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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 終章 しずく、堕ちて咲く
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第41話「反撃の狼煙」

 谷を抜け、森の深い影を背にしながら、私たちは再び坂道をゆっくりと上がっていった。

 山裾に沿うようにして数軒の古びた民家が並び、その中で一段だけ奥まった場所に、小さな木造家屋がひっそりと佇んでいた。

 それが、チカの家だった。


「ここやけん。暗かけど、足元気ぃつけて」


 チカが懐中電灯の光を足元に落としながら、苔むした石段を上っていく。

 彼女の後に続くと、小石がからりと転がる音と、湿った草を踏む微かな音が夜の静寂に吸い込まれていった。

 揺れる光の中で、チカの足首が白く浮かび上がる。湿った夜気にさらされた肌が、少しひんやりと見えた。


 玄関の引き戸は、驚くほど静かに開いた。

 チカが壁のスイッチを入れると、天井の裸電球がぼんやりと橙色の光を放つ。

 小さな靴箱と、木目がところどころ擦り切れた床。


 めくれた玄関マットの端が、先ほど訪れた真人の家にはなかった確かな生活感を醸し出していた。


「……ただいま」


 チカがぽつりと言ってスニーカーを脱ぐ。

 私もそれに倣い、靴を揃えて家に上がった。

 室内には、薄い味噌の匂いと古い畳の匂いが混じり合った、独特の空気が満ちていた。どこか懐かしい、けれど同時に、やはりこれもこの村の空気の一部なのだと感じる。

 それでも、先ほどまでの張り詰めた緊張が解け、ここは安心していい場所なのだと、素直にそう思えた。


「えみちゃん、こっち、奥ん部屋。ちょっと片付けとらんけん、散らかっとるけど」


「……ありがと。ぜんぜん、大丈夫」


 通された部屋には、敷きっぱなしの布団があり、隅には雑誌の束が重ねられている。

 チカは、私のために空気を和らげようとしてくれているのがわかるような、少し慌ただしい仕草で布団を整え始めた。


「……掛け布団、これでよかったっけ? 夜ちょっと冷えるかもしれんけん、これも上に重ねてよかよ」


 彼女の穏やかな声が、強張っていた私の心を優しくほぐしていく。


 二人で部屋の隅に並んで座り、私は結んでいた髪をほどいた。

 汗で張り付いていた髪がふわりと肩に落ちるのを、チカが横目で見て、ふっと小さく笑った。


「……変わらんね、えみちゃん。髪のまとめ方も」


「……チカも。なんか、変わっていないように見せようとしている気がする」


 私の言葉に、彼女は悪戯っぽく笑い返した。


「ふふっ。……たぶん、それ、ほんとやと思う」


 洗面所を借りて顔を洗うと、手のひらに受けた水が山の冷たさを帯びていた。

 その心地よい冷たさが、目の奥にこもっていた熱をすっと奪い去っていく。

 部屋に戻ると、チカが私のために用意してくれた布団の端に、静かに座っていた。


 柔らかな灯りに照らされた彼女の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「……チカがいてくれて、助かった」


 私の声に、彼女はゆっくりとこちらを向く。


「うちもよ。……ほんと」


 やがて電灯が落とされ、部屋の中に山の夜の音がしんと染み込んできた。

 遠くから聞こえる虫の声。川のせせらぎ。時おり、風に揺れた葉が軒を叩く乾いた音。

 そのすべてが、夢と現実の境界を曖昧に揺らしていく。


 あの人たちは、今どこにいるのだろう。


 目を閉じると、まぶたの裏に、闇へと消えていった十二人の男たちの背中が浮かび上がった。

 そして、真人の名が——また静かに、眠りへと落ちていく意識の淵をかすめていった。


 体の力が抜け、思考がまとまりを失っていく。

 遠くで聞こえていた川のせせらぎや虫の声が、次第に意味を持たない音の連続となり、子守唄のように意識の輪郭を溶かしていく。微睡まどろみという名の、温かくも底の知れない闇の中へ、体ごとゆっくりと沈んでいく感覚。


 今日の出来事が、まるで水に落とした絵の具のように混ざり合い、ぼやけていく。

 その微睡みの、一番深いところに意識が届こうとした、まさにその瞬間だった。

 すべての音と、まとわりつくような夢の気配を鋭く切り裂いて、ぴたり、と音がした。


 私は、目を開けた。呼吸のリズムが乱れたわけではない。

 けれど、薄い眠りの膜を内側から裂くには、その微かな物音で十分だった。


 何かが、動いた。


 耳を澄ますと、しんとした夜の空気の底で、古い畳がわずかに軋む音がした。

 そして——引き戸が衣を擦るような、低い音。


 ご、と。


 木がゆっくりと溝から外れ、そして閉じられる気配。


 暗闇に目が慣れてくると、障子越しに差し込む月明かりが、部屋の輪郭を淡い白で縁取っているのがわかった。


 その光の中に——ひとりの影があった。


 男だった。


 背はそれほど高くないが、肩幅が広く、その身体の中心にはずしりとした芯のような重みが感じられた。呼吸の音も荒くはない。

 それなのに、彼がそこにいるというだけで、部屋の空気は密度を変え、重く張り詰めていた。


 男は、私たちの寝ている部屋の前に立ち、私を一瞥することもなく、隣に横たわるチカへとその顔を向けた。


「……おい」


 その声は、名前ではなかった。

 呼びかけですらなかった。

 ただ、そこに在る何かを起こすためだけに発せられた、無機質な音だった。


 チカが、目を開けた。


 彼女のまぶたが、何の躊躇もなく静かに持ち上がる。

 その瞳が男の姿をはっきりと捉えるよりも先に、もう彼女の体は動き始めていた。


 チカは無言で身を起こすと、乱れひとつない仕草で布団の上に膝を揃え、正座する。

 そして、そのまま男の方を静かに見上げた。

 私のすぐ横で、そのすべてが起きているというのに、声が出なかった。

 今ここで声をかければ、この奇妙な均衡が、二度と戻らない形で壊れてしまうような気がした。


 二人の間に、会話はない。


 それなのに、チカの動きはまるで、そうなるようにあらかじめ定められていたかのようだった。

 彼女はすっと立ち上がると、男に歩み寄り、数歩先の暗がりへと共に消えていった。


 部屋の戸が、またごとりと重い音を立てて閉まる。


 そこから先は、何の音もしなかった。


 私は、布団の中で身体を石のように固くしていた。

 自分の心臓の音だけが、耳の奥で大きく、大きく鳴り響いている。

 先ほどの男の顔は、はっきりと見えなかった。でも、あの宴会場で見かけた誰かだったような気がしてならなかった。


 そして、チカが一度もその存在を語らなかった、彼女の夫。

 どこにいて、何をしていたのか。そして、なぜ今ここに。

 その答えは、ひとつもわからない。


 けれど、もっと気味が悪いのは——チカの反応だった。


 驚きも、拒絶も、そこにはひとかけらもなかった。

 まるで決められた手順にただ従っているだけのような、静かすぎる動き。

 あれは、心を持つ人間の動きではない。


 魂のどこかを抜き取られてしまったかのような、動物的な従順さだけがそこにあった。

 布団の中で、私はただ目を開けたまま、闇に沈む天井を見つめた。

 山の夜は深く、外では風が木の枝をゆっくりと揺らしている。


 この村は、壊れている。


 そう思っても、何も言えなかった。

 今、私がここにいることすら、どこか嘘のような夜だった。

 どこか遠くで、甲高い鳥の声がした。


 しかし、朝はまだ、来ていなかった。


 闇は一層その深さを増し、時間はまるで凍りついたかのように動かなかった。

 私は眠ることを諦め、ただ息を殺して布団の中にいた。心臓の音だけがやけに大きく響き、チカのあの無表情な横顔と、男の感情のない声が、繰り返し脳裏をよぎる。


 どれくらいの時間が経ったのだろう。一時間か、あるいはもっと短い時間だったかもしれない。

 張り詰めた意識の中で、五感だけが異常に研ぎ澄まされていく。

 遠くで風が止み、静寂が耳に痛いほどだった。


 次に何が起こるのか。

 その一点に全神経が集中し、耳は廊下の向こうのかすかな物音を探して、闇の中を彷徨っていた。


 そして、その時は来た。

 音というより、空気の動く微かな気配。廊下の向こうで、静寂の質がわずかに変わった。

 私は咄嗟に目を閉じ、呼吸を整える。

 全身の血が、ゆっくりと冷えていくのを感じた。


 襖が、静かに開いた。

 私は、寝たふりをしていた体をゆっくりと起こす。

 音を立てないように布団の中で息を潜めていたが、部屋に満ちる異様な沈黙は、もう限界だった。


 戻ってきたのは、チカだった。


 薄暗い光の中、差し込む月明かりが彼女の輪郭をなぞっている。肩口まである栗色の髪は乱れ、左右非対称に揺れていた。

 首元のシャツには、誰かの指で握りしめられたかのような深い皺が刻まれている。


「……チカ」


 声をかけると、彼女は部屋の中ほどで一瞬だけ立ち止まり、私の方を見た。

 その瞳に、何も宿っていないように思えた。感情というものが綺麗に抜け落ちた、ガラス玉のような瞳。だが、それもほんの一瞬のこと。

 すぐにその表情は、見慣れた「いつものチカ」へと戻った。


「……起こした?」


 声は柔らかかった。

 けれど、その奥に深い疲労が滲み、喉の奥がわずかにかすれている。

 息の出入りが浅く、早い。


「さっきの……誰?あの人、チカの旦那なの?」


 私は身を起こし、布団に膝を立てたまま彼女に向き直った。


「なにしてたの?……いや、あんな時間に、黙って来て、黙って……」


 思っていたよりも、自分の声が震えていることに気づいた。

 チカは少しだけ微笑んだ。でも、その笑みには、明らかに作り物の気配があった。

 痛々しいほどに整った、感情の伴わない形だけの微笑みだった。


「……なにって、別に。普通のことやけん」


「……普通の、こと?」


「うん。夫婦やけん。珍しかことじゃなかとよ。……えみちゃん、都会に染まりすぎとるんよ。そういうことも、普通にあるけん」


 その言葉を、私は信じられなかった。

 けれど、チカは、そう言ってしまえる顔をしていた。

 諦めと、どこか自嘲するような響きを隠して、平然と言ってのける顔を。


 彼女は、布団の端に腰を下ろすと、乱れた髪を手櫛で整え始めた。

 その動きが、少しだけ鈍い。指がもつれた髪に引っかかり、彼女はわずかに顔をしかめた。


 ふと、私は思った。

 なぜ、そんな小さな痛みだけが、彼女の顔に浮かぶのだろう。

 宴のとき、チカはあの液体を飲まなかった。私が、止めたからだ。


 それ以降、彼女だけが、この村を覆う何かに、完全には染まりきっていない可能性がある。

 その思考が、雷のように頭を駆け巡った。


「ほんとに、大丈夫?」


 もう一度、私は問いかけた。慎重に、声を潜めて。

 チカは、答えずにしばらく目を伏せていた。

 膝の上に置かれた彼女の手が、何かを探すように微かに指を動かしている。


 やがて、その指が、きゅっと布団の布地をつまんだ。


「……だいじょうぶ。慣れとるけん」


 その言葉は、安堵させるためのものではなく、自分自身に強く言い聞かせるような響きを持っていた。

 私は、もう何も言えなかった。

 これ以上言葉を差し出すことが、逆に彼女の中の何かを決定的に壊してしまいそうだった。


 だからただ、黙って、彼女が背を向けて隣の布団に横たわるのを見つめていた。

 背中が、小さく動く。寝息は聞こえない。

 けれど、チカの呼吸は眠っている人のそれではなかった。


 布団の中に収まった彼女の肩が、何度かゆっくりと上がり、そして重く下がる。

 本当は、嫌なんじゃないか。

 その答えを、もしかしたら本人すらまだ自覚していないのかもしれない。


 でも、確かに何かが、固く閉ざされていた彼女の内側で、わずかにほどけかけている気配がした。


 月は雲に隠れ、部屋はまた一段と暗くなった。

 私はまぶたを閉じたが、意識の奥にはまだ、さっきの男の影が焼きついていた。

 そして、諦めに沈んでいくようなチカの横顔が、静かに闇へと溶けていくのが見えた。


 私は、その闇が広がった場所を、ただじっと見つめていた。眠ることは、もうできなかった。

 言葉にならない問いと、行き場のない感情が渦を巻き、意識を冴えさせる。

 隣から聞こえてくるチカの呼吸は、眠りに落ちた人間のそれとは違って、浅く、途切れ途切れだった。


 彼女もまた、この重い沈黙の中で、私と同じように覚醒している。

 私たちはすぐ隣にいるのに、その心は決して交わらない、二つの孤独な島だった。

 畳を撫でるように冷たい風が吹き抜け、障子の向こうがかすかに鳴る。


 さっきから、ずっと何も言えずにいた。

 けれど、今、言わなければならない。そう思った。


「……チカ」


 呼びかけると、暗闇に浮かぶ彼女の背中が、ぴくりと小さく動いた。


「……なん?」


 それだけだったが、声の奥に、ほんの少しだけ警戒の色が混じっているように感じられた。


「もっと……自分をさらけ出していいんだよ」


 私は、言葉をひとつひとつ、慎重に紡いだ。


「我慢しなくていい。……怖いこととか、嫌なこととか、ほんとは全部、吐き出していい」


 静かな間が、二人の間に落ちた。

 けれど、その沈黙は長くは続かなかった。


 チカは、勢いよく布団から起き上がると、こちらを振り向いた。

 月明かりに照らされたその顔には、怒りとも悲しみともつかない、複雑に揺らいだ感情が浮かんでいた。


「……えみちゃんは、都会に染まっとるけん、わからんとよ」


 その声は、震えていた。


「これは、うちの村の当たり前なんよ。みんなこうやって生きとるし、誰も文句言わんし、あんたにかわいそうって言われる筋合いなかよ」


 言葉は、棘のように鋭かった。


 けれど——その言葉とは裏腹に、彼女の頬を、ひとすじの涙が知らぬ間に伝っていた。


「……なんで」


 チカが、かき消えそうなほど小さな声で呟いた。


「なんで、こんなに……悲しかとやろ。別に、誰も傷つけとらんし。文句も、言っとらんし。わたし……なんもしてなかとに……」


 その顔が、ゆっくりと崩れていく。

 頬が歪み、口元が震え、また新しい涙が次々とその瞳から零れ落ちた。


 彼女が指先でそれを拭おうとするよりも早く、私は、チカの震える背中にそっと手を回していた。


「……泣いてもいいけん」


 自分でも知らないところから、声が出た。


「うちが、ここにおるけん。……大丈夫やけん」


 チカは小さく、肩を揺らした。

 それが、嗚咽の合図だった。

 私は、掌から温もりが彼女の芯へ届くことを信じて、その背中を撫で続けた。


 そして、チカの嗚咽がようやく穏やかな呼吸に変わった頃。

 私の中に、まったく別の感情が、静かに芽を吹いていた。


 それは、感傷ではなかった。共感だけでもなかった。


 ——怒りだった。


 静かに、ゆっくりと、しかし確かな熱量を持って、それは腹の底から膨れ上がっていく。


 なんばしよっとか……この村は。


 私は、ぎゅっと拳を握りしめた。

 爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走ったが、心の奥で燃え盛る炎に比べれば、それは些細なことだった。


「……もう、よか」


 チカが顔を上げ、こちらを見る。

 涙の跡が、月明かりに濡れて光っていた。

 私は、ふっと笑った。


「うちが、真人ば、助けに行くけん」


 魂の奥で、何かが確かに音を立てて噛み合ったのが分かった。


「チカも。もう、こん村に縛られんでいいけん。……うちが、引きずってでも連れてくけん」


「……えみ、ちゃん……?」


「聞いとらんといかんよ。あと二日やろ? 祭りの最終日まで。それまでに、うちが絶対、真人ば見つける。取り戻す。……ぜったいに、やけんね」


 子どもの頃、いったん言い出したら誰にも止められなかった、あの頑固さ。

 何を言われても自分の意思を曲げなかった性分。

 それが、十年以上もの時を経て、今この場所で再び顔を出していた。


「こん村の空気?風習?知らんし、もうどげでもよか。真人も、チカも、うちの手で引っ張り出す。覚悟しとって。全部、暴くけん」


 チカは、言葉を失っていた。

 けれど、その涙に濡れた瞳の奥に、ほんの少しだけ、光のような何かが灯ったのを、私は見逃さなかった。


 夜は、まだ深かった。

 けれど、私の中にはもう朝よりもずっと強く、確かな熱が燃えていた。

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