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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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第50話「凶弾」

 わたしの声は、静まり返った境内の空気を鋭く引き裂いた。

 囁くように小さく、けれど水底に沈んでいく石のように低い。

 一度発せられれば聞き返すことなど許さない、有無を言わせぬ圧がそこにはあった。


「予備の弾は、どこに持っとると?」


 その問いは、故郷のなまりを帯びて、重く、鈍く響いた。

 首元に銃口を突きつけられた男が、侮蔑を隠しもせずにちらりとこちらを窺う。

 その目尻には、まだ乾ききっていない笑いの残滓が浮かんでいた。


「は?ポケットに決まっとるやろ。なんや、そげんこと聞いて」


 鼻先でせせら笑うような口ぶりだった。


「右と左、両方に入れとるわ。それが、どうかしたと?」


 男が挑発的に続けたその一言が、わたしの内で張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと断ち切る音がした。


「右に何発。左に何発。その数を答えろ」


 わたしの声は、一段と低く、深く沈んだ。

 刃のような鋭さではない。ただひたすらな重さで、相手の心をじわりと圧し潰していくかのように。

 男の顔から、ようやく笑みが消えた。


「え……?なんで、そげんことを……」


 訝しむように首をひねり、背に押し当てられた冷たい鉄の感触を確かめるように、わずかに身じろぎをする。命という現実が、今さらながら皮膚の裏まで染み渡り始めた証だった。

 その狼狽ぶりを見て取ったのか、取り囲む輪の中から、長髪の男が芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。


「おいおい、どうしたと」

「まさかビビっとるんじゃなかろうな?」


 下卑た笑い声が、再び夜の境内に弾けた。


「その指、ちゃんと引き金にかかっとるけん、今にも“ぱん”ってなるばい〜〜」


 男たちの哄笑が、境内の隅々まで満たしていく。

 ここには緊張も、他人の痛みへの想像力も欠片もない。

 自分たちは絶対に安全な場所にいるのだと信じきった、無敵の支配者だけが纏うことのできる、吐き気を催すほど軽薄な空気が満ちていた。


「なぁなぁ、制圧したらよ〜〜」

「お前が最初に種仕込んでやればよかろ〜もん!!」


 その言葉を合図に、獣のような笑い声が境内に響き渡り、最高潮に達した。


 だが、このごく限られた空間だけは、まるで別世界だった。

 わたしと、人質の男との間。銃口がその首の中心に吸い付いている、このわずかな距離だけは。


 男の肩が、小刻みに震えているのが分かった。

 首筋には脂汗が滲み、わずかに震える右手の指先が、救いを求めるように自身の服の裾を探している。

 対するわたしの呼吸は、浅く、それでいて乱れなく整っていた。


 銃口は、男の首元の一点から微動だにしない。

 周囲の嘲笑の裏に透けて見える油断こそが、命取りになる。

 彼らは、わたしを抵抗などできはしない、ただの女だと侮っている。


 だが、それは致命的な誤りだ。


「……答えろ」


 再び命じる声は、高鳴るはずの心臓の音を、むしろ鎮めていくようだった。

 男の唇が、かろうじて開く。

 その瞬間を捉え、わたしは引き金にかけた指の腹に、改めて力を込めた。


「……右のポケットに、五発。左に、四発……」


 男は、乾ききった唇を震わせながら答えた。

 今この瞬間に、己の置かれた状況と、死というものの輪郭を、はっきりと理解した者の声だった。


「お、頼む……おれを撃たんでくれ……。恨むんなら、あいつらを……あいつらを恨んでくれ——」


 わたしは、その命乞いを最後まで聞き届けることなく、微動だにせぬまま——引き金を引いた。


 轟音が鼓膜を焼いた。


 至近距離で放たれた12ゲージのバックショット。

 銃口から解き放たれた数多の鉛弾が、男の後頭部を真正面から穿った。

 支柱を失った頭蓋は内側から弾け、赤黒い血肉の霧と化す。


 そのおぞましい飛沫が、まるで祝いの花火のようにわたしの視界を染め上げた。

 支えをなくした身体が、糸の切れた人形のようにゆっくりと膝を折り、崩れ落ちていく。

 その動きの終わりを待たず、わたしは即座に次へと移行していた。


 倒れかけた男の胴体、そのベストの厚い生地を掴み、腰を落とす。

 肩を軸にして死体を前面に引きずり出し、即席の盾として構えた。


 先程までの下卑た笑いが、ぴたりと止んだ。

 硬いものが砕ける音と、生々しい肉の破裂音だけが境内に響き渡り、やがて完全な沈黙が支配した。

 盾の陰で銃を構え直す。ポンプを一度、澱みなく後方へ引いて排莢。乾いた金属音が響き、熱を帯びた薬莢が地面に落ちる。即座に前方へ戻して閉鎖し、次弾を送り込んだ。


 息つく間もなく、次の標的へ照準を合わせる。

 距離はおよそ十メートル。 いま盾となっている克彦の亡骸、その右隣に立ち尽くす痩せ型の男だ。


 引き金にかけた指に、再び力を込める。

 鈍い炸裂音。腹部に着弾した男の胴が、ありえない角度で「く」の字に折れ曲がり、悲鳴を上げる暇さえなく地面に叩きつけられた。


 すぐさま次へ。

 冷たい金属音を響かせながらポンプを操作し、恐怖のあまり両手で顔を覆い、立ち尽くす丸顔の男を捉える。


 再び、轟音。

 その顔面、鼻梁から上の部分が跡形もなく消え去り、首だけの残った遺体が、まるで椅子に座るかのようにゆっくりと崩れ落ちた。


 これで弾倉が空になる。


 わたしは盾の陰に深くしゃがみ込み、右手をポケットに差し入れた。

 指先の鈍い感触だけを頼りに、12ゲージのショットシェルを三発、鷲掴みにする。


 ショットガンの下部、チューブマガジンの開口部に、薬莢の向きを親指の腹で確かめながら一発ずつ手早く挿入していく。


 カチ、カチ、カチ。


 冷たい金属が三度、吸い込まれていく感触。

 銃を持ち直し、ポンプを引いて一発を薬室へ装填する。


 顔を上げたときには、もう照準は定まっていた。


 四人目。

 身を屈めて逃げようとする男の、背中の左肩を狙う。


 発砲。 左肩が砕ける衝撃に、男が甲高い悲鳴を上げた。

 だが、構うものか。ポンプ操作で、非情に次弾を送り込む。


 五人目。

 錯乱したように何かを叫び、手にした石を投げつけようとしている。


 狙いはその右腕。だが、発射の瞬間に銃口がわずかに揺れ、弾丸は男の腹部を抉った。

 男は自らの内臓を抑えながら、獣のように転がり回った。


 まだ、弾は六発残っている。


 いつの間にか、わたしは呼吸をしていた。

 浅く、熱い息が漏れる。胸の奥深くが、静かな炎で燃え盛っているようだった。

 一発撃ち込むごとに、この村に淀む悪意そのものが、確かに削ぎ落とされていく。


 そんな確かな手応えだけがあった。

 残った男たちの顔から、とうに笑いは消え失せていた。

 誰の視線も定まらず、虚空を彷徨っている。


 男たちは目の前で繰り広げられる惨劇を、現実のものとして受け入れられずにいた。

 だが、わたしは確信していた。

 いまわたしが盾としている、この身体。


 倒した最初の男の、まだ微かな温もりが残るこの亡骸がある限り、彼らは絶対に撃ってこない。

 それは一つの賭けではあった。けれど同時に、観察に基づいた冷徹な読みでもあった。

 昨晩、石の長机を囲み、彼らは笑っていた。


 十二人が誰一人として席を争うことなく、まるで決められた役割を演じる役者のようにそれぞれの定位置に着き、食事を共にしていた光景。

 そこには歪んだ秩序と結束、そして血の誓いにも似た強固な繋がりが確かに存在していた。


 だからこそ、亡骸であっても撃つことはできない。

 この亡骸は、彼らにとっての肉壁であり、破ることのできない誓いの一部であり、そして共犯者である証そのものなのだ。


 故に、わたしだけが一方的に撃てる。


 再び、行動を開始する。


 右のポケットに手を滑り込ませ、指先で弾薬の感触を確かめる。12ゲージの、真鍮のヘッドとプラスチックのケース。 二発を取り出し、すぐさま左のポケットからもう一発。手の中に納まった三発の弾丸を、盾の陰にしゃがみ込み、ショットガンのチューブマガジンに一発ずつ滑り込ませていく。


 カチ。カチ。カチ。

 冷たい金属音が三度、響く。

 ポンプを引き、乾いた金属の囁きと共に次弾を薬室へ送り込む。装填は、完了した。


 立ち上がり、銃を肩で受け止め、静かに息を吐きながら六人目の男に照準を合わせる。

 轟音が空気を震わせた。

 至近距離と言っていい。男の腹の中心で赤い花が咲き、散弾が胃を粉砕して背中からその破片を飛び散らせた。短く呻いた後、男は前のめりに崩れ落ちる。


 間髪入れず、次弾。


 排莢の金属音を響かせ、七人目に銃口を向ける。

 背を向けて走り出していたが、あまりにも遅い。

 膝を折って姿勢を低くし、足元を狙う。


 再びの轟音。


 男の右脚、その膝から下のすべてが根こそぎ吹き飛んだ。

 勢いよく転倒した男は、土を掻きむしるように地面を這う。

 だが、そこに一切の容赦はなかった。


 乾いた音を立ててポンプを引き、無慈悲に照準を胸元へと動かす。

 鈍い炸裂音。

 飛び散った血が、近くの木の根元まで赤く染め上げた。


 まだ弾はある。

 銃口を振り、視界の端で顔面を真っ青にして立ち尽くす八人目を捉えた。

 狙いを定め、呼吸を整える。


 わずかな風が、わたしの頬を静かに撫でていった。


 発砲。


 弾丸は男の喉を正確に撃ち抜き、衝撃で後ろに弾かれた身体が木の根に頭を強く打ちつけて絶命した。


 銃の反動が、ずしりと重く肩に返ってくる。


 それでも、わたしは眉ひとつ動かさなかった。

 視線の先で、あの長髪の男の浮かべていた笑みが、初めてかすかに揺らぐのが見えた。


 撃てばいい。


 心の中で、静かに語りかける。

 もしあなたたちが、本当に失うものなど何もないというのなら、撃てばいいではないか。


 だが、誰も撃たなかった。


 誰も、こちらに銃口を向けることはなかった。


 彼らが撃てなかったのは、あの男の亡骸という鏡に、自分たちの逃れられない未来をはっきりと映し見てしまったからだ。

 肉壁は盾であると同時に、彼らの心を砕く鏡でもあったのだ。


 わたしは再びポンプを引いた。

 熱を帯びた薬莢が夜空へ高く跳ね、最後の火薬の匂いを宙に散らす。

 残りは、二発。ポケットの中にもう予備はない。それで十分だった。


 視界の端で、九人目が両手を上げていた。

 だが、その瞳は絶えず左右に揺れ動き、次に何をするか予測がつかない。だから迷わず、撃った。


 轟音。

 右肩に着弾した男の胴体が、独楽のように回転しながら吹き飛んだ。

 すぐさま次弾を送る。冷たい金属音を響かせ、半身を木の陰に隠す十人目を捉える。

 隠れきれていない足が見えていた。その膝の位置を見切り、引き金を絞る。


 鈍い音。

 脚部に命中した男が、木の影から無様に転がり出た。

 顔を覆ってうずくまるその仕草は、死者と生者を分かつ、人生最後の演技のようにも見えた。


 銃口から、白い煙がゆるやかに立ち上る。

 わたしはポンプを引かず、構えを解かない。これで弾倉は空になった。


 境内から、とうに笑いは消え失せていた。

 訪れた静寂の中、長く伸びた影の色がいっそう濃くなり、空が夕暮れの色を帯び始めたのがわかる。

 湿気を含んだ夕風が木の葉を揺らし、その隙間を通り抜けていく。


 鉄錆のような血の匂い、鼻をつく硝煙の匂い、そして汗と脂が混じった恐怖の匂いが、あたりに満ちていた。

 ただ一人、あの長髪の男だけが立っていた。

 口元は、あたかも笑っているかのように歪んでいたが、その形はもはや保たれていない。


 片方の口角が神経質に引きつり、顎が小刻みに痙攣していた。

 やがて彼は、顔を真っ直ぐこちらに向けた。


「……わかった……」


 声は低く、ひどく掠れていた。


「わかったってば……なぁ、もうやめよう……」


 男はゆっくりと両手を上げる。指を一本ずつこわばらせながら開く様は、あくまで自らの意思で降伏するのだという、見え透いた演出だった。

 そのまま肩にかけた銃に手をかけ、ごとりと音を立てて地面に落とす。


「な、な?俺だけは……」


 言葉の切れ端は、血に濡れた地面に吸い込まれて消えた。

 彼の肩が、かすかに揺れている。手は上がっているが、全身の重心は崩れ、足は引きつるようにわずかに開いていた。


 そして——そのまま一歩、後ろへ退いた。

 それは恐怖に駆られた逃走ではない。

 状況を計算し、まだ生き残れる道があると信じている者の、浅はかな自己保身の動きだ。


 わたしは構えを解かずに、微動だにしなかった。

 銃口は、彼の心臓に向けられたまま。

 もう弾はない。



 汗が、髪の長い男の額に滲んでいた。

 濡れた前髪が皮膚に張り付き、その瞳だけが、値踏みするようにわたしの顔を射抜いている。


「なぁ……真人くんも、止めたってや……」


 男の口が、掠れた声で彼を呼んだ。

 その瞬間、真人の気配がわたしのすぐ背後にあることを感じた。

 だが、わたしは振り返らない。


 この状況で視線を逸らすことは、死を意味する。


「足元にある銃を、こっちに蹴飛ばせ」


 わたしの声は、もはや囁きに近かった。

 それでもその命令は、銃口を突きつけるよりもなお重く、彼の心を縛った。

 男の動きが、一瞬だけ止まる。唇を固く引き結んだまま、その視線だけがわたしと自身の足元を往復した。


 やがて、口元がわずかに引きつり、諦めたように息を吐く。


「……わかった」


 彼はつま先で器用に足元の銃を拾い上げると、軽く横へと蹴り出した。

 重い金属が土を擦る不快な音が、血と硝煙に満ちた境内の静寂を鋭く引き裂いた。


 銃はわたしの左足から一メートルほど手前で、その動きを止める。

 長い銃身に、重厚な木製の銃床。見慣れないそのシルエットが、ぼんやりとした輪郭を結んでいた。

 それが何なのかは分からない。


「……その場に伏せて」


 わたしは次の命令を口にした。

 男は、もう抵抗らしい抵抗も見せず、ゆっくりと動き始める。

 地面に片膝をつき、高価そうな服に土が付くことさえ厭うかのような慎重さで、腹這いになった。


 その様子を冷徹に見届けながら、わたしは肉壁としていた亡骸の背中から、ようやく手を離した。

 手のひらに、生温かく粘質な感触が纏わりつく。

 支えを失った身体は、血で重くなったベストごと、ぐずりと音を立てて地面に崩れ落ちた。


 わたしは、使い切ったポンプ式の猟銃を右手で力なく持ち上げると、大きく後方へと投げ捨てた。

 金属が石にぶつかり、からん、と乾いた音が響く。

 一つの終わりを告げる合図だった。


 すぐさま身をかがめ、蹴り飛ばされてきたライフルを手に取る。

 重い。

 冷たい鉄と、使い込まれた木の質感が混ざり合った無骨な重量が、ずしりと腕に乗った。

 これまでの猟銃とはまるで違う、殺意の密度。


 これを、わたしは撃てるのだろうか。

 だが、心に迷いはなかった。

 右手で銃床を支え、左手でグリップを包むように握る。


 右足を半歩引き、その肩に銃床を硬く押し当てた。

 前へ。一歩、また一歩と、伏せた男へ向かって歩を進める。

 その途中、視界の端、木の影に蠢くものがあった。


 先ほど脚を撃ち抜いた男が、まだ微かに身じろぎしている。

 躊躇は、なかった。

 銃口を持ち上げ、照準をその頭部に合わせ、静かに呼吸を止める。


 そして、引き金を引いた。


 パンッ!!


 これまでの轟音とは異質な、乾いた破裂音が境内に響き渡る。


 弾丸が、男の額を正確に貫き、後頭部から脳漿と土埃を派手に吹き飛ばした。

 男の身体が枝に引っかかるようにして崩れ落ち、完全に動きを止めた。

 わたしは再び歩き出す。わたしの足音だけが、血に湿った土に吸い込まれていく。


 伏せている男は、顔を上げない。

 ただ、背中を亀のように丸めていた。逃げようとも、叫ぼうともしない。

 だが、その背中全体が、生きることへの醜いまでの執着を雄弁に物語っていた。


 わたしは彼の真上に立った。

 わたしの影が、彼の身体をすっぽりと覆い尽くす。

 その顔に表情はなかった。


 頬を伝う血の跡も、額に滲む汗の感触も、とうに感じなくなっていた。

 ただ、その瞳だけが、氷のように冷え切っていた。


 わたしは、最後の仕上げに入るために、一度だけ深く、静かに呼吸を整えた。


「……なぁ、頼む……」


 伏せたままの男が、かろうじて顔を上げた。

 土と汗にまみれ、乱れた髪の隙間から覗く目が、必死にこちらを捉えている。


「命だけは……命だけは助けてくれや……。もう二度と……ほんと、二度と顔は出さんけん……」


 声は震え、喉の奥で泡立つように言葉が詰まっては、また紡がれる。


「何でもする。何でも……言われた通りにする。真人くんのことも、この村のことも、全部……何も知らんふりをする。全部、お前の言う通りにするけん……」


 わたしは、その命乞いを無言で聞いていた。

 まばたきすら忘れた顔に、感情の色はなかった。

 けれど、胸の奥深くでは、静かな炎が脈を打ち、全身の血を熱く滾らせていた。


 あんたは、こうやって生きてきたのだろう。

 誰かの背中を笑いながら押し、ためらいなく崖から突き落としてきた。

 その感覚を、今度はあんた自身の足で、その身をもって味わうがいい。


「……わかった」


 わたしは、感情の乗らない声で言った。


「許すよ。もう行っていい。二度と、顔を見せないで」


 一瞬、男の顔が歓喜にほころんだ。

 強張っていた頬が緩み、引きつっていた口角が、確かに笑みの形を描く。


「……ま、マジで?」


 わたしは答えなかった。

 ただ、構えていたライフルの銃口を、わずかに下へと傾ける。

 それが、言葉の代わりにわたしが示した答えだった。


 男は、信じられないといった様子で一瞬ためらった後、堰を切ったように動き出した。

 もつれる足で地面を蹴り、よろめきながらも境内の出口へと走り出す。

 その背中が、完全にこちらに向けられた。


 わたしは、再びライフルを肩に当てた。その動作に、一片の迷いもない。

 狙いは、足元。


 パンッ!


 乾いた破裂音が、夜明け前の境内に鋭く響き渡った。

 弾丸は、逃走する長髪の男の右足のふくらはぎを正確に撃ち抜く。

 男の身体が、まるで罠にかかった獣のように跳ね上がり、前のめりに倒れ込んだ。


「がっ……!?」


 短い悲鳴を上げ、地面の砂と自らの血を巻き上げながら無様に転がる。

 動こうとして撃たれた右足に力を入れた瞬間、その身体は再び崩れ落ちた。

 男は地面を何度も拳で叩き、奥歯を強く食いしばっている。


 わたしは銃を持ち直し、ゆっくりと歩き始めた。

 一歩、また一歩、血に濡れた土を踏みしめながら。

 地面に伏したままわたしを見上げる男の目に、ようやく事の真相を悟った者の光が宿っていた。


 それは驚愕であり、絶望であり、そして裏切りに対する純粋な憎悪だった。


「う……お前……約束……」


 わたしは、その言葉に何も返さなかった。

 男の前に立ち、その姿を見下ろす。

 彼は、地面に片手をついたまま仰向けになった。


 唇はわななき、鼻の穴が絶望的に開閉を繰り返す。

 呼吸は浅く、速く、死を目前にした小動物のそれだった。

 わたしは、その震える胸元に向かって、静かに銃口を下ろしていった。


 わたしの影が、彼の全身を黒く包み込んでいた。


「な……なぁ……もう、ええやろ……」


 その懇願に応える代わりに、わたしの唇がわずかに動く。

 声にはならなかった言葉が、冷たい空気の中へ、息と共に溶けて消えた。

 ライフルの銃口は、男の眉間に寸分違わず向けられている。


 指先には、すべてを終わらせるための、ずしりとした最後の重みが乗っていた。

 わたしは、ほんの少しだけ口を開いた。


「あんた……」


 その一言を紡ぎかけた、まさにその瞬間だった。

 地面に這いつくばっていた男が、最後の力を振り絞るように怒鳴った。


「お前、何人殺してんだよ!」


 血で濡れた唇から飛び出した咆哮は、腹の底から絞り出したような、純粋な怒気をはらんでいた。


「俺の仲間を……俺の仲間をよぉッ!」


 わたしは、まばたきを一つだけした。

 その一瞬の闇の中で、沸き立ちかけた感情を強制的に鎮める。


「……九人。いや……十人、かな」


 静かに事実を告げると、男の目が驚愕に見開かれた。

 だが、次の瞬間には、その顔は狂気じみた笑みに歪んでいた。

 地面に転がったまま、まるで血の匂いに酔った獣のように、口元を醜く吊り上げる。


「お前、悪魔やな……」


「地獄に落ちるぞ、先生さんよ……」


 口の端から、泡の混じった血がだらりと流れる。

 それを拭おうともせず、男はぜえぜえと荒い息を吐きながら笑い続けた。


「十人以上殺して、まだ教師やるつもりか……?」


「傑作やな。なぁ真人くん、どう思う?」


 その問いかけに、背後の真人が息を詰める気配が伝わってきた。

 それでも、わたしは振り返らない。

 視線は、目の前の男に縫い付けられたままだ。


 眉は動かず、ただ瞳の奥で、静かな炎が赤く燃えていた。

 この期に及んで、なお人を貶める言葉を選び続ける。

 どこまで腐りきっているのだろう、この男は。


 男の肩が、がくがくと震えた。それが笑いの発作なのか、死を目前にした痙攣なのか、もはや判別はつかなかった。

 彼の口から、また泡がこぼれ落ちる。

 それを意識したのか、片手が土をぐしゃりと強く握りしめた。


「お前みたいなヤツが……正義の味方みたいな顔すんなよ……」


 その言葉は、鋭い楔となってわたしの心に打ち込まれた。

 わずかに、しかし確かに、何かが軋む音が聞こえた。


 だが、もう後戻りはできない。

 この瞬間、この地獄の入り口で、わたしは人であることを手放すのだ。

 銃口の先にある瞳に、最期の光が揺らめいていた。


 わたしは、その光から逃れるように、銃口を彼の額からわずかに下げた。

 その目を、見たくなかった。

 それでも、言葉は唇からこぼれ落ちていた。


 静かに。


 感情を押し殺すでもなく、怒鳴りつけるでもなく、ただありのままに。


「……あんた、女のことば……なんて思っとると?」


 風すらなかった。

 夕暮れ時の境内は墓場のように静まり返り、わたしの声だけが血に濡れた地面をゆっくりと這っていった。

 銃口を向けられたままの男は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


 やがて、その口元が苦笑いとも嘲笑ともつかぬ形に歪む。


「なんや……そんなこと聞くんか。……決まっとるやろ」


 喉の奥で、ごぼりと血がせき込む音がした。

 それでも男は、その言葉を止めようとはしなかった。


「種袋以外の……何物でも、ないやろが」


 血反吐と共に吐き出されたその言葉は、彼の本質そのものだった。


「強い男に、屈服するために……生きとる生き物やと、俺は……そう思っとる」


 わたしは無表情だった。

 熱く滾っていたはずの感情は、その冒涜的な言葉によって、むしろ氷のように冷え固まっていく。

 もう、終わっていたのだ。


 だが、彼はまだ続ける。

 歯の隙間に血を詰まらせながら、薄汚い笑みを浮かべたまま。


「……お前はな。おれが初めて、犯した女に——」


 パンッ。


 彼の言葉が、その汚らわしい記憶のすべてを吐き出し終える前に、わたしは引き金を引いていた。

 弾丸が、男の額を寸分違わず貫く。

 生々しい肉の裂ける音。硬い骨が砕ける鈍い感触が、銃床を通して腕にまで伝わってきた。


 血と灰色の脳漿(のうしょう)が、夕靄の中に舞った。

 男の身体は、まるで中身のない袋のように、音もなく砂の上へと崩れ落ちた。

 わたしは銃口を下ろすことなく、無言で踵を返した。


 背後に立つ真人のほうへ、数歩だけ歩く。

 その肩を見つめながら、何も言うことはできず、何も聞きたくはなかった。


 だが——。


 濃密な血の匂いが、脳裏に焼き付いた別の記憶を呼び覚ます。

 チカの顔が、浮かび上がってきた。

 あの夜。恐怖に全身を震わせ、か細い身体を必死に丸めながら、それでも尊厳を失うまいと、口元だけで無理に笑おうとしていた彼女の顔。


 その顔が、おぞましい死臭の向こうから、じっとこちらを見ていた。


 わたしは、再び振り返った。


 地面に転がる、ただの肉塊。

 額からは夥しい血が流れ出ていたが、その顔の筋肉は、どこか満足げに緩んだままに見えた。


 わたしは、再びライフルを持ち上げた。

 今度は、その顔面の中心に、冷たい照準を合わせる。

 引き金に、指をかけた。


 もう、躊躇など、ひとかけらも残ってはいなかった。


 パンッ。


 頭蓋の上半分が、内側から破裂した。


 血と骨の破片が、彼の背後へ向かって、まるで黒い噴水のように高く、派手に飛び散る。

 それは、あのとき、あの場所で笑っていた全ての男たちに向けられた、弔いの弾だった。


 わたしはもう、二度と振り返らなかった。

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