第8話「二人だけの部屋」
終電が過ぎたあとの道は、人の気配がほとんどなかった。
街灯の光だけが、湿ったアスファルトの上にぼんやりと滲んでいる。
わたしの少しうしろを、真人が静かについてきていた。
「……真人くん、ひとつ、聞いていい?」
「はい」
「ネットカフェに隠れてた間――なんで、警察には行かなかったの?」
わたしの問いに、彼の表情がわずかに曇る。
「……俺、自分でもそう思いました。“さっさと通報すればよかった”って。でも……あのときは、頭の中が真っ白で。なにを信じていいのか、わからなくなってて」
そう言って、彼は黙り込んでしまった。
コンビニの角を曲がったとき、ふいに、真人がぽつりと呟く。
「……俺、ひとりで上京したんです」
その声に、足が止まった。
「両親は一応“都内に住んでる”ってことになってるけど……本当は村にいます。手続きだけは一緒に済ませたけど、住む場所も、仕事も、全部、自分で見つけてきたんです」
彼の声は、まるで自分の履歴を読み上げるみたいに淡々としていた。
その感情の乗らない声色がかえって、彼の抱えてきた孤独の深さを物語っているようで、胸が痛んだ。
「学校のことも、自分で調べて、自分で手続きして……奨学金も申請した。アパート借りるまで、数ヶ月は知り合いの家で……」
語尾が消えていく。
わたしは立ち止まり、彼を振り返った。
この子の孤独と、震えと、真っ直ぐな目の奥にあるものを、もう放ってはおけなかった。
教師としてでも、大人としてでもない。ただ、わたし個人の意志として。
「……もうよか、うち来て。今日は泊まって。しばらく、あんたを匿う」
自分で言って、驚いた。でも、もう止められなかった。
わたしが、この子を守るのだ。
彼は一瞬だけ、目を見開いて、それからゆっくりと、うなずいた。
「……ありがとう、先生」
その言葉を最後に、わたしたちの会話は途切れた。
肩が触れ合わないように、少しだけ距離を保って歩く。
彼はわたしの生徒で、わたしは彼の教師。
その揺るぎない事実が、見えない壁のようにわたしたちの間に横たわり、交わすべき言葉をすべて奪い去っていくようだった。
わたしの住むマンションのエレベーターが、静かに上昇していく。
その密室のなかで、ふたりきりの沈黙がやけに重かった。
玄関の鍵をそっと回し、室内へ彼を招き入れる。
真人は遠慮がちに足を踏み入れると、空気の匂いを確かめるように、深く息を吸った。
「……先生の匂いがする」
その一言が、わたしの心を不意に揺らした。
シャンプーや柔軟剤、そしてわたし自身の肌の匂いが混じったこの空間は、わたしの聖域だったはずだ。そこに彼がいる。そんな言葉を、彼に言わせてはいけない。
そう思うのに、もう引き返せないのだと、身体のどこかで理解していた。
「お風呂、入っておいで?」
そう言ってバスタオルを渡すと、真人は少しだけ微笑んだ。
それは、学校で見たどんな笑顔よりも、ずっと脆くて、優しい光をしていた。