第6話「空いた席と募る不安」
六月も半ばを過ぎ、じっとりと湿気を帯びた空気が肌にまとわりつく朝。
いつもと変わらぬ時間に職員室へと足を運び、出席簿を開いたわたしの指が、ある名前の上でぴたりと止まった。
――真人。
先週から、彼は学校に姿を見せていない。
最初は風邪か何かだろうと思っていた。けれど、三日、五日と彼の不在が続くうちに、その空席はわたしの胸にぽっかりと穴を開けた。
教室の喧騒のなかで、彼の机だけがまるで時が止まったかのように静まり返っている。その光景を見るたび、まるで自分ひとりだけが、世界から置いていかれたような、そんな底冷えのする心地がした。
昼休み。
職員室に戻ると、同僚の教師たちがひそひそと声を潜めて話し込んでいるのが聞こえた。
「――あの生徒、最近来てないでしょ? 例の……真人くん」
「うん、顔は整ってるからなあ。ネットで話題の“ママ活”とかじゃないの?」
ママ活。その下世話な響きが、わたしの鼓膜を不快に震わせる。
「今ってそういうの普通らしいよ。高校生が主婦相手に小遣い稼ぎ。割り切ってるんでしょ」
「……ま、そういうの、興味ありそうな顔してるしね。目がちょっと……あれ、でしょ?」
その会話を耳にした瞬間、背筋が凍った。
手に持っていた書類の束が、音もなく指の間を滑り落ちて机に散らばる。
「……そういう言い方、やめてもらえますか?」
気づけば、声が出ていた。思ったよりずっと大きく、鋭く響いたわたしの声に、室内の空気がぴたりと止まる。
「あ、いや……神原先生。別に、悪意があったわけじゃ──」
「悪意があるとかないとかじゃなくて。そういう憶測で、生徒を品定めするような言葉、私は許せません」
言い終わったあと、自分の言葉がどれほど感情的だったかに気づき、後悔が喉元まで込み上げてきた。けれど、もう後戻りはできなかった。
「……失礼します」
その場を立ち去ると、誰もいない空っぽの廊下がやけに目にしみた。
階段の踊り場で壁に背を預け、ひとつ深く息を吐く。
どうして、あんなにも感情を剥き出しにしてしまったのだろう。
それは、教師としての正義感などではなかった。
もっと、個人的で、どうしようもなく身勝手な感情だった。
彼がいない日々は、まるで失恋したあとのように、世界の彩度を奪っていく。
授業の合間にふと彼の横顔が浮かぶ。静かに本を読む姿、教室の隅で微かに笑った表情。
戻ってきて。お願いだから。もう一度、ただ会いたい。
その願いが、もう教師としてのそれを、とっくに逸脱していることを、わたしは痛いほど自覚していた。




