第55話「旅立ちの日に」
翌朝、落合は夜明けと共に目を覚ました。
眠ったという感覚はなかったが、思考は奇妙なほどに澄み渡っていた。彼はベッドから起き上がると、まず部屋の窓をすべて開け放った。ひやりとした朝の空気が流れ込み、淀んでいた室内の空気をゆっくりと押し出していく。
それから、彼は掃除に取り掛かった。
それは、過去をゴミ袋に詰めていく作業に他ならなかった。
取材で書き溜めたノートの束。一行も採用されなかった企画書の山。いつか役に立つと信じていた専門書。そのすべてが、かつての情熱の燃えカスだった。彼は未練を断ち切るように、それらを迷いなく捨てていく。部屋が片付いていくにつれて、彼の心の中もまた、がらんどうの静けさを取り戻していった。
昼過ぎ、彼はオフィスへと向かった。
昨日まで自分の居場所だったはずの場所は、すでに他人のテリトリーに変わっていた。私物がまとめられた段ボール箱は、デスクの脇に寂しく置かれている。
何人かの同僚が気まずそうに会釈をしたが、誰も、彼の目を見ようとはしなかった。
彼は無言で箱を抱え上げ、エレベーターのボタンを押す。扉が閉まる瞬間、ガラス越しに見えたフロアの光景が、永遠に失われた過去として焼き付いた。
自宅アパートに戻ると、彼は腕に食い込んでいた段ボール箱を、がらんどうになった部屋の真ん中に、そっと置いた。
それは、昨日までの彼の人生のすべてであり、今となっては彼が捨て去るべき過去そのものだった。彼はその箱に封をするように蓋を閉じ、一度だけ、無感情にその上面を撫でた。
まるで、かつての自分のための墓標を立てるかのように。
情熱と挫折のすべてをそこに置き去りにし、彼は最低限の着替えだけを詰めたボストンバッグを肩にかける。もう、この部屋に未練はなかった。
玄関のドアに鍵をかける。カチリ、という乾いた金属音だけが、別れの言葉の代わりだった。
地上に降り立つと、街は相変わらずの喧騒に満ちていた。
だが、もう彼の心を苛むものは何もない。雑踏は他人事だった。ただ黙々と、駅へと向かう。
ターミナル駅の巨大な電光掲示板に、無数の地名と発車時刻が流れていく。彼はその中から、たったひとつの文字列を探し出した。
「博多」。
それが、今の彼にとって唯一の道しるべだった。彼は自動券売機で迷わず片道切符を購入すると、九州へと向かう新幹線のホームへと、その足を向けた。もう、振り返ることはなかった。
やがて、定刻通りに重い車体が滑り出した。
落合は窓側の席に深く身を沈め、流れ始める景色を、ただ感情のない目で見送っていた。びっしりと立ち並んでいた灰色のビル群が、次第にその密度を失い、巨大な倉庫や工場地帯へと姿を変えていく。それらもやがて途切れ、見慣れない郊外の住宅地が、手のひらの上で転がすように現れては消えていった。
新横浜を過ぎたあたりで、視界の右手に、富士の姿が浮かび上がる。
けれど、その雄大な稜線も、今の彼の心には何の感慨ももたらさない。それは、ただそこにあるだけの、巨大な絵画に過ぎなかった。
名古屋、京都、新大阪。
駅を通過するたびに、窓の外の景色は目まぐるしくその表情を変える。都会の喧騒が遠のき、車窓を流れる色の主役は、コンクリートの灰色から、田園の深い緑へと移り変わっていた。
西へ、ただ西へ。
列車は日本の大動脈を、血が流れるように進んでいく。その絶対的な速度と正確さの中で、落合だけが、まるで時が止まったかのように座席に沈んでいた。
岡山を過ぎ、車窓に映る建物の背が低くなった頃、陽が傾き始めた。
空が、燃えるような茜色に染まっていく。山々の稜線は黒い影絵となり、その麓に広がる家々の窓に、ぽつり、ぽつりと橙色の灯りがともり始める。
九州が、近い。
その予感が、肌で感じられた。東京の乾いた空気とは違う、どこか湿り気を帯びた、濃密な緑の匂いが車内にまで届くような錯覚。
やがて、関門海峡の海底トンネルを抜けたとき、車内の空気がふっと変わった。
列車は、ついに博多の駅へと滑り込んでいく。




