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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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第53話「しずく、堕ちて咲く」

 昼休みを告げるチャイムが鳴り響くと、わたしは教科書を抱えた真人を、少し離れた場所にある準備室へと導いた。

 今日の昼食は、二人きりで食べる約束をしていたからだ。


「授業の手伝い、助かったよ。ありがとね、そのお礼」


 そう言って、可愛らしい風呂敷に包んだ二段重ねのお弁当箱を机に広げると、真人は「やった」と子供のように目を輝かせた。


 わたしたちの関係を疑う声は、もう学校にはなかった。

 あの村から東京に戻った後、わたしは教頭にすべてを話したのだ。もちろん、あの場所で起きた惨劇のことは伏せたまま。

 真人が複雑な家庭の事情で一人で上京してきていること、そしてわたしは、ただ生活に困窮する教え子の身を案じ、教師として彼の相談に乗っているだけなのだと。


 その説明は、幸いにも受け入れられた。それどころか、生徒の安全を守るため、今後もよろしく頼むとまで言われたのだ。

 そのおかげで、以前よりもずっと気兼ねなく、わたしたちは校内で言葉を交わせるようになった。


 とはいえ、油断は禁物だ。

 わたしはあくまで身上を案じる担任教師で、彼は授業を手伝ってくれる殊勝な生徒。

 それが、今のわたしたちを繋ぐ表向きの関係性だった。


「ん、うまい。この卵焼き、めっちゃ好き」

「そう?ちょっと甘すぎたかと思ったけど」


 わたしが作ったお弁当を、真人が本当に美味しそうに頬張る。その幸せそうな横顔を見つめているだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 この穏やかな日常こそ、わたしが命を懸けて守りたかったものだ。


 不意に、真人がお箸を置いて、悪戯っぽく笑った。


「ねえ、先生。食後のデザートに、マジック見てかない?」


「マジック?」とわたしが聞き返すと、真人は制服のポケットから取り出した百円玉を、わたしの手のひらに乗せた。


「よく見てて」


 真人はそう言うと、わたしの手に軽く自分の手のひらをかざす。けれど、触れてはいない。

 わたしは彼の指先と、手のひらに乗った硬貨を瞬きもせずに見つめた。


 次の瞬間、信じられないことが起きた。


 何の接触もないまま、百円玉が、ふわりと数ミリほど宙に浮き上がったのだ。まるで重力から解き放たれたかのように静止し、準備室に差し込む陽光を鈍く反射してきらめいている。


「え……」


 息を呑んだ、その時。百円玉は、こつん、と音を立ててわたしの手のひらに落ちた。

 まるで、今まで何も起きていなかったかのように。


「い、今の、なに……!?どうやったの!?」


 わたしは目を丸くして、真人の手や袖口を慌てて確認するが、糸も磁石も見当たらない。

 真人はただ、「んー、企業秘密」と得意げに笑うだけだった。その笑顔は、どこまでも無邪気で、先ほどの不可解な現象との繋がりを一切感じさせなかった。


 わたしの混乱をよそに、真人は「どうだ」と言わんばかりに得意満面の笑みを浮かべた。

 そして、食べ終えたお弁当箱を片付けながら、まるで今思いついたかのように言った。


「これさ、次の選考動画に入れてみようかなって」

「え?」

「だから、マジック。マジックができるアイドルって、いなくない? 歌って踊れて、おまけにマジックまでできますって、絶対強い武器になるって」


 その突飛な発想に、わたしは一瞬、呆気に取られた。

 けれど、彼のきらきらと輝く瞳を見ているうちに、その言葉が決して冗談ではないことを悟る。


 確かに、彼の言う通りかもしれない。

 真人は、人を惹きつける不思議な魅力を持っていた。

 それが、アイドルという夢を目指す上での一芸になるというのなら、それもまた彼らしいやり方なのだろう。


「たしかに、そんなアイドルあんま聞かないかも」


 わたしがそう言うと、真人は「でしょ?」と満足げに頷いた。その自信に満ちた姿は、頼もしくもあり、どこか危うくもあったけれど、今のわたしには、ただひたすらに眩しく映っていた。


 やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが、わたしたちの短い秘密の時間を終わらせた。


 賑やかな廊下を抜け、再び教壇に立つ。

 胸の奥にはまだ、あの眩しさが残っていた。

 真人が見せた、あの不思議な光が。


 わたしは一度、心を落ち着けるように息を吸い込み、窓の外へと視線を向けた。

 窓の外では、幾十もの蝉が空気を震わせるように鳴き叫び、季節が紛れもない夏であることを告げていた。

 ゆっくりと回る扇風機の風は生ぬるく、ただ教室の熱をかき混ぜているに過ぎない。


 天井の蛍光灯が放つ無機質な白さがやけに目に付くのは、おそらく、この教室にいる誰もが、近づきつつある一学期の終わりを、夏のけだるさの中に感じ取っているからだろう。

 わたしは黒板を背に、右手には一本のチョーク、左手には教科書を持っている。

 開いているページには『罪と罰』が記されている。


「……ラズミーヒンはこう言います。罪というものは、人を滅ぼすのではない。罪に対する思いが、人を蝕むのだ、と」


 わたしの声が、静まり返った教室を満たした。

 最前列の女子生徒が真新しいノートにペンを走らせ、男子生徒の一人は暑さにうんざりしたように頬杖をついている。


「では、主人公ラスコーリニコフの『思い』とは、一体何だったのでしょう?」


 生徒たちに問いかけながら、わたしは無意識に、己の右手へと視線を落とした。

 乾いたチョークの粉が付着した、華奢な指。その指先に、爪の節に、あの夜の記憶が幻のように蘇る。

 引き金を絞った瞬間の、骨に響く反動と硝煙の熱が、今もなお生々しくこびりついているかのようだ。


 ――悪魔やな……地獄に落ちるぞ。


 ふと、血を吐きながらも不気味に笑っていた、あの長髪の男の声が脳裏をよぎった。

 途端に、口の中がからからに乾いていく。

 舌で唇を湿らせると、背筋に一筋、冷たいものが走った。


 わたしは、十一人の人間を殺した。


 頭の中で、その数字を静かに反芻する。

 十一人、という言葉の響きは、どこか他人事のようだった。

 だが、その数字がもたらす罪悪感よりも先に、ある種の正当性が胸をよぎる。

 わたしがやらなければ、真人は、そしてチカは、今頃どうなっていただろうか。


 罪の意識がないわけではない。それは確かに心の底に澱のように沈んでいる。

 けれど不思議と、その重みで息苦しくなることはなかった。

 わたしの胸を満たしているのは、後悔ではなく、今も鮮やかな真人の温もりだったからだ。


 あの夕暮れの、力強い抱擁。あのキスの味。夕方と夜の狭間で感じた、あの風の匂い。

 誰にも知られず命を削り、たった一つの命を救った、という事実。


「……罰とは何か。罪とは、それが法によって裁かれたときに初めて成立するものなのか。それとも、我々の心の中にこそ、裁き手は存在するのか――」


 声が震えていないか、一瞬不安がよぎる。けれど、生徒たちの視線は真剣そのものだった。

 誰も、わたしの過去など知る由もない。

 だからこそ、わたしは今、この場所に立っている。


 甲高いチャイムの音が、夏の終わりを告げるように鳴り響いた。

 生徒たちが一斉に教科書を閉じる、ばらばらとした音がする。

 わたしは教壇に立ったまま、再び右の手のひらを見つめた。


 白いチョークの粉が、指紋も、血の記憶も、何もかもを覆い隠すように付着していた。

 わたしは、祈るように、ほんのわずかに目を閉じた。

 そして再び目を開けたときには、黒板に向き直っていた。


 ◇


 あれから数日が過ぎ、今日は学期末を締めくくる期末テストの最終日だ。

 生徒たちの賑やかな声が消えた教室は、まるで別の場所のように静まり返っている。聞こえるのは、ペンが懸命に紙を擦る音と、壁の時計が時を刻む無機質な音だけ。

 わたしは試験監督として、その静寂のなかをゆっくりと歩き回っていた。


 わたしの視線が、窓際の席に座る真人の背中に注がれる。彼はただ真剣な表情で、解答用紙に向き合っていた。あの村で生け贄として扱われた少年でも、わたしと秘密を共有する相手でもない。今はただ、テストに挑むひとりの高校生だ。


 この穏やかな時間を守ること。それが、今のわたしにできる唯一の罪滅ぼしなのかもしれない。

 チョークの粉に隠した血の記憶は、決して消えることはないだろう。

 それでも、わたしはこの教壇に立ち続ける。


 放課後。

 解放感に満ちた生徒たちの喧騒を背に、わたしは重い疲労を引きずるように学校を出る。

 夕暮れの街を電車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 日がずいぶんと長くなった。


 自分の部屋の鍵を取り出し、マンションのドアを開ける。

 わたしが守りたかったものが待つ、あの部屋へ。心なしか、その足取りは少しだけ軽くなっていた。


 むっとする外気の熱から逃れるように玄関のドアを開けると、ひやりと肌を撫でる冷房の風と共に、弾けるような笑い声がリビングから聞こえてきた。


「いやいや、もう一回! もう一回やらせてってば!」


「ちょっと待って真人くん、今の顔ぜったい使えんって!」


 何事かと、わたしは靴を揃えるのもそこそこに、そっとリビングのドアを開けた。


 燦々と光が差し込む部屋の中央。ソファの前、三脚に固定されたスマートフォンに向かって、チカと真人が何やら楽しそうに奇妙なダンスを踊っていた。


「……なにこれ」


 わたしの声に、二人の動きがぴたりと止まる。

 真人は照れ臭そうに、汗で湿った髪をふわっとかき上げた。


「あ、えみ。……ちょっとね、アイドル事務所の二次選考用の動画」


 隣でチカも、にこにこと人の良い笑顔で手を振ってくる。


「一次は通ったんよ、すごくない?ほら、文化祭の動画がネットに出てたやろ?あれがバズってね」


 わたしは呆れたような目を二人に向けながら、肩にかけていた鞄を床に置いた。


「……人の家で勝手にイチャイチャしないでくれます?」


「え〜嫉妬?それは嫉妬?」


「完全に嫉妬だと思うけど」


 悪びれもせず肩を寄せ合いながら笑う二人を見て、本気でむっとしたのはほんの一瞬で、すぐにその馬鹿馬鹿しさが込み上げてきて、わたしもつられて笑ってしまった。

 空気は軽く、湿り気のない乾いた夏の午後がそこにはあった。


 肩を寄せ合ってじゃれ合う二人を見て、わたしは思い出したように尋ねた。


「そういえば、あのマジックのやつ。もう動画は撮ったの?」


 わたしの言葉に、真人はまだ笑いを堪えながら「んー、あとで」と手をひらひらと振る。

 その気のない返事を聞いた途端、ぴたり、とチカの笑い声が止まった。


「え、なにそれ」


 彼女は小首を傾げ、今まで寄りかかっていた真人の肩を、今度は指でつん、とつつく。


「マジックって何? うちはそげなこと、なんも聞いてないよ」


 わたしは、じゃれ合う二人の様子に思わず口元を緩めた。その微笑ましい光景を邪魔しないように、わたしは静かに立ち上がり、喉の渇きを潤すためキッチンへと足を向けた。


 背後ではまだ、「だから企業秘密なんだってば」「え〜、ケチ! ちょっとくらい見せてくれてもええやんか!」といった二人の声が続いている。その楽しげなやり取りが意識の端へと遠のいていく。


 冷蔵庫へ麦茶を取りに向かう途中、何気なく壁際に視線をやった、その時だった。

 コンセントに差し込まれた、見慣れない黒い物体が目に留まったのは。

 スマートフォンの充電器にしては角張りすぎていて、掃除機のコードでもない。


 何の変哲もないプラスチックの塊のようでありながら、どこか無機質で不気味な存在感を放っていた。

 わたしの記憶に、この形はなかった。


「ねえ、これ……二人のどっちか、ここに充電器刺した?」


 わたしの問いに、真人とチカはそろって首を横に振った。


「いや、俺じゃない」


「うちも、そげなもん使ってないよ?」


 わたしは眉をひそめ、その異物をそっとコンセントから引き抜いた。

 指先に伝わる、内部の精密機器が発する微かな熱と、ずしりとも軽いとも言えない奇妙な質量。

 それはまるで、小さな虫の骸にでも触れたかのような、言いようのない嫌悪感を伴っていた。


 記憶の底で、あの村の出来事と結びつく何かが蠢いた。

 けれど、わたしはそれを意識の縁で押しとどめ、かぶりを振って打ち消す。

 今は、駄目だ。この穏やかな時間を、何よりも守らなくてはならない。


 わたしは深く考えるのをやめ、その異物をためらいなくゴミ箱に投げ入れた。

 振り向けば、チカが冷蔵庫から出した冷たいお茶を差し出してくれて、真人はソファの自分の隣をぽんぽんと叩きながら「ここ、ここ」と笑っていた 。


 村から帰ってきて、こうして三人で過ごす穏やかな日々が、今ようやく始まったのだ。

 あの場所では、生きるか、殺すか、その二つしか選択肢はなかった。けれど今は違う。

 テレビののんびりとした音声が流れ、クーラーの風がカーテンを揺らし、アイドルを目指す高校生が、少し不安げな声で歌の音程を外す。


 これが、生きるということなのだと、わたしはこの時初めて知った。

 真人は、アイドルになるという夢を手にした。

 チカは、自分の足で未来へと歩き始めた。


 これから先、誰かに過去を暴かれ、背を向けられる日が来るかもしれない。

 悪夢が、眠りを妨げる夜もあるだろう。

 それでも、わたしは、あの日あの場所で、ようやく本当のニンゲンになれたのだ。


 だから、生きる。

 罪をその身に抱えても、前を向いて歩く。

 誰かに何かを教え、誰かと一緒に笑い、そうしてまた、新しい朝を迎える。


 これは、終わりじゃない。


 ここが、わたしたちの始まりなのだ。

第一部 完結。

第二部は明日の18時から順次公開予定。


合わせてこちらの小説もよろしくお願いします。

『第七人類絶滅報告書』https://ncode.syosetu.com/n9397kq/

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