第52話「決着」
「恵美ッ!」
その声が、血と硝煙に満ちた境内の静寂を、一本の光のように、まっすぐに切り裂いた。
わたしは、ライフルを落とした。
それはもはや武器ではなく、ただの重い鉄塊だった。何の感慨もなく、音も立てずに、ただ指先からするりと滑り落ちる。
次の瞬間には——。
真人が、わたしの身体を強く抱きしめていた。
全身を包み込むような力強さだった。けれど、痛くはない。衝動に任せたものではなく、わたしの存在を一つ一つ確かめるような、壊れ物に触れるような、祈るような抱擁だった。
「恵美、大丈夫?どこか怪我してない?血が……これ、自分のじゃないよね……?」
言葉が、耳元で矢継ぎ早に飛んでくる。
わたしの頬に彼の頬が触れるほど近く、その切羽詰まった息が、首筋にかかった。
「手、震えてる……無理したんじゃない?痛いところ、ない?」
問いかけは止まらない。
わたしの肩に、背中に、腕に、真人の両手が順々に触れては、その無事を確かめていく。
まるで、繊細で高価な磁器を扱うかのように。
それが——怖かった。
これほどまでに丁寧に扱われることが、信じられなかった。
ついさっきまで、この手で誰かを殺していた。
この顔は、おびただしい血で濡れている。
地獄の真ん中で、人間らしい言葉さえ失っていた。
そんなわたしに、真人はためらいなく触れ、そして、決して離れようとしない。
わたしは、何も答えなかった。
首を横にも、縦にも振らなかった。
言葉など、いまはただ余計なものに思えた。
代わりに、わたしは震える腕を伸ばした。
そして、真人の背中に、その腕をゆっくりと回す。
ぎゅっと、ただひたすらに、抱きしめ返した。
泣き声も、謝罪も、感謝も、なにもかも。
すべてを、その腕の力に込めて。
真人が、わずかに息を止めるのが分かった。
抱きしめ返されたことに、驚いたように、彼の身体がかすかに強張る。
わたしは、そのまま彼の肩に顔を埋めた。
彼の匂いがした。
日向のような安心感と、まだ消えきらない恐怖の残り香が混ざり合った、その匂い。
何かを言おうとして、唇が動いた。
でも、違うと思った。
言葉ではないものが、まだわたしたちの間には残っている。
わたしは、ゆっくりと顔を上げた。
真人の目が、すぐそこにあった。
長いまつ毛の縁が赤く染まり、その瞳からあふれ出た涙が、静かに頬を伝っていた。
その涙が、地面に落ちる前に——。
わたしは、そっと唇を重ねた。
やさしく。
でも、はっきりと。
そのキスには、いくつもの意味が込められていた。
もう大丈夫だという安堵。
もう二度と放さないという決意。
そして、もう決して一人にはしないという、未来への誓い。
真人が、ゆっくりと目を閉じた。
受け入れるように、その唇が微かに震える。
わたしの心の中で、ようやく、本当の静けさが訪れた。
長く、終わることのなかった悪夢が、その温もりの中に、静かに溶けていった。
唇を離し、二人でその場を去ろうとした、そのときだった。
空気を震わせるような低い声が、背後から届いたのは。
……オ…………チ……………アイ………………
風に紛れて溶けてしまいそうなほど微かでありながら、それは確かに人の声色を帯びていた。私の足が、縫い付けられたようにその場に止まる。隣を歩く真人も、ぴたりと動きを止めた。
今の声は、一体。
互いの顔を見合わせることもなく、まるで示し合わせたかのように、私たちはゆっくりと背後を振り返った。軋む首の骨が悲鳴を上げているような錯覚を覚える。
そこには、かつて何であったのかもはや判別もつかない、異形の亡骸が横たわっていた。地に伏すその姿は、長く伸びた影と溶け合い、まるで迫り来る夜そのものが形を成したかのようだった。胸のあたりは無惨に崩れ落ち、首はありえない角度に折れ曲がっている。
もう動くはずのない、ただの骸。それなのに、あの声は確かに、この亡骸から発せられたのだと直感が告げていた。
「……聞こえた?」
私の問いかけに、真人は強張った顔のまま、小さく頷いた。
「……ああ、聞こえた。人の声……だった。たぶん」
彼の唇から漏れた声は、かろうじて言葉の形を成していた。
再び、風が吹き抜けていく。血のような茜色に染まった空が、すべての輪郭を曖昧に溶かしていく。水面に澱むアオコの池も、無惨に砕け散った御神体の残骸も、沈みゆく陽の最後の光を浴びて、濃い影を落としていた。昼と夜の狭間にあるその風景は、胸の奥に冷たい棘を残した。すべてが終わったはずのこの場所から、言葉が届いてきたという事実が、重くのしかかる。
オチアイ、という音の断片が、思考のなかで不気味に反響する。
誰かの名だろうか。それとも、あの忌まわしい儀式の残響が今になって聞こえたというのか。あるいは――ただの幻聴。そうであってほしいと願う心とは裏腹に、耳の奥にはあの声がこびりついていた。
不意に、真人が私の手を再び強く握りしめた。その掌から伝わる力強さに、私はこわばっていた息をそっと吐き出す。
まだ、何かが終わっていないのかもしれない。そんな予感が肌を粟立たせた。
それでも私たちは、帰らなくてはならない。ここではない、私たちのいるべき場所へ。
◇
悪夢の終わりは、まるで私を苛んでいた灼けつくような白昼の終わりそのものだった。
木々の隙間から差し込む斜陽が、まだ湿り気の残る地面に光の斑点を描いていた。
ここへ来たときとはまるで違う、澄み切った空気が肺を満たす。
わたしは真人の右腕に、しがみつくようにして歩いていた。
両手で彼の腕をぎゅっと抱え込み、全体重を預けてしまう。それは恋人というよりも、大きな枕に安心しきって抱きつく子どものような姿だったかもしれない。
わたしの様子に、真人が堪えきれずといったふうに笑った。
「……恵美、ちょっと歩きにくいんだけど」
「うるさい」
そっけなく返しながらも、わたしの口元は自然と綻んでいた。息を深く吐くたびに、強張っていた肩の力がゆっくりと抜けていくのを感じる。
登ってくるあれほど重く感じたこの山道が、今はスキップでもできそうなほどに軽い。
「そもそも、俺は全身血だらけなんだ。これじゃ完全にホラー映画のラストシーンだよ」
「だとしたら、わたしは血まみれの主演ヒロインね」
軽口を叩きながら、足元の石をひょいと避けて進む。その時だった。前方の木々の深い影が不意に揺らめき、そこから滲み出すように、よたよたとひとりの老人が現れた。
見覚えのある白装束。宴で見た、あの儀式の指揮者だった。
しかし、今わたしたちの前にいるのは、魂の抜け落ちた抜け殻のようだった。
痩せこけて背は丸まり、膝ががくがくと震えている。
歯の抜け落ちた口元で、何事かをぶつぶつと呟いていたが、血に染まった真人の姿を認めた途端、その声が呪詛にも似た唸り声となって爆発した。
「なにしとるんじゃーーーッ!!」
「な、なにしとるんじゃあ! そげな姿になりよって……この、ばかもんがーー!」
老人は足を引きずりながらじりじりと近づき、震える指で真人の白装束に染みた血を指さしては、口から泡を飛ばさんばかりに嘆き叫ぶ。
わたしと真人は、顔を見合わせた。
やがて、真人がぽつりと吐き捨てる。
「……儀式なんて、くそくらえだ」
思わず、わたしは噴き出した。
「ほんと、それ」
「神だの祈りだの、結局はどれもこれも、誰かを傷つけるための言い訳にしか聞こえなかった」
「うん。ご利益ゼロ、殺意満点」
二人でまた顔を見合わせて笑い、そのまま何も言わずに老人の横をすり抜けようとした。
その瞬間、背後から喉を絞り出すような怨嗟の声が投げつけられた。
「えらいことが……えらいことがおきるぞぉ〜〜〜〜〜!!」
わたしたちは、振り返らなかった。真人の手を固く握ったまま、わたしは手を軽く後ろにあげて、ひらひらと振ってみせる。
「ごめん、スケジュールが詰まってるんで」
冗談めかしてそう呟き、わたしたちはただひたすらに山道を下り続けた。
ひぐらしが、茜色の空に溶けるように鳴いている。黄昏の風が、わたしたちの満ち足りた沈黙を肯定するように、そっと通り過ぎていった。
この先、なにがどうなってもいい。
それでも、今この瞬間、わたしたちは誰に指図されるでもなく、自らの意志で道を選んで歩いている。
それだけで、もう充分すぎるほどだった。




