知ると言うこと、それに伴う世界の縮小について
最近は、空を見上げることが減った。
天気予報の「晴れ」や「曇り」に頼って、その日の空を自分の目で確認することもなく、
移動中の電車の窓から見える空でさえ、なんとなく目を伏せてしまう。
それでも、たまにふと立ち止まって、空を見上げることがある。
通勤途中、駅までの道。
スーパーの袋を持って帰る途中の信号待ち。
そんなとき、思いがけず雲が流れているのに気づく。
白くて、ちぎれたガーゼのような雲。
あの頃の自分なら、きっとそれに名前をつけていた。
イルカ雲、ギザギザ雲、食べかけのパン雲。
でも今は、たぶん「積雲」か「層積雲」か、どこかで聞きかじった気象用語で分類してしまいそうになる。
知識が邪魔をする。
知ってしまったことが、想像力の邪魔になることもあると、最近ようやく気づいた。
あの頃は、なんだって素直に受け入れていた。
本を読むときだって、作者の意図とか比喩とか構造とか、そんなことは一切考えていなかった。
物語は物語として、ただその世界に入り込んで、主人公と一緒に笑って、泣いて、怒っていた。
ページをめくる手が止まらなかった。
夜遅くまで読み続けて、親に怒られても、目がしょぼしょぼしても、
「続きが知りたい」という気持ちだけで全部が動いていた。
それが、今ではどうだろう。
「この構成、すごくうまいな」とか、「この表現、○○って作家に似てる」とか、
頭の中で分析が先に立ってしまって、まるで純粋に“読む”ことができなくなっている。
本を読むたびに、自分の中の感動の受け皿が少しずつ小さくなっている気がして、
それでも読み続ける自分がいて、
そのことに小さな罪悪感を抱いたりもする。
人と会うときも、そうだ。
昔は、ただその人のことを“そのまま”見ていた。
この人はどういう人か、何が好きで、何を考えているのか、
そんなことをゆっくり、自然と知っていった。
でも今は、最初からどこかで測っている。
距離感や立場や年収や癖や地雷や、そういうものが、自分の中にあるフィルターを通して流れてくる。
「この人はちょっと苦手そう」とか「無理しなくてもいいかな」とか、
まだ何も起きていないのに、先回りして心を閉じたり開いたりしている。
それが“大人になる”ってことなのかもしれない。
傷つかないように、失敗しないように、
過去に自分が学んだことを元に、防御するようにして生きている。
その防御が必要だってことも、ちゃんとわかっている。
けれど、それでもやっぱり、時々思ってしまう。
ただ、好きな人と、無邪気にゲームがしたい。
それだけなんだ。
ルールのない、勝ち負けなんてどうでもいいゲーム。
アイスを食べながら、笑いながら、コントローラーを取り合ったり、
相手が間違えた操作に「違う違う」って言いながら一緒に騒いだり。
そういう時間を、もう一度だけでいいから、味わいたい。
今は、「その人に合わせる」ことばかり考えてしまう。
気を遣う、距離を取る、空気を読む。
ゲームをしても、「今、楽しいって思われてるかな」とか、「迷惑になってないかな」とか、
余計なことがずっと頭の中でノイズのように鳴っている。
子どものころ、そんなこと考えたことがあっただろうか。
「好きな人といる」っていう、その一事だけで、
時間がどれだけでも流れていった気がする。
誰かとゲームをして、負けたって泣いても、最後は笑っていた。
勝ちたかったんじゃない。
その人と、一緒に何かをしていたかっただけなんだ。
それだけのことを、今の自分は、どれだけやれているだろう。
時間は止まらないし、戻らない。
大人になってしまったことを、今さら悔やんでもどうにもならない。
知ってしまったことはもう消せないし、
見えすぎてしまうものに、目をつむることもできない。
でも──それでも、
たまには雲を数えたい。
ただ空を見上げて、「あれ、クジラみたい」って誰かに笑って言いたい。
本を読んで、物語の中で心をぐちゃぐちゃにされたい。
人を、損得じゃなくて、ただ「一緒にいて心地いいな」って思う気持ちだけで見ていたい。
好きな人と、ただ、ゲームをしたい。
気を遣わなくていい相手と、
上手い下手も、勝った負けたもどうでもよくて、
笑い声と画面の音と、夜の涼しい風だけがある空間で。
きっとそれはもう叶わないことだって、わかってる。
でも願うことまで、捨てたくはない。
たとえ戻れなくても、心のどこかで憧れていたい。
その感覚を持ち続けている限り、
今の自分も、少しは大丈夫な気がするから。
だから、今夜は少しだけ、
窓を開けて、空を見上げてみようと思う。
雲があるかどうかなんて、どうでもいい。
ただ、昔のように、首を傾けて、息をつくように見上げてみる。
きっと、そこにあるものが──
少しだけ、自分の中に何かを思い出させてくれるような気がする。