第54話「賽は投げられた」
無機質な音が、がらんとしたオフィスに虚しく響いていた。
落合大輔は、デスクトップの白い画面を前に、意味もなく指を動かし続けている。キーを叩くたびにプラスチックの乾いた音が生まれ、それは言葉になる前の骸となって、モニターの片隅に積み上がっては消えていった。
点滅を繰り返すカーソルだけが、この部屋で唯一の生命体のように見えた。
お前には何が書けるのか、と。そう問いかけながら、その細い縦線は冷たい瞬きを止めない。
二時間。この白い砂漠と睨み合って、彼が絞り出せたのは、ありきたりな特集記事の見出し、その一行だけだった。
夢を抱いてこの業界に飛び込んで、もう五年が経つ。
だが、現実はどうだ。二十七歳、独身。雑誌の契約記者という肩書は、いつクビを言い渡されてもおかしくない不安定な立場を糊塗するための、薄っぺらい名刺でしかなかった。
不意に、背後で重い足音がした。
振り返るまでもない。このフロアで、これほどまでに空気を重くする靴音の主は一人しかいなかった。
デスクのパーティションの向こうから、低い声が降ってくる。
「落合。進捗はどうだ」
編集長の、温度のない声だった。
落合は弾かれたように立ち上がったが、その視線はPCのモニターに縫い付けられたままだ。
「……いえ、それが、まだ……」
「まだ? それが答えか」
編集長はゆっくりと回り込み、落合のモニターを無感情に見下ろした。その画面に映る空虚な一行を認めると、彼はため息とも違う、深く静かな息をひとつ吐いた。
「お前の記事にはな、血が通ってないんだよ」
その言葉は、怒声よりもずっと深く、落合の胸に突き刺さった。
「当たり障りのない事実を並べて、それらしい言葉で飾り立てて……そんなものは、ただのレポートだ。読者の心は一ミリも動かせん。お前は、もっとリアリティのあるものを書け。自分の足で稼いだ、そこにしかない現実をだ」
編集長は、デスクの端に指先でとん、と軽く触れた。
「次の企画。それが上がらなければ、お前はクビだ」
宣告だった。
胃の腑が、急速に凍りついていくのを感じた。反論も、言い訳も、喉に張り付いて出てこない。視界が白く滲み、オフィスの蛍光灯がやけに眩しく感じられた。
「その記事が出来上がるまで、会社に戻ってくるな。お前の席は、もうないと思え」
それだけを言い残し、編集長は背を向けた。
落合は、私物をまとめるための段ボール箱を渡され、同僚たちの憐れむような、あるいは無関心な視線の中を、夢遊病者のように歩いた。
背後でオフィスのドアが閉まる音が、彼の世界の終わりを告げていた。
じりじりと肌を焼くアスファルトの照り返しが、オフィスビルのガラス窓に反射している。街は、彼の絶望など意にも介さず、いつも通りの喧騒に満ちていた。人の波、車のクラクション、遠くで響くサイレンの音。そのすべてが、ひどく遠い世界の出来事のように聞こえた。
落合は、スーツのジャケットを手に持ったまま、ただ立ち尽くす。
ショーウィンドウに映った自分の姿は、見覚えのない、疲弊しきった男の顔をしていた。
思考を放棄した足は、吸い寄せられるように、駅前の雑居ビル一階にテナントを構える牛丼チェーンへと向かっていた。けたたましい電子音の歓迎に迎えられ、券売機の無機質な光が目に痛い。彼は一番安い並盛のボタンを、感情のこもらない指先で押し込んだ。
カウンターだけの狭い店内。隣の席では、くたびれた様子のサラリーマンが、掻き込むようにして食事を終え、慌ただしく席を立つ。その向こうでは、制服姿の高校生たちが、些細なことで屈託なく笑い合っていた。
そのすべてが、厚いガラスの向こう側にある風景のように、落合には現実感がなかった。社会という名の巨大な歯車から弾き出された今、自分だけが、時間の流れから取り残されている。
程なくして、湯気の立つ丼が目の前に置かれた。
立ち上る甘辛い醤油の香りが、空腹であるはずの胃を鈍く刺激する。彼は紅生姜を無造作に乗せると、プラスチックの箸を割り、肉を一口だけ口へと運んだ。
味が、しなかった。
まるで砂を噛んでいるかのようだった。舌の上で、ただ熱と食感だけが意味もなく転がっていく。味覚が、思考と共に麻痺してしまったかのようだ。
もう一口、今度はご飯と共に頬張るが、喉がそれをうまく受け付けない。無理に飲み込もうとすると、胃の腑が固くこわばり、こみ上げてくる吐き気を必死でこらえた。
だめだ。
会社を追い出されただけではない。自分は今、食事という、生きるための基本的な行為さえ、まともにこなすことができなくなっている。
その事実が、編集長に突きつけられたクビの宣告よりも、ずっと重く、彼の心を打ちのめした。
丼の中身を半分も食べ進められないまま、彼は箸を置いた。
誰も見てなどいない。わかっている。だが、すべての視線が自分に向けられているような、耐え難い自己嫌悪が背中にまとわりついていた。
彼は逃げるように席を立ち、まだ熱の残る丼を背にして、店の外へと出た。
夕暮れ前の生ぬるい風が、火照った頬を不快に撫でていく。さて、これからどうするべきか。その問いに、答えはなかった。
自宅アパートのドアを開けても、彼の帰りを迎える明かりはない。
ワンルームの室内は、主の心の内をそのまま映したかのように、雑然と散らかり、静まり返っていた。飲みかけのコーヒーカップ、床に積み上げられた取材資料と書籍の山、そして、脱ぎ捨てられたままのワイシャツ。そのすべてが、かつて彼が抱いていた情熱の残骸だった。
落合は、吸い込まれるようにベッドへ倒れ込む。軋むスプリングの音が、空虚な部屋に鈍く響いた。天井の、見慣れた木目の染みをぼんやりと見つめながら、自問自答が始まる。
何が、駄目だったんだろうか。
いつから、間違えてしまったんだろうか。
書きたかったはずだ。誰かの心に届く、真実の言葉を。この世界のどこかで起きている、名もなき現実を。その一心で、がむしゃらに走ってきたはずだった。
だが、現実は彼に何も与えてはくれなかった。才能という壁、要領の良さという壁、そして、リアリティという、あまりに高く分厚い壁。気づけば、自分は空っぽになっていた。
このまま、この部屋で腐っていくのか。社会から切り離され、誰にも知られず、ただ息をしているだけの存在として。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、落合の身体が衝動的に跳ね起きた。
違う。
まだ、終われない。終わってたまるか。
彼は壁に貼られた、一枚の日本地図を睨みつけた。
そうだ、一度すべてを捨てて、旅に出よう。会社も、仕事も、この息の詰まるような東京も、すべて忘れて。気晴らしだ。そう、ただの気晴らし。その旅のどこかで、何か面白い記事のネタでも見つかれば儲けものだ。
そんな、ほとんど祈りに近い精神で、彼は決意した 。
指先が、地図の上をなぞる。本州を抜け、四国を越え、その先の、西の果て。
まずは、端から行こう。そう思った。
「……九州、か」
ぽつりとこぼれたその呟きが、彼の新しい旅の始まりを告げていた。
ここが、あの「久邑」という名の村と出会う、運命の分岐点になるとも知らずに 。




