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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 一章 誰にも知られずに咲く
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第5話「落ちた手帳と、開かれた記憶」

 月曜の朝。

 一時間目の授業を終えた職員室は、コーヒーの香りと、次の授業へ向かう教師たちの慌ただしい気配に満ちていた。


 わたしは自席で授業準備をしていたが、その手元には、開きかけたままの手帳があった。

 生徒の名前や出欠の記録に混じって、誰にも見せるつもりのない、ごく私的な夢の走り書きが挟まっている。


「先生、これ……落ちましたよ」


 その声に振り返ると、真人がいた。

 彼は、わたしの手帳を両手でそっと差し出していた。きちんと閉じられている。でも、わたしが置いたときよりも、ページの端がわずかにずれている気がした。


 見られただろうか。

 いや、まさか。


 でも、もし。


 胸が詰まる。


 見られてはいけない場所に、そっと触れられたような、けれどそれを拒絶できないような、甘い痺れにも似た感覚が背筋を走った。


「あっ、ありがとう……」


 声が震えないように、そう言うのが精一杯だった。

 真人は、にこっと少年らしい笑みを浮かべると、それ以上なにも言わずに立ち去っていく。

 彼の手が触れていた手帳の表紙の、微かな温もりだけがわたしの掌に残った。


 ◇


 放課後、誰もいなくなった教室で、わたしはひとり指導案を整えていた。

 けれど、意識はそこにはない。

 今朝、真人に手渡された手帳のことが、ずっと頭から離れなかった。


 あのページには、わたししか知らないはずの記憶の断片がある。

 先週の朝に見た、あまりに鮮明な夢。

 薄暗い境内、焚き火の匂い、神主のような装束の男たち、そして――小さかったわたしの手を引いてくれた、名も知らぬ少年。


 わたしの、初恋のひと。

 本当に実在したのかさえ分からない、痛みのように優しい記憶。

 それを誰にも見せるつもりなどなかったのに。


「先生」


 その声に、心臓が跳ねた。

 振り返ると、黒髪の前髪を少し乱した真人が、教室の入り口に立っていた。


「朝、職員室で返したあの手帳……ごめん。開いてたページ、ちらっと見えちゃって」


 やめて、と心の中で叫ぶ。

 どうか、見ていないと否定して。


「“神主”とか、“焚火”とか、書いてあったよね。あと、“少年”って――あれ、夢の話?」


 逃げ場は、なかった。

 胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。


「……それ、見たの?」

「うん。でも、ごめん……勝手に開けたわけじゃないんだ。ほんとに偶然で……でも、なんか、気になって」


 彼は悪びれる様子もなく、ただまっすぐにわたしを見ていた。その嘘を許さない瞳から逃れるように、わたしは視線を逸らす。


「夢よ。ただの、昔の記憶が混ざっただけだと思う」

「その“少年”って、誰?」


 なぜ、そこを訊くのだろう。

 息が詰まる。


 答えられない。

 でも、この瞳を前にして、嘘もつけなかった。


「……昔、好きやった子……だと思う。子供のときの話」


 その言葉が自分の口から出ていくのを、わたしはどこか他人事のように聞いていた。


「そっか」


 真人はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、一歩だけ近づいて、黒板の方に目をやりながら、まるで独り言のように言った。


「じゃあ、俺じゃないんだ、その子」


 冗談めかした、軽い口調だった。

 でも、その声の響きにわたしの胸はまた、ひどく痛んだ。

 違う。夢の中の少年は、あなたじゃない。


 でも、“いま”のわたしが焦がれてやまないのは、間違いなく目の前にいるあなたなのだ。

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