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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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第43話「手がかりを求めて」

 人々の笑い声が聞こえた。

 祭りの太鼓が、地の底から響くように鳴っていた。

 数多の提灯が、暮れなずむ夕闇を塗り替えるように揺らめいている。


 けれど、その賑わいのすべてが——もう、私たちの足元からは遠く過ぎ去っていた。


「行こ」


 私がそう促すと、チカはこくりと頷いた。

 言葉はなくとも、その瞳には静かな覚悟の色が浮かんでいた。

 彼女は右手でシャツの裾をわずかに握りしめ、一度深く息を吸って吐くと、決然と前を向いた。


 二人で提灯が連なる光の下を抜け、出店の並びの最後尾をすり抜ける。

 もう、私たちの姿に気を留める者は誰もいない。

 私たちは、祭りの光が作る輪の外へと踏み出していた。


 風が、喧騒の余韻を背後へと運び去っていく。

 足元の感触が、硬い石畳から柔らかな砂に変わり、やがて枯れ草の混じる小道へと続いていく。

 目的の公民館は、まだ見えてはいなかった。


 それでも、あの建物だけが放つ独特の気配が、すでに鼻先を掠めているような気がした。


「大丈夫?」


 小さく声をかけると、チカは再び頷いた。

 ただ、その頷き方はどこかぎこちなく、唇の端が強張っている。

 彼女はそれを隠すように、髪をそっと耳にかけた。


「うち、ここに入るの……ほんとは、ちょっと怖い」


「わたしもだよ。でも、今夜しかない」


 言葉を交わすうちに、公民館がその姿を現した。

 西日を浴びて、白い壁がぼんやりと浮かび上がっている。

 昨日見たものと同じ建物であるはずなのに、今はまったく違うものに見えた。


 昼間の親しみやすい顔を脱ぎ捨て、まるでこの村が隠し持つ深淵のような沈黙を纏っている。

 玄関の扉に、鍵はかかっていなかった。

 取っ手をそっと引く。


 音はしなかったが、内側から流れ込んできた空気は、ほんの少し湿り気を帯びて冷たかった。


「……静かすぎるね」


 チカの囁きが、すぐ耳元で震えた。


「うん。誰も、いない」


 だが、その無人であることが、かえって恐怖を煽った。

 この静けさこそが、まるで周到に用意された舞台であるかのようにさえ思えてくる。

 祭りのざわめきが、背後で閉ざされていくのを感じた。


 もう、私たちは誰にも見られていない。誰の声も届かない場所にいるのだ。

 私は手探りで壁のスイッチを探し当てた。

 指先に触れたプラスチックの感触を確かめて押し込むと、蛍光灯が「チチ……ッ」と瞬いて、白々とした光を放った。


 光が天井に広がるのと同時に、床には私たちの濃く長い影が二つ、張りつくように伸びた。


「まずは、裏側」


 私は、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 そこに何があるのか、確証はない。

 けれど、昨日、お盆が運び込まれたあの空間——あの場所には、何かがあるはずだ。


 二人で廊下を進む。

 背中越しに、チカの呼吸が浅くなっているのが伝わってきた。

 私は彼女の手首を軽く握った。


 それだけで、彼女の強張っていた身体から、少しだけ力が抜けた気がした。

 突き当たりにある扉の前に、私たちは立った。

 手をかけると、金属のノブがひやりと冷たい。


 私の手のひらが、じわりと汗ばんでいるのが分かった。

 隣でチカが、小さく息を呑む気配がした。

 この扉の先に、私たちが求める答えがあるのかもしれない。


 私は意を決して、ゆっくりとノブを回した。

 扉の蝶番が、軋むような鈍い音を立てた。

 ゆっくりと開かれたその先に広がっていたのは、ただの殺風景な備品室だった。


 蛍光灯の白い光が、整然と並んだ棚を照らし出している。

 折り畳まれたパイプ椅子、ビニール袋に詰められた蛍光色の腕章、そして赤と白のロープ。

 棚の隅には、祭りの警備で使われるのであろう黄色いベストが積まれ、その背中には黒々とした「安全」の文字が染め抜かれていた。


 部屋の隅に溜まった埃の匂いが、鼻腔にまとわりつく。

 足元は冷たいコンクリートが剥き出しで、その隅の一画は湿気を吸ってうっすらと黒く変色していた。


「……ただの備品部屋やん……」


 チカが、安堵と落胆が入り混じったような声で小さく漏らした。

 彼女の肩から、張り詰めていた力がふっと抜けていくのが分かった。


 私は部屋の奥まで歩みを進め、棚に視線を這わせる。

 ホッチキス、画鋲の箱、使いかけの養生テープ。

 そこにあるのは、公民館という場所にありふれた、見慣れた物品に過ぎなかった。


 ——けれど。


 ひとつだけ、そこにあるべきではないものが、私の目を捉えた。

 棚の一番上の段、その奥に置かれた、白くて平たい段ボール箱。


 近くにあった踏み台を引き寄せ、その上に立つ。

 指を伸ばして箱を引き出し、そっと床に下ろして蓋を開けた。

 中にあったのは、綺麗に切り揃えられた紙片の束。


 見覚えがあった。

 昨日の宴、村人たちがあの液体を飲み干した後に配られていた、あの短冊の形をした紙だ。


「……やっぱ、ここにあったとね」


 チカの声が背後で響いた。


 私はその束を手に取り、ぱらりと数枚めくってみる。

 すべてが未記入のまま、真っ白だった。

 ただ、中央には半分に折るための筋が、あらかじめ深く刻まれている。

 インクの匂いはない。それでも、この紙がただの紙ではなく、ある種の儀式のためだけに存在するのだと、その無機質な佇まいが物語っていた。


 他に何か手がかりはないか。

 私は段ボールの中をかき回し、指先でその底を探った。


 だが、そこには何もなかった。

 使用済みの紙も、名簿のような記録も。

 これまで、誰の名前がそこに記されてきたのか、その痕跡に繋がるものは何ひとつ見つからなかった。


「……ちっ」


 思わず、舌打ちが漏れた。

 自分の口からこんな音が発せられたのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

 びくり、と隣でチカの肩が震えた。


 彼女が私を見る。その瞳には、不安や怯えとは違う色が浮かんでいた。

 それは私の内に渦巻く熱に当てられたような、戸惑いを映す目だった。


「……ごめん。ちょっと、期待してたから」


 言い訳のようにそう口にすると、チカは静かに首を横に振った。


「いいよ。えみちゃん、必死やもんね。……伝わっとる」


 私は紙片の束を箱の中に戻した。

 それはまるで、一度解いた封印を、再び元の場所へ収めるような、儀式めいた仕草になった。

 この村は、何かを隠すことに長けている。


 この「何もない」ということ自体が、巧妙に仕組まれた罠なのだ。

 だからこそ、私は、そのすべてを暴かなければならない。


「もうひとつ、見ておきたい場所がある」


 そう言って立ち上がった時、私の心は、すでに次なる扉の冷たい感触を捉えていた。


 紙片の束を収めた箱を棚へと戻し、その扉を閉める。

 パタン、という乾いた音が響くと、部屋の空気がわずかに密度を増したように感じられた。

 閉じ込めた秘密の重みが、この空間を満たしていくかのようだ。


 あれほど響いていた祭りの音は、もう聞こえなかった。

 公民館のこの一室だけが、外界から切り離され、音のない時間を静かに流している。


「チカ」


 呼びかけると、彼女は静かにこちらを向いた。

 私の頭の中に、ふと、ひとつの可能性が浮かび上がっていた。

 これまで考えもしなかった、名前すら上がらなかった存在。


「村長の家って、どこにある?」


 問いかけると、チカは少し驚いた顔をして、不思議そうに首を傾げた。


「村長さん?」


「うん。……もし、この村の真実を識る者がいるとしたら——」


 そう言いかけた時、チカの瞳からふっと光が遠のいた。

 まぶたの動きがわずかに緩慢になり、その視線は焦点を失って、一度、壁の向こう側へと彷徨う。


「……うち、村長さんの顔、もう何年も見とらん」


 ぽつり、と漏れたその言葉に、私は息を呑んだ。


「……え?」


 チカは、悔いるように自身の唇をきゅっと噛んだ。


「小学校んとき、名前だけは聞いた覚えがある。けど、どこに住んどるかも知らんし……うちの家族も、『村長さんがそう仰っていたから』って、たまに話すくらい」


 彼女の言葉が、喉の奥でつかえた。

 顔も、住まう場所も誰にも知られていない。 けれど、確かにこの村に「いる」とされている。

 その存在に誰も会おうとしないことが、ここではごく自然なこととして受け入れられているのだ。


 その底知れない異常さに、背筋を冷たいものが走り抜けた。


「それ……おかしいよ。どこの村でも、町でも、長っていうのは顔が見える存在じゃないの。なのに、誰も会ったことがない。居場所さえ知らない。そんな村長、いる?」


 チカは黙っていた。

 だが、その表情はもう、何も「知らない」とは言えない顔つきだった。

 自ら思い出そうとせず、無意識に思考を閉ざしてきたという事実に、彼女自身が今、気づき始めているのだ。


 村長は見えない。公民館にも何もない。

 手がかりは掴もうとするたびに、指の間をすり抜けていく。

 喉の奥が、じわりと熱を帯びた。


 そして、その熱は急速に冷え、硬い決意へと変わっていく。


 ——もう、動いている者たちを直接見張るしかない。


「……あの十二人」


 私の口からその言葉が漏れると、チカの肩がびくりと震えた。


「うち、今夜、あの人たちを尾ける」


 その声は、自分でも驚くほど静かに、けれど凍てつくような響きを持って発せられた。


「動きがあるなら、あの人たちが握ってる。あの祝詞の意味も、名前のことも。すべて、あの人たちの動きの中にこそ現れるはず。……絶対に、何かしてる」


 チカは黙ったままだった。

 けれど、彼女の瞳がわずかに揺れ、そして、すべてを受け入れるようにこくりと頷いた。


「……気をつけて。あの人たちは、時折、人ではない何かに見えるときがあるけん」


「人じゃなくても構わない。うちは、真人を返してもらう。それだけのことやけん」


 そう言い放った私の唇が、ふっと笑みの形を作った。

 笑っているはずなのに、その奥で、握りしめた拳が微かに震えていた。


 その震えを鎮めるように、私は一度、固く閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。

 内に渦巻く熱を吐き出すかのように深く息を吸い、隣に立つチカへと向き直る。


「行こう」


 私の声に、彼女はこくりと頷いた。

 公民館の重い扉を押し開けて外の世界へと戻ると、ひやりとした夕暮れの空気が、火照った頬を静かに撫でていく。


 ◇


 空が、ゆっくりと赤く染まり始めていた。

 村のあちこちに灯る提灯の光が、ひとつ、またひとつと夕闇に溶け、その存在を濃くしていく。

 天上の明るさと地上の明るさが入れ替わる、ほんの束の間。


 人の目が、もっとも物事の輪郭を見誤るその一瞬。

 私たちは、その境界を縫うようにして歩いていた。

 チカを連れて、私の実家へと向かう道。

 頭の中では、何度も同じ光景が再生されていた。


 あの夜、宴会場で厳かに祝詞を口ずさんでいた父と母の姿。

 穏やかな笑みを浮かべ、まるでそれが長年続けてきた日常の一場面であるかのように、静かに唇を動かしていた二人。


 あの光景が、拭い去れない染みのように脳裏に焼き付いている。

 心の底から両親を信じ切ることは、もう、できなかった。

 けれど、それでも。


 あの閉ざされた家での日々に比べれば、ここは遥かに安全なはずだ。

 チカの夫——言葉の上ではそう呼ばれていても、私にはあの歪んだ関係が、人として許されるものとは到底思えなかった。


 触れられたくないものに触れられ、何かを諦めてすべてを差し出しているかのような、チカの手首の震えが、そのすべてを物語っていた。


 実家の門を開けると、家の中は静まり返っていた。

 両親は、まだ祭りの手伝いから帰ってはいないらしい。

 振り返ると、チカが不安げな瞳で辺りを見回していた。


「……えみちゃん、本当に、いいと?」


「うん。……ここで待ってて」


 私は、努めて微笑んでみせた。

 それは笑顔の形を借りただけの、硬い決意の表れだった。


「ここなら、誰も手は出さない。……少なくとも、あんたのあの家よりは」


 チカは、小さく頷いた。

 その動きには、わずかな逡巡の色が見えた。

 それでも彼女は、意を決したように一歩、家の中へと足を踏み入れた。


 自室の戸を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。

 朝出て行った時のまま、時間が止まっているかのような静けさだった。


「チカ、ここにいて」


 そう言って、彼女を部屋の中へと促す。


「絶対に、遠くに行かないで。何があっても、ここを動かないと約束して」


 チカは、静かに私を見上げた。

 そのまっすぐな瞳の奥に、何かを託すような光が揺らめいていた。


「……えみちゃん」


「大丈夫。私は帰ってくるから」


「……うち、えみちゃんが来てから、やっと……やっと、少しだけ人間らしさを取り戻せた気がしとる。自分でも忘れとった。泣くこととか、悔しいって思う感情とか」


 私は、そっと彼女の手を取った。

 指先が、氷のように冷たい。

 その冷たさを、両手でゆっくりと包み込んでいく。


「真人を、取り返してくる。そして……あんたも、私が連れて帰るから」


 私の言葉は、もはや祈りや願いの類ではなかった。

 それは、自らに課した揺るがぬ意志そのものであった。

 チカは、何も言わずにその言葉を受け止めた。


 そして、ただわずかに笑った。

 悲しみと誇りが溶け合ったような、子どもの頃の彼女にはなかった、大人の表情で。


 私は一歩、部屋を出た。

 足元の床が、乾いた音を立てる。

 背中に、チカの気配がまだ残っている。


 けれど、私は決して振り返らなかった。

 祭りのざわめきが、遠くでまだ続いていた。


 今夜、私は——夜を追う。

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