第57話「最初の村人」
舗装がはげ、土が顔をのぞかせる道を進んでいくうちに、ぽつり、ぽつりと人家が見えはじめた。
板張りの壁に、錆の浮いたトタン屋根。軒下には、使い込まれた農具が整然と吊るされている。縁側に干された色褪せた座布団や、風にそよぐ洗濯物。そういった暮らしの断片のすべてが、まるで時間そのものから取り残されたかのように、張り詰めた静けさに包まれていた。
落合は、ここが自分の求めていた場所に近いと感じていた。文明の喧騒から隔絶された、静かで、忘れられた土地。だが、その静けさは、安らぎよりもむしろ、肌にまとわりつくような居心地の悪さを伴っていた。
道端で、ひとりの老人が屈みこんで、黙々と鎌で草を刈っていた。
麦わら帽子の下、日に焼けて深く刻まれた皺が、彼が生きてきた年月の長さを物語っている。落合の足音に気づいたのか、老人はゆっくりと顔を上げた。
その目は、都会から来た見慣れない男の姿を、品定めするように細められている。訝しむ色と、純粋な好奇心。その二つが、皺の奥で静かに揺れていた。
落合は、どう切り出すべきか一瞬迷い、当たり障りのない挨拶を口にした。
「……こんにちは」
「……ああ」
老人は短く応えると、再び手元の草に視線を落とす。だが、その意識がこちらに向けられているのは明らかだった。落合は、少しだけ声の調子を整え、言葉を続けた。
「すみません、少しお聞きしたいのですが。この辺りに、泊まれるような場所……宿屋などはありますか?」
その言葉に、老人はようやく鎌を置いた。そして、諦めたような、あるいは面白がるような、どちらともつかない表情で落合を見上げた。
「宿ねぇ……。そげんもんは、この村にはなかとよ」
訛りの強い、朴訥とした口調だった。
「旅の人かね?こげな山奥まで、よう来たねぇ」
「ええ、まあ……少し、気晴らしに」
「ふぅん。……まあ、泊まる場所がないわけでもなか。困ったときは、村長さんとこば訪ねるのが一番や。あそこなら、何とかしてくれるやもしれん」
老人は、立ち上がるのも億劫そうに、顎で道の先をしゃくって見せた。
「この道をまっすぐ行って、坂を上った先。一番大きな屋敷がそうやけん。日向さん、言うたら誰でもわかる」
日向。その名を心の中で反芻しながら、落合は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。助かります」
彼が再び歩き出すと、背後で老人が「気ぃつけてな」と呟くのが聞こえた。その声には、親切とは少し違う、どこか意味ありげな響きが混じっていたような気がした。
老人に教えられた通り、落合は村の奥へと続く一本道を進んだ。
道は緩やかな坂になり、両脇には黒い瓦屋根の古民家が、息を潜めるようにして立ち並んでいる。どの家も人の気配はなく、静まり返っていた。時折、軒先に吊るされた風鈴が、風もないのに、ちりん、と乾いた音を立てるのが、かえって不気味だった。
道の脇には、名も知らぬ草花が夏の陽射しを浴びて力強く咲いている。その生命力だけが、まるで時間が止まったかのようなこの村で、唯一動いているもののように思えた。
彼が角を曲がろうとした、その時だった。
細い路地から、ひとりの少女が駆け出してきた。
「わっ……!」
咄嗟に身を引いたが、少女の小さな肩が、彼の太腿にこつんとぶつかる。少女はバランスを崩し、その場にぺたんと尻餅をついた。
「おっと……大丈夫かい?」
落合が手を差し伸べると、少女はぱちりと大きな目を見開いて、彼を見上げた。年の頃は九つか十か。日に焼けた肌に、切りそろえられた黒髪。どこにでもいる田舎の子どもだったが、その黒い瞳だけが、年齢にそぐわないほど静かで、どこか物事の奥底まで見透かすような深さを持っていた。
少女は彼の助けを借りるでもなく、すぐに自分で立ち上がると、スカートについた土をぱんぱんと払った。
「……ごめんなさい」
それだけを小さな声で呟くと、彼女は再び、来た道とは違う路地の奥へと駆け出していく。その背中を、落合はただ呆然と見送っていた。
一瞬の出来事。けれど、あの少女の静かな瞳の光だけが、妙に強く彼の印象に残った。
再び歩き出すと、坂の傾斜は次第に急になっていく。
息が切れ始めた頃、道の先に、ひときわ大きな屋敷が見えてきた。
黒く、重厚な瓦屋根。白い漆喰の壁。周囲の家々とは一線を画す、堂々とした門構え。ここが、老人の言っていた村長の家なのだろう。
落合は門の前で一度立ち止まり、ごくりと喉を鳴らした。
これから自分は、この村の、そして自分自身の運命の扉を、その手で開けようとしていた。




