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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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第46話「空虚」

 足が、地面から離れていた。

 まるで身体から重力が抜け落ちてしまったかのように、支えを失った私の膝が、音もなく折れた。

 崩れた、というよりは、背骨のどこかがぽきりと砕けたような、そんな感覚だった。


 土の匂いが、鼻の奥にじんと染みる。

 視界を覆った前髪が揺れ、そこに熱い涙の粒が吸い込まれていくのが分かった。


 喉の奥が、熱い塊で塞がれたように詰まって声が出ない。

 でも、言わなければならなかった。

 この、あまりにも優しく、そして愚かな教え子に。


「……あんた……洗脳されとる……」


 絞り出した言葉は、ひどくかすれていた。

 それでも、私は言い切った。


「こんな儀式、でたらめやろ……。古臭い村の自己満足で、人ひとり差し出して……そげんもん、伝統でもなんでもなか……!」


 言いながら、私は唇を強く噛んでいた。

 血の味が、じわりと口の中に広がる。

 うつむいたままでは、真人の表情は見えなかった。


 けれど、彼の周りの空気だけが、肌にまとわりつくように重かった。


 しばらくの沈黙の後——真人が、口を開いた。


「……先生」


 その声に、びくりと肩が震えた。

 顔を上げることはできなかった。

 でも、彼の声は、静かに、そして真っ直ぐに私へと届いた。


「俺、ちゃんと『大人になる』って、前に電話で言ったよね」


 言葉が、夜の静寂にゆっくりと沈んでいく。

 それを聞いた瞬間、私の胸の奥で、蓋をしていたはずの古い記憶が弾けた。


 ——『俺、ちゃんと大人になるよ』


 深夜。互いの家に戻った後、スマホの向こうから聞こえた、あの少し照れたような、けれど決意を秘めた声。


「……大人って、責任を取ることだって……先生が、そう言ってくれたよね」


 真人の声が、ほんの少しだけ揺れた。

 でも、その芯の部分は、決して崩れてはいなかった。


「これは……俺にしかできない役割なんだよ。俺が逃げたら、多くの人が不幸になるかもしれない。だから、これは俺の責任なんだ」


 その瞬間だった。


 私の身体が、まるで意思を持ったかのように立ち上がっていた。

 無意識だった。

 怒りや悲しみといった感情よりも先に、魂そのものが突き動かされていた。


 真人の前に立ち、右手を、振り抜いた。


 パンッ、と。


 夜の空気を鋭く叩く音が、あまりにも鮮烈に響き渡った。


 真人の顔が、わずかに揺れる。

 月明かりに照らされた彼の頬に、私の手のひらの形が、みるみるうちに赤く滲んでいった。

 彼は目を見開いたまま、何も言わなかった。ただ、その瞳だけが、私を映していた。


「……なんが、責任ね!!」


 私は叫んでいた。

 声が震え、身体が震え、でもそれ以上に、魂が燃えていた。


「真人がいない世界なんて……!そんなの、くそくらえやろうが!!」


 喉が裂けそうだった。

 けれど、言葉は止まらなかった。


「誰かの代わりに死ぬくらいなら、誰かのせいで生きて苦しんだほうが、ずっとマシ!!だって、生きとったら——笑えるけん。怒れるけん。ほんとに大事なもん、見つけられるけん……!!」


 真人は、ゆっくりと目を伏せた。

 その長い睫毛の影が、赤くなった頬の上で小さく震えていた。

 けれど、彼はまだ、何も言わなかった。


 その沈黙が、どんな反論よりも重く、私の胸に突き刺さった。


 言葉は、確かに届いていたはずだった。

 彼の瞳がわずかに揺れ、唇が何かを形作ろうとして、しかし、何も紡ぎだすことなく固く結ばれた。

 そして、訪れたのは、音のない拒絶。


 いや、違う。

 言えなかったのだ。


 彼の視線が、ほんの一瞬だけ、迷うように揺れた。

 唇が、何か言葉の形を作ろうとして、止まる。喉が小さく上下し、乱れた呼吸は整う気配を見せない。

 そのすべてが、彼の内側で嵐のように吹き荒れる葛藤を、雄弁に物語っていた。


 それでも——彼は、散らばった言葉の中からひとつを選ぶようにして、ようやく口を開いた。


「……えみのことを、想ってるからだよ」


 私は、息を呑んだ。


「……は?」


「だから……俺がこうするのは、恵美のためでもあるんだ」


 目は伏せられていた。

 けれど、その声は、どこまでも真っ直ぐだった。

 その揺るぎなさが、余計に私の腹の底を煮えくり返らせた。


「ふざけんなよ……!」


 私は怒鳴っていた。


「うちのため?誰がそんなこと頼んだ!?勝手に死のうとして、『恵美のため』とか……勝手なことばっか言いよるっちゃなかよ!!」


 その時だった。

 真人の目が、はじめて私をまっすぐに見返した。

 けれど、その奥に宿っていたのは、痛みでも、怒りでもない。


 ただ、どこまでも深い——諦めだった。


「……もういい。真人がどう思ってようと……」


 私は、震える指を握りしめた。


「何が何でも、連れて帰るけん!!」


 そう叫びながら、私は再び真人の腕を掴み、強引に引っ張ろうとした。


 そのときだった。


「——やれやれ。ほんま、手ぇ焼ける女やな」


 声が、私たちの間に割って入った。

 低く、飄々としていながら、その芯は少しも揺らいでいない。

 振り返るまでもなく、それが誰の声なのかは分かっていた。


 長髪の男が、長い前髪を気だるげに指先でかき上げながら、こちらへ歩いてくる。

 口元には薄い笑みが浮かんでいたが、その目は少しも笑ってはいなかった。


「真人くんは、ようわかっとる。大人ってのは、責任を果たす存在や。村を守るってのは、そういうこと。犠牲は当然、必要なんよ」


 彼の足音が、草を踏むたびに、やけに鋭く響いた。


「……この中で、わがまま言うてるのは、お前だけや」


 その言葉に、私の肩がびくりと跳ねた。

 怒りで視界が滲む。

 でも、言い返すよりも前に——


「……すみません」


 真人の声だった。

 私と長髪の男の視線が、同時に彼の方へと向けられた。


 真人の目は、まっすぐ私を射抜いていた。


「御神体を、見せたい。彼女に。いいですか?」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 でも、その響きには、ただの物見遊山ではない切実な何かが込められていた。

 私の知らない理屈、私の知らない世界の真実が、有無を言わせぬ力でそこにあった。


「……あれを見れば……俺が、なんでここにいるのか……伝わるかもしれない」


 私は、無意識に一歩、後ずさっていた。

 胸が、きゅうっと締めつけられるように痛んだ。


 その瞬間、私の中で、これまで頑なに拒絶してきた何かが、静かに音を立てて崩れ落ちた。


(……だったら、見てやるよ)


(見て、受け止めて、その上で——壊してやる)


 私は、ゆっくりと頷いた。

 その一度の動きに、私のすべての覚悟を込めて。


 私が顔を上げると、真人は、どこかほっとしたような、それでいて痛みをこらえるような、複雑な表情で私を見つめ返した。

 彼は一度、固く結んでいた唇を緩め、まるで言い聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。


「御神体がある場所は……この屋敷から、そう遠くない」


 真人は、私の目を見て静かにそう言った。


「ただ、今から行くのは……あまりに危ない。足場も悪いし、闇も深い。明日になったら、案内する。……いい?」


 私は、彼の言葉を黙って受け入れた。

 頷くことしかできなかった。

 肌を粟立たせるような、濃密な闇の気配がすぐそこまで迫っているのを、頭ではなく、身体の芯が感じ取っていたからだ。


 再び屋敷の中へ戻ると、私たちは広間へと通された。

 そこに広がっていたのは、異様という言葉ですら生ぬるい光景だった。

 広間の中央には、不自然なほどに横へ長い、巨大な石の台が据えられている。


 祭壇なのか、あるいは墓石なのか。その無骨な石肌の上には、白い布もかけられず、色とりどりの大皿が所狭しと並べられていた。

 豪快に切り分けられた肉。艶やかに光る季節の野菜。湯気の立つ赤い煮込み。そして、青々とした香草の葉で覆われた焼き物。そのどれもが、手間暇をかけて作られたことが一目でわかる料理だった。


「村の種袋どもに作らせたんや。感謝せんといかんなぁ」


 長髪の男が、ふっと息を吐くように言った。

 その侮蔑に満ちた言葉を合図にしたかのように、他の男たちが声を上げて笑い合う。

 共犯者たちの、不快な結束がそこにはあった。


 十二人の男たちは、まるで長年の儀式で定められた手順をなぞるように、石台の周りの席へと着いていく。

 誰かが指示を出すでもなく、誰ひとりとして迷いを見せることもない。

 石台の両側に、左右六人ずつが等間隔で腰かけると、まるでそれが世界の正しい形であるかのように、異様な調和が生まれた。


 音頭を取る者もなく、食事は始まった。

 自然と箸が動き、酒が酌み交わされ、食べ物を分け合いながら、他愛のない笑い声が飛び交う。


「おい、これ味濃すぎやろ」

「お前んとこの種袋の方が上手いっちゃ」

「この芋、どこの畑や?香りがええなぁ」


 ごく普通の村の男たちの、ありふれた会話。

 その日常性が、この非日常な空間の中では、何よりも不気味に響いた。

 私はその光景をただ睨みつけながら、膝の上で固めた拳に、爪が食い込むのを感じていた。


 そのとき、背後から声がかかった。


「おい、そっちも腹減っとるやろ。食えや」


 長髪の男が、顎で私と真人を指し示した。

 私たちが通されたのは、十二人の席からあからさまに距離を置かれた場所にある、小さな木製のテーブルだった。

 歪んだ脚。ささくれ立った表面。そこに、二脚だけがぽつんと置かれている。

 まるで、穢れを避けるかのように隔離されたその席に、私たちは座らされた。


 テーブルに置かれていたのは、二つの皿と、二つの杯。

 皿の上には、湯気の立つ麦飯と、焦げ目のついた素焼きの野菜が数切れ。

 杯には、ただの透明な水がなみなみと注がれていた。

 ごく質素で、けれど不気味なまでに整えられた食事だった。


「いただきます」


 真人が、静かに手を合わせた。

 その姿に、私は言葉を発することができず、ただ目の前の杯を手に取って、水を一口、口に含んだ。

 冷たかった。

 そして、微かに鉄の味がした。


 視線の先で、十二人が笑っていた。

 肩をぶつけ合い、肘で突き、同じ鍋からすくったものを、互いの皿に取り分けている。

 それは、ただの親密さではなかった。


 彼らは、死んでも一緒だという確信を、この食卓で交わしているのだ。


 やがて、食事は終わった。

 誰かが終わりを告げたわけではない。

 まるで、あらかじめ決められていたかのように、十二人の箸が同時に置かれ、不気味なほどの静けさが広間を満たした。


 長髪の男がこちらへ視線を向け、顎で立つように促す。

 私と真人は無言で立ち上がり、再び男たちに囲まれて、冷たい廊下へと歩き出した。

 足音の反響が、石壁に沿って細く長く伸びていた。

 私と真人は、食事を終えた後、再びあの地下空間へと戻されていた。


 闇そのものはさほど深くはない。

 けれど、壁のところどころに置かれた灯りは、まるで計算されたかのように弱々しく、私たちの影だけを不気味なほど長く、冷たく床に這わせていた。


 やがて、ひとつの檻の前で足が止まる。

 金属の扉が軋むような音を立てて開くと、男たちの無遠慮な手によって、私たちは二人まとめてその中へと突き飛ばされた。


 ごとん、と。

 背後で扉が閉じられる音が、腹の底に重く響いた。


 続いて、錆びた鍵が回る、軋んだ金属音。

 その無機質な響きが、外の世界との最後の断絶を告げているように聞こえた。


 石の床は、ひやりと冷たく、じっとりと湿っていた。

 壁に寄りかかる場所すら選べないほどに狭く、鉄格子は胸の高さまで伸びている。中腰で座ることさえ億劫になるような、ただ人を閉じ込めるためだけに作られた空間だった。


「……扱い、ひどくない?」


 私は、声を殺して真人に尋ねた。

 彼は、私の言葉に苦笑したように、ほんの少しだけ口の端を上げた。


「……念のため、らしいよ」


 それ以上の言葉はなかった。

 けれど、その笑みは、もはや他人事のように自身の運命を眺めている者の、痛々しい自嘲の色を帯びていた。

 見ているこちらの胸が、きゅうっと締めつけられる。


 私は、たまらず視線をわずかに伏せた。

 真人が、鉄格子の反対側にある壁に背を預け、ゆっくりと座り込む気配がした。


 目は閉じられていなかった。

 けれど、その瞳は何も見ていない。光を映さず、ただ虚空の一点を見つめていた。


「……おやすみ」


 ぽつりと、それだけを私に残して。


 私は、答えなかった。

 答えられなかった。

 心の奥で、確かに何かが冷たく、ぱきりと音を立てて割れた気がした。


(もう、言葉では戻せない)

(だったら——力で、奪うしかない)


 真人の肩が、ゆっくりと上下していた。

 眠っているのか、ただ目を閉じて意識を閉ざしているだけなのかは、分からない。

 でも、その背中が、ひどく遠く見えた。


 同じ空間にいるのに、声の届かない場所にいるような——そんな底知れない孤独を、私ははじめて感じていた。

 私は、片膝を立てたまま、その場に座り込む。

 拳を膝の上で強く、強く握りしめた。


(明日——必ず、終わらせる)

(この村の因習も、儀式も、全部……)


 目を閉じる。

 闇の向こうで、何かが静かに蠢いている気配がした。

 でも、それに負けるわけにはいかなかった。


 私の心は、ただひとつのことだけを、消えない灯りのように掲げていた。


 ——真人を、連れて帰る。

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