第5話「落ちた手帳と、開かれた記憶」
月曜の朝。
一時間目の授業を終えた職員室は、コーヒーの香りと、次の授業へ向かう教師たちの慌ただしい気配に満ちていた。
わたしは自席で授業準備をしていたが、その手元には、開きかけたままの手帳があった。
生徒の名前や出欠の記録に混じって、誰にも見せるつもりのない、ごく私的な夢の走り書きが挟まっている。
「先生、これ……落ちましたよ」
その声に振り返ると、真人がいた。
彼は、わたしの手帳を両手でそっと差し出していた。きちんと閉じられている。でも、わたしが置いたときよりも、ページの端がわずかにずれている気がした。
見られただろうか。
いや、まさか。
でも、もし。
胸が詰まる。
見られてはいけない場所に、そっと触れられたような、けれどそれを拒絶できないような、甘い痺れにも似た感覚が背筋を走った。
「あっ、ありがとう……」
声が震えないように、そう言うのが精一杯だった。
真人は、にこっと少年らしい笑みを浮かべると、それ以上なにも言わずに立ち去っていく。
彼の手が触れていた手帳の表紙の、微かな温もりだけがわたしの掌に残った。
◇
放課後、誰もいなくなった教室で、わたしはひとり指導案を整えていた。
けれど、意識はそこにはない。
今朝、真人に手渡された手帳のことが、ずっと頭から離れなかった。
あのページには、わたししか知らないはずの記憶の断片がある。
先週の朝に見た、あまりに鮮明な夢。
薄暗い境内、焚き火の匂い、神主のような装束の男たち、そして――小さかったわたしの手を引いてくれた、名も知らぬ少年。
わたしの、初恋のひと。
本当に実在したのかさえ分からない、痛みのように優しい記憶。
それを誰にも見せるつもりなどなかったのに。
「先生」
その声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、黒髪の前髪を少し乱した真人が、教室の入り口に立っていた。
「朝、職員室で返したあの手帳……ごめん。開いてたページ、ちらっと見えちゃって」
やめて、と心の中で叫ぶ。
どうか、見ていないと否定して。
「“神主”とか、“焚火”とか、書いてあったよね。あと、“少年”って――あれ、夢の話?」
逃げ場は、なかった。
胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。
「……それ、見たの?」
「うん。でも、ごめん……勝手に開けたわけじゃないんだ。ほんとに偶然で……でも、なんか、気になって」
彼は悪びれる様子もなく、ただまっすぐにわたしを見ていた。その嘘を許さない瞳から逃れるように、わたしは視線を逸らす。
「夢よ。ただの、昔の記憶が混ざっただけだと思う」
「その“少年”って、誰?」
なぜ、そこを訊くのだろう。
息が詰まる。
答えられない。
でも、この瞳を前にして、嘘もつけなかった。
「……昔、好きやった子……だと思う。子供のときの話」
その言葉が自分の口から出ていくのを、わたしはどこか他人事のように聞いていた。
「そっか」
真人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、一歩だけ近づいて、黒板の方に目をやりながら、まるで独り言のように言った。
「じゃあ、俺じゃないんだ、その子」
冗談めかした、軽い口調だった。
でも、その声の響きにわたしの胸はまた、ひどく痛んだ。
違う。夢の中の少年は、あなたじゃない。
でも、“いま”のわたしが焦がれてやまないのは、間違いなく目の前にいるあなたなのだ。