第40話「真人の実家」
真人の家へと続く小道が尽きると、目の前には草に覆われた獣道のような傾斜が広がっていた 。
私たちは、滑らないよう慎重に、ゆっくりとそこを下っていく。
やがて、谷底のように窪んだ場所に、ぽつんと一軒の家がその姿を現した 。
古びた切り妻屋根に、所々が赤錆に侵食されたトタンの外壁。窓という窓にはカーテンではなく、日に焼けて色褪せた分厚い布団のような布が、打ちつけられている。
それは、外からの光を拒むと同時に、この家の中から何ひとつ漏らさないという、強い意志の表れのようにも見えた。
「ここやけん」
隣で、チカが囁くように呟いた。
私は黙って頷くと、彼女の前に出て、家へと向かう。
足首にまとわりつく湿った草が、ぬかるんだ土で靴の底をじっとりと濡らしていく。
玄関の引き戸は、固く閉ざされていた。
けれど、手をかけると、あっさりと横に滑る。
鍵は、かかっていなかった。
その事実に、私は内心で静かなため息をつく。
あの宴の最中、この村の人間は、残らずあの広間にいたはずだ。
ならば今、この家に誰かがいるわけがない。
分かっている。分かってはいても、戸を開ける一瞬、私はわずかに息を詰めていた。
軋む音すらしなかった。
がらんとした闇が口を開けているだけで、中からは匂いも、音も、人の気配も、何ひとつとして漂ってこない。
「真人?」
静寂に耐えかねたように、私の口から名前がこぼれ落ちた。
誰もいないと知りながら、呼んでしまっていた。
その名を声にするたび、胸の奥に冷たい澱が静かに広がっていく。
もちろん、返事はなかった。
私たちは、靴を脱いで土間から奥へと進む。
壁のスイッチを押すと、天井から吊り下げられた裸電球が、頼りない橙色の光で室内をぼんやりと照らし出した。
しかし、明かりの中に浮かび上がった部屋には——何も、なかった。
いや、正確には違う。
生活の痕跡そのものは、そこにあった。
食器棚には皿が数枚重ねられ、卓上カレンダーは今月の日付で止まっている。
押し入れをそっと開ければ、古い綿布団が折り重なるように詰め込まれていた。
炊飯器の中は空で 、部屋の隅で冷蔵庫だけが、低い駆動音を静かに響かせている。
物がそこにあるのに、人の温もりだけが綺麗に抜き取られている。
まるで、持ち主の帰りを待つ抜け殻のようだった。
リビングの壁に、一枚だけ小さな家族写真が掛けられていた。
色褪せた写真の中では、まだ幼い少年が、はにかむように笑っている。
その面差しは、私が知る今の真人と、どこかでつながっているようでいて、決定的に何かが異なっていた 。
私は、吸い寄せられるようにその写真へと手を伸ばす。
けれど、指先が古びたフレームに触れる、その寸前で動きを止めた。
これ以上、踏み込んではいけない。そんな気がしたのだ。
しばらく、私たちは家の中をくまなく見て回った。
だが、真人の行方につながるような手がかりは、何ひとつ見つけられなかった。
「……なんも、ないね」
ぽつりと、チカが呟いた。
彼女の指先が微かに震えていることに、私は気づいていた。
夜は静かだった。けれど、その静寂はまるで作り物のように整いすぎていて、かえって不気味さが際立つ。
「この懐中電灯、借りていってもいい?」
玄関先に置かれていたそれを見つけ、私は尋ねた。電池の残量を確かめてスイッチを入れると、弱々しい光の束が遠くの木立をぼんやりと照らし出す。
「うん……返しにまた来ればいいし。暗くなるけん、持っとき」
私たちは、人の気配が消えた家を後にした。
帰り道は、来た時よりも闇が濃くなっていた。
山の稜線が夜空に溶け、風が肌から熱を奪っていく。
懐中電灯の光が前方の闇を細く切り裂くたび、光の中に小さな虫が飛び込んでは、弾かれたように姿を消した。
「……さっきの写真」
チカが、思い出したように言った。
「ちょっとは、面影あった?真人くん……やったか」
私は答えなかった。胸の奥が、冷たい何かでこわばるのを感じていた。
その、時だった。
前方の、坂道のカーブの先にいくつもの黒い影が現れた。
懐中電灯の光が揺れ、その正体を照らし出す。
十二人。
見間違いようもなかった。
あの宴会場で、不気味な短冊を手渡していた男たちだ。彼らが、こちらへ向かって歩いてくる。
誰も、一言も発しない。
私服のまま、しかし一様に肩に銃をかけ、ぞろぞろと坂道を下りてくる。彼らもまた足元を照らしているようだが、その視線は定まっていない。
光を避けるように俯き、ただ前へ、前へと進んでいる。
その足取りには、個々の意思があるようには見えず、ただ一つの目的に向かって進む機械のような統一感があった。
「……あれ……」
チカの声が、ひどくかすれていた。
「……あの人たち、どこ行きよると?」
私は咄嗟に周囲を見渡す。
この先に何があるかなど、分かりきっていた。
「この辺りにあるのは……」
言葉を呑み込む。
真人の家。それ以外に、道は続いていない。
あの男たちが、今から、そこへ——。
そう考えただけで、喉が詰まった。
足音が、砂利を踏む音が、着実に近づいてくる。
すれ違うまで、あと数歩。
世界の呼吸が止まったかのような錯覚に陥った。
私の心臓だけが、やけに高く跳ねる。
列の先頭に、あの長髪の男がいた。
宴の席で、私に粘つくような視線と言葉を投げかけてきた男だ。
夜風に揺れる髪が、月明かりを浴びて淡く光っている。
男の姿を認めた瞬間、呼吸が浅くなるのがわかった。
彼らがすれ違う寸前、ぴたりと、その視線がこちらに向けられた。
私とチカの足が、自然と縫い止められる。
胸の奥に、冷たい澱が沈んでいく。
男は、私を視界に捉えると——口の端をすっと持ち上げた。
「うぃ」
挨拶のような響きだったが、それは言葉というより、まとわりつく匂いにも似た視線そのものだった。
あの時と同じように、私の顔を嬲るように眺め、さらに腰のあたりへと視線を這わせたが、結局何も言わなかった。
何も言わず、何もせず、ただ、見た。
それだけのことなのに、背筋にぞわりと爬虫類が這うような悪寒が走った。
視線が外されたことで、私はようやく止まっていた息を吐き出すことができた。
男は何事もなかったかのように前を向き、再び歩き始める。
理由はわからない。だが、黙々と進む彼らの歩みには、どこか焦りのようなものが滲んでいた。
その時、隣に立つチカの体が小さく震えていることに気づいた。
私は無言のまま、そっと彼女の手首に触れる。
チカは声こそ出さないが、肩が強張り、瞳がせわしなく揺れていた。
視線は地面に落ちたまま、口元を固く結んでいる。
これは、ただの警戒ではない。目の前の存在を、その危険性を、身をもって知っている者だけが示す、本能的な恐怖だった。
十二人の男たちは、無言のまま私たちの横を通り過ぎていった。
誰も振り返らない。何も言わない。しかし、見られているという感覚だけが、濃密な空気の澱となって肌にまとわりついていた。
「チカ……大丈夫?」
問いかけると、彼女は一瞬の間を置いて、小さく頷いた。
「……ちょっと、びっくりしただけっちゃけん」
その声は、隠しきれずに震えていた。
再び、風が木々を撫でる音が耳に届き始める。
私とチカの間に残された空気が、ずしりと重みを増していた。
十二人の男たちはすでに遠く、坂の向こうの闇へとその輪郭を溶かしていく。
その先にあるのは——真人の家。
私はただ、黙ってその背中を見送るしかなかった。
十二人の男たちの背中が、坂の下の闇に沈んでいく。
砂利を踏む足音は次第に遠ざかり、やがて森と夜の輪郭に溶けて見えなくなった。
私は、その影が消えたはずの場所を、じっと見つめていた。
追うべきかもしれない。
脳裏に、衝動とも呼べる思考がよぎる。
あの男たちの先に、この村の歪みの中心ともいえる「何か」がある。
彼らが真人の家に向かっているという確信に近い感覚が、私の背中を押していた。
今、このまま後を追えば——。
その時、すぐ隣でチカの呼吸が小さく乱れていることに気がついた。
彼女は、私のすぐ横で立ち尽くしていた。
小柄な体をわずかに縮こませ、両手を腹の前で固く、固く握りしめている。指の関節は強く押し付けられて白くなり、足元は夜風のせいだけではない微かな震えに支配されていた。
顔を覗き込もうとすると、彼女はそれを避けるようにさっと目を伏せる。
これ以上、無理はさせられない。
私は、追いかけたいという衝動を心の奥に押し殺した。
今この場で、私一人であの男たちの後を追うことはできるだろう。
けれど、それはこの闇の中に、恐怖に震えるチカを置き去りにすることを意味する。
先ほどの彼女の震えは、ただごとではなかった。
それは、忘れようとしていた古い傷口が、不意にこじ開けられた時にだけ見せる反応だった。
代わりに、私は口を開いた。
「ねえ……あの人たちって、普段はこの村にいないの?」
チカは、一瞬の間を置いてから答えた。
「……うん。上のほう、山のほうに住んどるって聞いとる。昔からそうで……祭りのときだけ、村に降りてくるって。特に、今日みたいな〝お祭りの年〟は、必ずやけん」
「お祭りの年……?」
チカは頷く。
「九年に一度、大きな神事があるとよ。だから、あの人たちは、毎年じゃなくて〝特別な年〟だけ長くおるっちゃろね」
それなら——。
追跡の好機は、まだ残されている。むしろ今は、焦って動くべきではない。
まずは体勢を立て直し、情報を集めるべきだ。
思考が一巡し、ふと、ある感情が冷たく頭をもたげた。
帰りたくない。
自分の実家。あの狂騒の宴の場で、父も、母も、あの歌を当たり前のように口ずさんでいた。
まるで何かに祈りを捧げるように。真人の名前を、何度も、何度も、繰り返し——。
「チカ……」
私は、声を少しだけ落とした。懐中電灯の灯りが、彼女の横顔を淡く照らす。
風に吹かれた前髪が、唇にかかりそうになっていた。
「今夜……チカの家に、泊めてもらってもいい?」
彼女は驚いたように目を丸くした。
けれど、その表情はすぐにふっと緩み、かすかに笑みを浮かべた。
「……うちで、よかと?」
「うん。……帰りたくないんだ。あそこには」
チカは、私の目をじっと見つめ返した。
その瞳に、ようやく確かな光が戻っていた。
「……わかった。うち、たいしたもんないけど、布団はあるし……えみちゃんが来てくれるなら、ちょっと安心するけん」
そうして、私たちは再び歩き出した。
背後で、男たちの影がちらつくことはもうない。
その足音は、とっくに聞こえなくなっていた。
けれど、夜の風はまだ、私の耳元で「まこと」という名の残響を囁き続けているようだった。




