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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第二部 一章 根は静かに、腐る
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第56話「久邑村へようこそ」

 博多駅のホームに降り立った瞬間、ねっとりとした熱気が全身にまとわりついた。東京のそれとは違う、湿り気を多分に含んだ南国の空気。行き交う人々の言葉のイントネーションも、アナウンスの響きも、すべてが彼の知る日常からわずかにずれていた。


 彼は、自分が完全に異邦人になったのだと悟った。

 駅構内のカフェで、味のしないコーヒーを啜りながら、彼はその場で購入したばかりの折り畳み式の地図をテーブルいっぱいに広げた。九州全域が描かれたそれは、あまりに大きく、端がカップのソーサーに乗り上げている。


 太い赤線で描かれた高速道路と国道の軌道が、主要な都市を網の目のように結んでいた。

 福岡、熊本、鹿児島。地図の上で指を滑らせてみるが、どこも結局は東京と同じだ。ビルがあり、人がいて、社会がある。彼が求めているのは、そんな場所ではなかった。


 やがて彼の指は、九州の中央部に広がる、広大な緑色の領域の上で止まった。そこには、ほとんど道路も、地名さえも記されていない。まるで、文明から取り残された、空白地帯。

 その深い緑の中に、彼は吸い寄せられるように視線を落とした。


 あった。宮崎県の山間部、熊本との県境近く。日本三大秘境のひとつ、とどこかで聞いたことがある。

 彼は、そこに惹かれた。人がいない場所、忘れられた場所へ行きたかった。自分自身を、一度捨ててしまうために。


 目的地は、決まった。

 そこからの移動は、来た時とは比べ物にならないほど、遅く、不便だった。

 在来線に乗り換え、窓の外の景色が徐々に鄙びていくのを眺める。さらに、終着駅からは一日に数本しか出ていないローカルバスに乗り継いだ。乗客は、彼を除けば、買い物帰りらしい数人の老人だけだった。


 バスは、エンジンを唸らせながら、険しい山道へと入っていく。

 どこまでも続く緑の壁。ガードレールの向こうには、底も見えない深い谷が口を開けている。

 落合は、車窓に額を押し付けたまま、ただその景色が流れていくのを見つめていた。

 この深い緑のどこかに、自分が消えてしまえる場所がある。そう、信じていた。


 バスは山道を抜け、谷あいへと降りるように速度を落としていく。

 車窓から見える景色は、確実にその質を変えていた。近代的な建造物はとうに消え失せ、目に映るのは、伸び放題の草に埋もれた廃屋と、頼りなげに電線が垂れる、間隔の広い電柱だけ。

 人の気配が、ない。光も、喧騒も、生活の音すらも。ただ、音のない緑と、時折響く鳥の声だけが、この空間を支配していた。


 やがて、運転手がミラー越しに彼を一瞥し、「お客さん、終点ですよ」と告げた。

 落合がバスを降りると、ドアが閉まる乾いた音を最後に、世界は完全な沈黙に包まれた。バスが土埃を上げて去っていくと、そこには彼一人だけが取り残される。


 目の前に、古びた橋が架かっていた。

 苔むしたコンクリートの欄干。その袂には石碑が立ち、傾いた看板が風もなく揺れている。


 《久邑村へようこそ》


 かすれた白いペンキで書かれたその文字を、落合はただ見つめていた。

 ひんやりとした空気が、頬を撫でる。土の匂い、深い緑の匂い。そして、その奥にかすかに混じる、鉄錆のような、嗅ぎ慣れない香り。

 ジャーナリストとしての本能が、わずかに疼いた。忘れていたはずの好奇心が、心の底で静かに頭をもたげる。


 彼は、まるで何かに導かれるように、その橋へと一歩、足を踏み出した。

 橋の下を流れる川は、底が見えないほどに黒く、ただ静かに流れている。全長は数十メートルのはずなのに、向こう岸が、ひどく遠く感じられた。

 一歩、また一歩と進むにつれて、背後の世界の音が遠のいていく。


 橋を、渡りきってしまった。

 その瞬間、風がぴたりと止んだ。

 彼は、戻れない場所へ来てしまったのだという予感を、まだ知らずにいた。落合は、傾いだ看板に背を向け、村の喉元へと、吸い込まれるように深く踏み込んでいった。

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