第51話「神殺し」
銃は、音もなくわたしの手から滑り落ちた。
それが地面に触れた感触さえ、なかったように思える。
わたしの手は、いつの間にか空っぽになっていた。
血と硝煙に汚れた指先が、ようやく自分のものであると、鈍い感覚と共に気づいた。
夕暮れの境内は、死の静寂に満ちていた。
動かぬ死人たちの影が、夕闇に溶け込んでいる。
木の上の異形は、あたかも満ち足りたかのように身じろぎもせず、深い眠りについていた。
その中で、ただ一人。
真人が、そこに立っていた。
血ひとつついていない清浄な白い衣を纏い、この世で唯一の生の気配を放っていた。
わたしは、ゆっくりと彼に向かって歩き出した。
足音は湿った土に吸い込まれ、風も鳥も、まるでこの瞬間を待っていたかのように息を潜めている。
ただ、真人の眼差しだけが、この死の世界に生命の光を留めていた。
彼の前に立つと、その瞳の奥に、堰を切る寸前の言葉が溜まっているのがわかった。
けれど、わたしは何も言わせたくなかった。
言葉よりも先に、ただ、彼を抱きしめた。
震える腕を彼の肩に回し、背中を包み込む。
自らの全身を使って、彼の存在を確かめるように。
わたしの胸の中で、彼の身体がかすかに揺れた。
「……えみ……」
震える声が、わたしの名を呼ぶ。
けれど、わたしはその名に応えることなく、ただ一言だけを伝えた。
「……帰ろう」
その瞬間、彼の身体が緊張で硬くなった。
肩に力が入るのが、腕を通してはっきりと伝わってくる。
「……でも……まだ儀式が……。これをやらないと、世界が——」
彼の言葉を最後まで聞かずに、わたしは腕の力を少しだけ強めた。
「……真人のいない世界なんていらない」
わたしの声が、境内の静寂の底へと沈んでいく。
「……滅べば、いい」
その言葉が響き終えたとき、真人の全身から、まるで魂を支えていた最後の糸が切れたかのように、ふっと力が抜けた。
わたしの肩に額を預けるようにして、彼は、子供のように静かな涙を流し始めた。
もはや、言葉はなかった。
ただ、熱い涙がわたしの肩の布を濡らしていく。
そして、わたしの身体から流れた血が、彼の白い衣をじわじわと赤く染めていった。
その赤は、死の色ではない。
彼の胸元に、まるで花が咲くように滲んでいく、生きている血の証だった。
誰にも奪うことのできない、わたしたち二人の、命のしるしだった。
わたしは、そっと目を閉じた。
そして、もう一度だけ、彼を強く、強く抱きしめた。
これが、決して終わりではない。
けれど、これが新しい始まりでもないのだ。
これはただ、失われた日常へと帰るための、最初の小さな一歩だった。
◇
わたしたちは、手を繋いで歩いていた。
真人の手は、思っていたよりもずっと細かった。
けれど、その指先から伝わる温もりには、決して折れることのない、しなやかな芯が通っているように感じられた。
わたしの掌には、乾き始めた返り血が、皮膚の一部のようにこびりついている。
それを気にする素振りも見せず、真人は、ただ黙って、わたしの手を固く握ってくれていた。
境内を抜けるまで、あと数歩。
湿った草を踏む音だけが、静かに響く。
鳥たちが夕暮れの恐怖を忘れたかのようにさえずりを取り戻し、空が次第に暗くなり始めていた。
そのときだった。
ドスッ。
背後に、大地そのものが陥没するかのような、重く鈍い音が落ちた。
空気が一変する。
背中から吹き付けられたのは、もはや風と呼べるようなものではなかった。
質量を持った、純粋な圧力だった。
振り返るよりも早く、わたしの身体がふわりと宙に浮いた。
「え——」
声にならない声が漏れる。
繋いでいたはずの手が離れ、視界がくるりと逆転した。
真人の顔がそこにあった。目が見開かれ、口が何かを必死に叫んでいる。
けれど、音はまったく聞こえなかった。
耳に分厚い水でも詰められたかのように、世界が、音のしないガラスの向こう側へと遠ざかっていく。
首の後ろを、何か巨大で冷たいものに掴まれている。
異形——。
さっきまで木の上で静かに眠っていたはずのそれが、わたしたちが日常へと帰ることを拒絶するように、その姿を現したのだ。
生け贄は返さない。
声ではない意志が、直接脳を揺さぶった。
その冷たい所有欲が、首を掴む指の力へと変換されていく。
わたしの身体は、まるで魂の抜け落ちた人形のように、いともたやすく空へと放り投げられた。
藍色に沈んでいく日暮れの空が、一瞬だけ視界を満たす。
だが、そのすぐ下には、緑がかった黒い湖面が、口を開けてわたしを待ち受けていた。
境内の奥深くにある、あの池だ。
生命を拒絶するようにアオコが異常発生し、粘つくような腐臭を放っていた、死んだ池。
陽の光さえ吸い込まない、分厚い緑の膜。
わたしの身体は、その腐敗した膜の中心に、突き刺さるように落ちていった。
ドブォッ!
水飛沫は上がらなかった。
重い粘液の膜が、わたしの四肢に一瞬で絡みつき、その自由を完全に奪い去る。
冷たいというよりも、重い。
空気がない。息が吸えない。
顔の周りに、髪に、目に、唇に、ぬるりとしたアオコがまとわりついてくる。
水中で必死に手足を動かそうとしても、強い抵抗に阻まれ、ただ虚しく粘液を掻くだけだった。
光を求め、上を見上げる。
池の水面は、分厚い緑色の天蓋となって、かろうじて届くはずの残光さえ遮断していた。
その緑の闇の向こうで、何かが蠢いている。
アオコの奥に、あの異形の影が、じっとこちらを覗き込んでいた。
赤くもなく、黒くもなく、色という概念そのものが存在しないかのような、虚無の瞳。
わたしは、その瞳の中に見た。
生け贄は決して逃がさないという、静かで、冷酷な神性を。
ここで、終わるのか。
粘つく闇の中で、意識が途切れかけた、そのときだった。
わたしの胸に蘇ったのは、銃の重みでも、絶望の言葉でもなかった。
ただひたすらに、真人から伝わってきた、あの手の温もりだった。
——終わらせない。
重く冷たい水の中で、わたしの指先が、かろうじて動いた。
腐敗したアオコの膜を掻き分け、光のない水面を目指す。
そして、その緑の天蓋を、執念で引き裂いた。
指が、ぬかるんだ岸の泥に触れる。
手のひらが粘つく腐葉土を掴み、肘が軋む音を立てながら、わたしは陸へと這い上がった。
「ごぼっ、げふっ——!」
喉の奥に詰まっていた池の水が、一気に逆流してくる。
酸味とも腐臭ともつかない、ねっとりとした液体が、胃の腑から食道を焼いた。
それを吐き出すたびに、身体の奥底に重く沈んでいた、名状しがたい何かが、少しずつ体内から抜け落ちていくような気がした。
咳き込みながら土に這いつくばり、ようやく息を整えて顔を上げる。
泥にまみれた瞼の隙間から見えたのは、真人の背中だった。
あの清浄な白装束が、自ら犠牲になることを選んだかのように、ゆっくりと御神体へと向かって歩いている。
その前に立つ異形は、動かない。
ただ、静かに、真人だけを見つめていた。
威嚇も攻撃もなく、まるで何かを待っているかのように。
——ダメだ。
わたしは片膝をつき、よろめきながら立ち上がった。
水気を吸って肌に張り付く服の不快感も、もはや気にならなかった。
視線を地面に落とし、周囲を見渡した、その瞬間。
目の端に、それが映った。
地面に投げ捨てられたままの、例の銃。
血の跡が残る木製の銃床に、泥が醜くこびりついている。
わたしは、一度だけ息を吸った。
そして両手と両足を地につけ、獣のように背中を丸める。
瞬間、跳んだ。
地面を蹴る音が鼓膜を打ち、肺が絞られるように空気が抜ける。
着地の勢いのまま、身体を前方に倒れ込ませ、銃のストックを抱えるようにして拾い上げた。
一連の動作に、迷いはなかった。
膝をついた姿勢のまま、銃を構え直す。
肩に銃床を硬く当て、泥のついた頬を寄せ、照準を合わせる。
標的は、異形の頭部。
パンッ!
一発目。
反動で銃身が跳ね、土埃が舞う。外れた。
だが、即座に構えを立て直す。呼吸を、意思の力で絞り込む。
パンッ! パンッ! パンッ! パンッ! パンッ!
連続して五発。
銃声が、夕暮れ時の境内を鋭く引き裂いた。
異形の左肩、胸、腹、太腿、そして首筋に、鉛の弾丸が次々と叩き込まれる。
そのたびに、分厚い肉が裂ける生々しい音が、確かに響き渡った。
火薬の匂いが、風に乗って流れていく。
ついに、異形の動きが止まった。
その瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
言葉はなかった。
けれど、声にはならない感情の奔流が、純粋な怒りの咆哮となって、わたしの全身を覆い尽くした。
そして、次の瞬間——。
その声なき咆哮が、現実の音となって世界を破壊した。
グゥアアアアアアアアアアッッ!!!
それは風を裂き、空を割り、鼓膜を内側から叩き潰すような、根源的な絶叫だった。
異形が、走り出す。
大地を蹴るその重い足音が、地響きとなって、わたしへと真っ直ぐに這い寄ってきた。
地面が揺れ、草がなぎ倒され、空そのものが震えているかのような錯覚に陥る。
わたしは、汚れたライフルを構え直した。
だが、引き金にかけた指に、次弾の感触はない。
弾倉は空。このライフルは、今やただの鉄と木の塊だった。
本能的に、後ろへ這いずる。
爪が土を掻き、柔らかい泥に食い込んだ。膝の皮膚が削れ、肩がぬかるみに沈み込む。
それでも、わたしは手を伸ばした。
目の前に転がる、あの長髪の男の亡骸。
とうに体温は失われ、冷たい肉塊と化していた。
けれど、その分厚いベストのポケットに、まだ何かがあるはずだ。最後の希望が。
泥にまみれた指を、無理やりポケットの隙間にねじ込む。
そして、触れた。
冷たく、硬質で、紛れもない金属の感触。
八連装のクリップ。
ライフルの心臓部。
指先に伝わる弾丸の丸みから、五発が装填されたままであることを悟った。
「っ……くそ……!」
泥のついた両手で、ライフルの機関部を開き、クリップを押し込もうとする。
だが、焦りと疲労で震える指先は、思うように動かなかった。
カチッ。
ただ、乾いた金属音が虚しく響いただけだった。
その手が、わずかに震える。
影が——落ちた。
見上げた先には、絶望が立っていた。
異形が、目の前にいた。
距離は、もはや五メートルもない。
その巨体が、わたしを見下ろし、ゆっくりと右腕を振りかぶっていた。
ただその動作だけで、周囲の空気が重く、濃く震える。
音が消えた。
世界が無音になる。
ただ、振り下ろされる死の影と、肌を圧し潰すような圧力だけが、そこにあった。
身体が、金縛りにあったように動かない。
今から弾を入れても、もう、間に合わない。
来る——。
その、すべてが終わるはずだった瞬間。
「おいッ!! 化け物!!」
境内に、鋭い声が響き渡った。
真人の声だった。
ピタリ、と異形の動きが止まる。
まるで空中で時間が凍りついたかのように、振りかぶっていたその巨大な腕が、静止した。
真人が、そこに立っていた。
足元には、誰のものとも知れぬ猟銃が転がっている。
彼はその銃を片手で拾い上げ、高く掲げていた。
彼が纏う白装束は、わたしの返り血で薄紅色に染まっている。
けれど、その瞳に宿る光は、わたしの知る、あの穏やかな真人のものではなかった。
恐怖も、悲しみも、そこにはない。
ただ、揺るぎない決意だけが、静かに燃えていた。
声が、再び響いた。
「これ壊すぞ!!」
それは怒りでも、恐怖に駆られた叫びでもなかった。
世界に対する、厳粛な宣言だった。
真人の両肩はかすかに震えていたが、銃を掲げる手元は、微動だにしない。
その瞳で、ただ真っ直ぐに、異形を睨みつけていた。
異形の腕が、ゆっくりと、本当にゆっくりと降ろされていく。
空気が、戻ってきた。
音が、戻ってきた。
夕涼みの風が、再びわたしの頬を優しく撫でた。
その一瞬の隙を、わたしは見逃さなかった。
銃にクリップを押し込む。
カシャン!
金属のクリップが弾倉に叩き込まれる、甲高い音が乾いた空気に鳴り響いた。
わたしの手が、機関部を閉じる。
準備は、整った。
真人が、泥に汚れた猟銃を、御神体へと向けた。
その動作は、お世辞にも手慣れているとは言えなかったが、もたつきながらも、はっきりと揺るぎない意志を帯びていた。
「……もう決めた!」
声が、夕暮れ時の境内に鋭く響き渡る。
さっきまでの彼の、か弱く震える声とはまるで違っていた。
迷いの欠片もなく、胸の奥深くから噴き出すような、魂そのものの叫びだった。
「俺は!!」
その言葉が引き金となり、銃声が御神体の前で炸裂した。
ドンッ!
強烈な反動が、真人の華奢な身体をぐらりと揺さぶる。
肩を強く打たれたかのように一歩後ろへよろめいたが、彼はすぐに体勢を立て直し、再び銃を構えた。
「うぉぉおおおおお!!」
獣のような雄叫びを上げ、何度も引き金を引く。
カチ、カチ、カチ……。
しかし、響くのは空虚な金属音だけだった。
弾は、もう出ない。装填されていたのは、たった一発だけだったのだ。
真人の顔に、一瞬だけ焦りのような色が浮かんだ。けれど、それは恐怖ではなかった。
次の瞬間には、彼はその猟銃を、まるで斧のように高く振り上げていた。
「こんなもんがあるからだ……!」
叫びながら、その銃床を御神体へと力任せに叩きつける。
ガッ!
硬質な、乾いた音が響いた。
もう一度、振り下ろす。
ガンッ!
そして——。
爪ほどの小さな破片が、ひとつだけ、御神体の表面からぽつりとこぼれ落ちた。
境内が、時を止めたかのように沈黙する。
そのかけらが、地面に転がる微かな音だけが、世界のすべてになった。
御神体が、揺れた。
「……え……?」
真人の声が、かすかに震える。
彼の目の前で、御神体の表面に、音もなく亀裂が走っていた。
まるで、老朽化した建物が自らの重みに耐えきれず、音を殺して崩れていくかのように。
静かに、静かに、その形を失い始めていた。
ごと、……ごと、ごと……。
石がずれ、内部に蓄積されていた重みが解放される音が、鈍く響く。
御神体は、その中心から、まるで内部に空洞があったかのように静かに砕け落ちていった。
神とされたものが、絶対だと信じられてきたものが、声ひとつあげずに、ただ壊れていく。
そのとき、異形が咆哮した。
それは、鼓膜を破るような物理的な音ではなかった。
肺の奥底から、魂そのものを抉り出すかのような、根源的な絶叫だった。
巨体が、境内の奥にいる真人へ向けて走りだす。
振動が、地面を突き抜けてわたしの膝まで届いた。
異形の視線は、もはやわたしを捉えてはいなかった。
ただ、真っ直ぐに、真人を射抜いていた。
やばい——。
「真人ッ!!」
喉が焼けるような絶叫が、口から飛び出した。
わたしは反射的にライフルを構えながら、息を飲む。
「逃げて!!」
真人が、振り返った。
ほんの一瞬だけ、わたしの目を見た。
けれど、その瞳は、もはや逃げることさえ諦めた者の色をしていた。
わたしは、走った。
泥を蹴り、ぬかるみに足を取られながらも、ただ前へ。
思考はとうに停止していた。
真人の絶望に染まった瞳が、わたしのすべてを突き動かしていた。
銃を構え、滑り込むようにして、片膝を地につける。
その瞬間——。
血と腐臭にまみれた現在の風景に、あの日の穏やかな記憶が、鮮やかに重なった。
暖かい日差しの中、彼がわたしの肩に手を添えていた。
その手のひらの、確かな重み。
右腕を伝って、あの頃の体温が、まるで今ここにあるかのように蘇ってくる。
『両目で見ろ。吸い込むように、ただ引け』
彼の声が、すぐ耳元で聞こえた。
目を閉じてはいけない。
揺らすな。
確実に、心臓を撃ち抜け。
脳裏に浮かぶその教えは、わたしの身体の隅々にまで浸透し、震える指先をぴたりと静止させた。
……撃てる。
「返せ……真人は、うちのもん」
静かに、けれど決して誰にも譲らないと誓うように、言葉が口からこぼれ落ちた。
パンッ!
一発目。
反動を殺し、異形の左胸を正確に撃ち抜く。
遠くで、分厚い肉が引き裂かれる音がした。
パンッ! パンッ! パンッ!
二発目、三発目、四発目。
両肩、腹部、膝。狙いを定めた箇所に、弾丸が次々と吸い込まれていく。
だが、異形は止まらなかった。
その巨体は、なおも真人へと向かおうとしていた。
まだ足りない——。
わたしは、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「——おらんくなってよか人間なんて、一人もおらんとよッ!!」
それは、この村の歪んだ理に対する、わたしの魂からの最後の抗議だった。
照準を動かす。
標的は、その中心に据えられた、虚無の瞳。
最後の一発に、すべての祈りと怒りを込めた。
わたしの指が、引き金をゆっくりと引いていく。
その重みが、確かな手応えとなって伝わってきた。
パンッ!
強烈な反動が、肩に深く叩き込まれる。
その直後、境内を満たしていた轟音が嘘のように消え去り、澄んだ金属音が一つだけ、響き渡った。
チン……!
甲高い排莢音。
弾を撃ち尽くした証である金属のクリップが、空を裂いて高く舞い上がる。
きらりと光を反射しながら宙を舞い、やがて境内の土に転がる、その小さな音までが、鮮明に聞こえた。
そして——。
異形の動きが、止まった。
数歩、よろめく。
肩が、重力に逆らえずに沈む。
巨体が、まるで世界の法則を見失ったかのように、大きく、大きく揺れた。
そして、倒れた。
地響きとともに、その巨体は大地に横たわる。
土煙が舞い上がり、風がその間を走り抜け、やがて——すべての音が、止まった。
わたしは、ライフルを抱えたまま、その場に膝をついた。
何も聞こえなかった。
風の音さえ、耳には届かない。
ただ——。
泥を蹴ってこちらに向かってくる、真人の足音。
その気配だけが、胸の奥で、確かな熱となって染みていった。




