第48話「異形」
白い岩を見下ろす。
それは、神などではなかった。
そう信じようと、心の奥で必死に叫び続けていた。
(こんなもの——嘘に決まってる)
(村の都合で作り上げられた偶像。人の恐怖が、ただ形を与えただけの、でたらめだ)
言葉にならない威圧感に、身体が縫い付けられたように動かない。
それでも、私は繋いだままの真人の手を、ぐっと強く引いた。
「……帰るよ」
真人の指先が一瞬、ためらうように強張った。
だが、私の力に応じるように、その足は動いた。
二人で、踵を返す。
境内の中央。石柱の向こう、私たちが来た入り口へと続く場所を目指した。
地面の湿気が、靴裏にじっとりと吸い付いてくるようだった。
息が浅い。
喉が、焼けるように乾いていた。
そして、石柱の陰に近づこうとした、そのとき——
「……何しとると?」
くぐもった声が、前方から聞こえた。
十二人のうちの一人だった。
語気に強制力はない。
けれど、その声には、すべてを見透かしたような、面白がる響きが滲んでいた。
私は、立ち止まった。
次の瞬間、背後から足音が近づいてくる。
「真人くんはほんと偉いよなぁ……こげんにも迷わず、役割を果たそうとしとる。それに引き換え、お前は……」
肩に、手が置かれた。
長髪の男だった。
掌は熱く、そして重い。その体温が、皮膚を通して脊椎までじわりと染みてくるようだった。
「……いつまで、わがまま言いよると?」
息が、耳元にかかる。
湿った低音。背筋にぞわりと走る、不快な密着。
「いい加減、諦めろや」
その囁きと、同時だった。
ドスッ
地面が、沈んだ。
音ではない。衝撃だった。
足元の土が微かに揺れ、まるで自分が、巨大な獣の腹の上に立っているかのような錯覚に陥った。
ドスッ……
もう一度。
低く、深く、重い。
それは地響きではなかった。何かが、二本の脚で——境内に、近づいている。
音が響いたのは、石柱の向こう側。
まだ、その姿は見えない。
けれど、空気の揺れが、その存在の大きさを物語っていた。
背中に、じわりと汗が滲む。
繋がれた真人の手が、少しだけ強く握られた。
私は、振り返った。
真人もまた、目を見開いていた。口元が、かすかに震えている。
(……何かが、来ている)
境内のすべてが、沈黙した。
鳥も、虫も、風も——すべてが息を呑んだ。
ドス……ドス……
その歩みは、もはや地を鳴らすというより、境内全体をひとつの律動で支配していた。
心臓の鼓動でも、地面の鼓動でもない。
それは——何かがこちらへ歩いてきている音だった。
横にいる真人は、すでに動かなかった。
全身を固くして、これから起こる何かを、ただ待っているようだった。
だが——十二人の男たちは、誰一人、驚いてはいなかった。
輪の中央にいた男が、顔も上げずに呟く。
「……準備しろ」
それだけだった。
長髪の男が軽く顎で指示を出すと、他の男たちは無言のまま立ち上がった。迷いもなければ、戸惑いもない。
彼らは境内の端に積まれていた麻袋に手を伸ばし、その中身を、次々と石柱の周りへと並べ始めた。
果物。肉の塊。焼かれた魚。青菜の漬け物。山盛りの米。
どれも村の台所で作られたものだとすぐにわかった。
だがその量は、あまりに異様だった。
石柱の基部を囲むように、供物が黙々と積まれていく。
崩れた神棚のように無造作に、しかし明らかに意味を持って配置されていた。
ドス……
すぐ間近だった。
木々の隙間をぬって風が走り、高い枝に止まっていた鳥たちが、一斉に飛び立った。
「このにおい、好きなんよなぁ……『あいつ』がな」
長髪の男が、手を止めずに口を開いた。
男たちは笑わない。喜ばない。ただ、粛々と、それが正しい順序であるかのように手を動かし続けていた。
供物の間に置かれた皿に、透明な液体が注がれていく。その香りは、どこか鼻の奥をくすぐり、そして少しだけ、血の匂いに似ていた。
境内全体が、迎えの形を整えていく。
誰もが、その到来を当然としている。
ただ一人——私だけが、空気の冷たさに肩を震わせていた。
そして——
石柱の向こう。
木々の向こうの空が、少しだけ暗くなった。
(……来る)
ドス……ドス……
この振動は、もはや鼓動のように境内全体を支配していた。
姿はまだ、見えない。
けれど、『それ』はすでにそこにあった。
まず見えたのは——脚だった。
一本が、人の胴体ほどの太さ。皮膚はざらついた象のような質感で、けれど色はどこか灰に近く、光を吸っていた。
地に接する足裏が沈むたび、草が倒れ、石がきしむ。
次に見えたのは胴体。
毛の少ないゴリラのような、異様に盛り上がった胸筋と張り出した肩。
腕は異常に長く、地面すれすれをなぞるように揺れている。
その一歩一歩が、静かすぎて、かえって不気味だった。
顔は、すぐには見えなかった。
でも、その輪郭だけで、私の脳は理解することを拒否し始めていた。
「なに……これ……」
声は、自分でも出したとは思えなかった。
手に汗がにじみ、肩が縮こまり、指が動かない。心臓がどこにあるのかわからなくなった。
危険だ、と全神経が叫んでいた。
見るな。近づくな。呼吸を止めろ。存在を気取られるな。
でも、目が逸らせなかった。
それは、まっすぐこちらへと向かっていた。
正確には、供物に向かって。ただし、そこに戻ってきたかのような静けさで。
——いつもここにいたものが、定位置に戻るかのように。
男たちは、一人として驚かなかった。
驚くどころか、尊敬のような眼差しで見つめ、淡々と食物の配置を整えていった。
言葉にならなかった。
人ではない。けれど——獣でもない。
その『何か』は、村の空気と一体だった。異質なはずなのに、不可分に溶け込んでいる。
(見てはいけない)
私は、一歩だけ後ずさった。真人の手が、まだ触れていた。
異形が止まった。
石柱の前、供物が並べられたその場に、膝をつくようにして腰を下ろした。
全員が息を呑むなか——ただひとり、その存在だけが音を持っていた。
巨大な腕が、ゆっくりと前へ伸びる。
ひとつの動作に、無駄な力はない。乱暴でもない。まるで、日常の延長のように。
指先が、山盛りのご飯をすくった。そのまま、口元へ運ぶ。
手のひらが大きすぎて、一度に掬う量は、まるで山の一部を口に入れるようだった。
でも、食べ方は不思議なほど静かだった。
くちゃくちゃと音を立てるでもなく、唸り声を上げるでもなく——ただ、丁寧に口へ運んでは、飲み込んでいく。
それは、野蛮な捕食ではなかった。むしろ、文化を持った動作、整った所作に見えた。
「……うそ……でしょ……」
喉の奥でつぶやいた声は、自分のものではないようだった。
私は、無意識に一歩だけ後ろへ下がり、真人の前に身体を滑らせるようにして立った。
全神経が、冷や汗になって皮膚に浮いていた。
異形は、供物を手に取るたびに、一瞬だけ品定めをしているようだった。
まるで、人間の食卓のマナーを、完全に理解しているかのように。
赤い煮込み肉。香草を巻いた魚の干物。笹の葉に包まれた山菜の飯。
どれも、村の誰かがつくったものだった。
それを、異形が口に運んでいる。食べ方は汚くない。しかし、胃の奥がぞわりと重くなっていく。
私は真人の方に視線を投げた。
彼は、沈黙していた。
でも、彼の眼差しが、どこか——自分に言い聞かせているように見えた。
(これが『神』……なの?)
答えはなかった。誰も、何も説明しなかった。
私は、息を浅くした。背筋に走る嫌な汗が、服を濡らしていた。
肩甲骨のあたりが震えている。視界の端がじわじわと縮まる。
(いまなら……)
私は、ゆっくりと右足に重心を乗せた。喉の奥で、呼吸を小さく調整する。
真人の手首が、私の背後で動いた気配がした。
この瞬間。
この静かな宴が終わる瞬間を——私は狙っていた。
次話は朝7時に更新。
合わせてこちらの小説もよろしくお願いします。
『第七人類絶滅報告書』https://ncode.syosetu.com/n9397kq/




