこに行こう? 遊園地? 映画館? それで、夜にロマンチックな雰囲気になって…。なんて考えていると、口角が上がってしまい、慌てて真顔になる。自分の部屋には俺しかいないのに、恥ずかしかった。俺は一日中悩んだ末、「今週の日曜日、空いてる?」とメッセージを送った。
「日曜日予定があって、ごめんね」
「ごめんね」の後に絵文字がついていた。俺は別日を提案しようと思ったが、急に寒気が襲ってきた。本当は予定なんて無いのかもしれない。もし、気持ち悪がられていたら。いいや、"もし"じゃない。きっとそうだ。俺に誘われて、うれしいわけがない。俺が女性から誘われたらきっと舞い上がるけど、俺が誘ったって、女性は嫌なんだ。ましてや、可愛い浦辺さんだ。嫌われてしまった。俺はスマートフォンを放り投げ、枕に顔を埋めた。
それからまた数週間が経った。そろそろ、五月も終わり、梅雨になる。あのデート断られ事件の後も、普通に浦辺さんは接してきた。嫌われていなかったらしい。でも、どうにも浦辺さんの顔を直視できない。いつも俺は不自然だったと思う。浦辺さんが喋る時、水を飲む時、食べる時、手を動かす時、あらゆる場面において、異性に対する感情を抱いた。彼女に対する感情は、いつも欲情と不可分なのである。でも、迫れば嫌われるのは分かっていたから、この感情は常に生煮え状態だった。
六月の始めの火曜日。俺は浦辺さんと、いつものように帰っていた。ちょうど、建屋と建屋の間の狭い屋根付きの道を通り過ぎた時だった。目の前の男が突然止まる。俺のほうではなく、横の彼女のほうを見ていた。彼女は戸惑ったような視線だったが、それは嫌がるというものではなかった。その男は細身の高身長で、垢抜けたやつだった。服装も、大学デビューした奴によくある恥ずかしい奇抜なものではなく、賛否両論出にくいものだった。あっさりとした塩顔だったが、どのパーツも整っていて、小顔である。安易な派手さに頼らない、一つ一つの部位の丁寧さが、大人の余裕を醸し出している。俺は一目で、苦手意識を持った。女性たちからもてはやされそうな、綺麗なイケメンだったから。
彼から、値踏みするかのような視線を向けられた。俺は小さい頃から、クラスの中心人物たちのこの視線がすごく嫌だった。そして、ふんと鼻で笑う表情をした。まるで俺の醜さや無力感を見抜かれているようであった。俺は羞恥心を抑えるために、拳を強く握った。
「じゃあ、また後で」
「うん」
彼女は甘い声を出した。俺がいることを忘れたようにすっかりと、二人は見つめ合う。暗号のようなアイコンタクトをして去っていく。たった数秒の間だったのに、俺と一緒に帰った数十分より、彼女の素の部分、愛らしさが出ているように思えた。
「さっきの人は?」
「彼氏だよ。私の」
彼女は一定のリズムで歩き続ける。俺はつっかえそうになったが、バランスを取ってついていく。
「どんな人なの?」
聞かないほうが良いことは分かっていた。
「え? どんな人って…? 別に普通の人だよ」
彼女は意図が読み取れないように戸惑って、答えた。
「そっか」
「テニス同好会の」
「テニス同好会?」
「言ってなかったっけ。サークル掛け持ちしてて。もうテニスと漫アニしか出てないけど。毎週日曜日にやってる。そこの先輩」
俺は立ち止った。
「どうしたの?」
「いや…。何でもない」
俺は振り向いてきた彼女に向かって、再び歩き出す。
「最近、なんかあった?」
「何もないよ」
そこで、彼女は俯く。
「私さ、オタクの仲間が出来てうれしいよ。先輩たちも優しいし。でも、マニアックな話になっちゃうことあるよね。君と話す時、ちょっと一方的だったなあって。私の好きな作品ばかりで。君の好きな話も、もっと聞くし、聞きたいから、これからも友達でいてほしいな」
俺はどこから訂正していいか分からなかった。本心を伝えても、目の前の彼女は受け入れてくれない。
「俺はオタクじゃないよ」
横を見ると、新歓で熱心に鉄道のジオラマを作っていた男子たちが、楽しげに話している。俺に気づかず、通り過ぎて行った。オタクのような情熱もなければ、リアルの女の子からも相手にされない。俺は、ただただ、気持ち悪いやつなんだろう。それに対して、彼女はオタクチックなサークルにも陽気なテニスサークルにも馴染んでいるわけだ。美しい人は何でもできる。
「え? そうなの?」
「多分…」
空気を読んだのか彼女が笑って、俺の背中をたたく。俺は電流が走って、心臓が止まるかと思った。
「そっか、ごめんね。あんまり突っ走った話しないようにするから。これからもよろしくね」
この最高の笑顔にも、彼氏がいる。俺はうずくまりそうになるのを、こらえた。
次のサークル活動、浦辺さんはまだ来ていなかった。浦辺さん以外の女子三人と、俺を含めて男子二人。男の先輩にさりげなく、浦辺さんに彼氏がいる事実を話してみた。自分のやっていることは告げ口みたいで嫌だったけれど、堪え切れなかった。辛かった。誰かとこの辛さを共有したかった。「あんな可愛い子に彼氏がいたなんて」って絶望してほしかった。
「別に恋愛してもいいんじゃないの。知らんけど」
彼は眼鏡をくいっと上げる。別によくあることだと言わんばかりに視線を向けて、「話のオチは?」と問うた。俺は肩をすくめるしかなかった。
「でも、オタサーで恋愛すんなよ。サークラ不可避だからな。あと、オタサーの姫を根絶やしにしろ。あいつらを許すな」
唐突にルリちゃん先輩が入ってきた。異常に高音のアイドル声ではなく、地声だった。落差が大きすぎて、分からなくなる。
「お前、なんかあったん…?」
「男子独占したいとか、ほんましょうもねえ。心がブスだわカス。本物の姫っつうのは、独占せずとも勝手についてくんだよ」
「さすが血みどろのオタサーの姫抗争を生き抜いてきた、ルリ氏。さすが」
クマのような女子が冷やかしの声を入れる。また俺の話は忘れられて、いつものオタクサークルに戻っていた。そうだ。年頃の可愛い女性に、彼氏がいるなんて当たり前の話じゃないか。俺は何を悩んでいたんだ。そして、その女性が俺を選ばないことも、当たり前じゃないか。浦辺さんが、ちょうど入ってきた。彼女が「何々、なんの話してるの?」と聞いてくる。俺は罪悪感からそっぽを向いた。男子の先輩が「恋愛の話をしててさ」というと、浦辺さんはあっさり、自分に彼氏がいることを話し出した。今日のサークルの話題は恋愛になった。
「で、日曜日に彼氏とサッカー観戦しに行くんですよ」
「へ~。浦辺ちゃん、サッカー見るんだ。意外」
「陽キャっぽくてずっと避けてたんですけど、彼氏に勧められて。そしたらハマっちゃいました。私、熱中して冷めやすいタイプなんですよ、たぶん。推しのサッカーチームを探すの、ちょっとオタクっぽくないですか?」
「確かに」
彼氏の話している浦辺さんは、自分の話ではないのに、誇らしげだった。
「いや、カッコイイから、浮気しないか心配ですよ。ずっと一緒にいて、独占したいなあって思っちゃいますね。乙女ゲーと違ってライバル多すぎ。主人公補正が欲しいです」
「浦辺氏。乙女ゲーの主人公は、イケメンに見合うだけの苦労をしているでござる」
「そうなんですけど、そうなんですけどさー」
「全く。いい? 男っていうのはね、結局いい女のところに帰ってくるの。どしっとしていなさい」
ルリちゃん先輩は、まるでスナックのママのような口ぶりであった。
「帰ってきませんよ。というか、テニサーのイケメンなんて、遊ばれてんじゃないの?」
「多分…大丈夫だと思います」
「そう。まあ、いいけど。私も一年のころさ…」
赤髪の八森先輩が、タブレット端末に視線を向けたまま、話し出す。
「それを言うなら、私の話も…」
「おいお前ら、一年に生々しい恋愛談を突きつけようとするのやめろ」
先輩の男子に対して、みんなからどっと笑いが起こる。それにつられて彼女が柔らかい笑みを浮かべる。寂しさもあったが、俺も気分が軽くなって、喋る気になった。
「分かるよ。俺も好きな人を独占したいと思う」
「え? 好きな人いるの? マジで? 教えてよ」
俺は突然、浦辺さんから興味を示され、ドキッとした。もう、そんな思いを抱かないと決めたはずなのに、油断した瞬間にやられると、心が揺れ動く。
「秘密」
俺は彼女に対して、顔を見せぬようそっぽを向いた。頬を強張らせる。唇をかみしめる。彼女の興味なさげな生返事が聞こえた。俺は醜い何かが溢れ出るのを感じて、それを必死に抑えるため、耳をふさいだ。そして、この不自然な体勢を理解していくうちに、情けなくなった。もう、俺の本性は知られてしまった。気持ち悪がっているに決まっている。そう思うと、また動けなくて、この不自然な体勢で止まる。
数十秒後、俺は意を決して、そちらを向く。肩のあたりに、力が入り、筋肉が震える。しかし、彼女は隣のルリちゃん先輩と話していた。何事もなかったかのように、笑う。俺はその笑顔に見惚れた。そうだった。興味なかったね、俺のこと。俺が、急に頭を抱えても、恐怖で震えても、そっちを向いても、俺が何をしていていようとも、どうでもいいんだ。俺の気持ち悪さにさえ、興味を持ってくれないのなら、もう何もない。俺は空っぽだ。
俺は天井に目をやる。もう聞かないようにしていたのに、彼女の楽しげな笑い声は、永遠に響き続けた。




