第39話「蕾は裂けて、音もなく」
ちりん――。
朱の鈴が、二度目の音を立てる。
空気が動いた。
まるで、目に見えない何かが広がったように、会場の空間が一気に“ひとつ”になった。
それは言葉ではなかった。号令でも、説明でもなかった。
ただ、“それが今だ”という了解が、この場にいる全員の中で合致していた。
村民たちは、同時に盃へと手を伸ばした。
迷いはなかった。動作はばらけていたはずなのに、結果的にすべてがぴたりと揃っていた。
膝の上から、盃の縁へ。 持ち上げ、口元へ。 角度を変え、唇が触れる。そして――傾ける。
ごく、ごく、ごく。
音はほとんどなかった。けれど、飲むという行為の集団的な気配が、わたしの肌の上に音のように伝わってきた。
わたしだけが、動けなかった。
隣、チカの盃の中で、黄味がかった液体がわずかに揺れている。
透明ではない、にごった記憶のような液体。さっきまで観察していたそれ。
飲ませたらダメだ。
強烈な拒絶感が、体の奥から突き上げてきた。
これは違う。これだけは、だめだ。
頭で、ではない。喉が、舌が、胃が、生理的にそれを拒んでいた。
ほんのかすかに、鉄のようなにおい。薬品と、体液と、雨上がりの土の混じったような曖昧な匂い。
それは不快という言葉では足りない。むしろ、“汚されたくない”という本能の警鐘に近かった。
そして、チカが、動いた。
彼女の指先が、盆の上の盃へと伸びていた。さっきまでは微かに震えていたその指が、今は不思議な静けさを帯びている。呼吸も整っていた。覚悟のある人間の手つきだった。
盃に触れる。持ち上げる。その口元へ――
「……やめて」
反射的に、手が伸びた。右腕が、チカの手首をおさえた。
瞬間、会場の空気がひやりと緊張した気配があった。
「……えみ、ちゃん?」
チカが、わずかに顔をこちらに向けた。
表情は、驚きとも困惑ともつかない。ただ、“止められると思っていなかった”、その一点だけが浮かんでいた。
「これ……飲むの?」
声は、ささやくようだった。だが、喉の奥が熱かった。
「こんなもの、誰が何のために? ねぇ……なんで、説明がないの? 何を飲んでるの?」
問いのすべてが、沈黙の中へ落ちた。
村民たちは、あくまで淡々と、次々に盃を口へ運んでいる。
盃を伏せ、短冊に視線を落とし、また何も言わずに膝を揃える。
誰も、わたしの声には答えない。
気持ち悪い。空気が、そう思った。
この“なにも言わない集団”が、一糸乱れず何かを進めているその構図が、異常だった。
「……チカ、これ、おかしいよ」
わたしの声は、震えていた。喉の奥から、勝手に言葉が出ていた。
「誰も説明しない。何を飲んでるのかも分からない。でもみんな、飲んでる。それって……それって、“怖くない”の?」
チカは口を結んだまま、盃を持った手を膝の上に戻した。下ろすとき、かすかにためらいがあった。
周囲の村人たちは、すでにほとんどが飲み終えている。
それでも誰も、わたしの言葉には振り向かない。
まるで、聞こえていないかのように。
「ねぇ、ねえって……」
声が少しだけ強くなる。けれど、チカは俯いたまま、ただ言った。
「……えみちゃん。だいじょうぶ。わたしたちは、これを“ずっと”やってきたけん」
「ずっと? だから、何?」
「だから、こわくないの。こわいって感じたこと、あんまりなかったけん」
「……わたしは、感じてるよ」
言った瞬間、空気が硬くなった気がした。
わたしは視線を巡らせた。
白装束の老人は動かない。
十二人の男たちは壁際に立ち、猟銃を手に構えたまま、ただ見ている。
誰もが、“飲むことに疑問を持たない村”のまま、沈黙を保っていた。
そのとき、盃を伏せた村人たちの前に置かれていた、二つ折りの白い紙が、音もなく一斉に開かれはじめた。
村の沈黙が、次の段階へ進んだ。
そこには何が書かれてるの?わたしの喉が、かすかに鳴った。
その音は、重たい沈黙にすぐに飲み込まれて消えた。
目の前で、白い紙が次々と開かれていく光景を、わたしはただ見つめていた。
かすかな、布が擦れるような音だけが、部屋の空気を支配している。
誰もが手元のそれに視線を落としている。けれど、そこに何が書かれているのか、この距離からでは分からない。
時間が、止まったかのようだった。
この空間で、わたしだけが異物なのだという事実だけが、冷たく肌に突き刺さる。
その、永遠にも思える静寂を破るように――
ちりん、と。
三度目の鈴が鳴った。
それは、音としては小さかった。けれど、空気の全体が“反応する”音だった。
次の瞬間――
「みずのおと やまのおと うまれくる そのはしら……」
村人たちの口から、声が一斉に噴き出した。
それは“歌”だった。けれど、旋律はない。節回しというより、“抑揚のある詠唱”。
しかも、大きすぎる声で。
「なをしらず なをあたえ つちとともに つぐなえよ……」
圧倒された。空気の層が破裂するような声の波。祝詞のような、詠み上げるような音の洪水。
目の前の人も、隣の人も、同じ言葉を、同じ速度で、同じ口調で。
どうしてこんなにも揃うのか。その“統一”が、異様だった。誰一人、ずれない。間違えない。
目を見開いたまま、まるで自我を抜かれたような表情で“歌って”いる。
まるで……何かを呼んでいるような。鼓膜を押しつぶすような声量のなかで、わたしの呼吸が浅くなる。
“祭り”じゃない。これは“何かの儀式”……。
そのとき、ふと隣を見る。
チカはまだ――盃に口をつけていなかった。
よかった、と本能が小さく安堵する。
まだ間に合う。
祝詞の声の合間を縫うように、わたしは身を寄せ、かすかに声を押し出した。
「……チカ。その短冊、何が書いてあるの?」
その声が、歌の大音量にかき消される寸前で届いたのか、チカのまぶたが微かに揺れた。
そのまま、手元の白い短冊に視線を落とす。眉が少しだけ寄る。呼吸が乱れるほどではない。
けれど、その瞬間だけ、ほんの小さな“迷い”が顔に浮かんだ。
「……見せられんとよ。飲んでからじゃないと、開けたらだめって……そう、決まっとるけん」
「わたしが見るだけ。チカは開くだけでいい。声にも出さない、触りもしない」
わたしは、言葉でこじ開けようとはしなかった。
ただ、心ごと届かせるつもりで、ゆっくりと続けた。
「お願い。見せて……」
チカの瞳が揺れた。ほんのわずかに、視線を落とし、盃と紙のあいだを見比べる。
歌声の波は続いている。
「いのちのいろ けがれとけ……」
言葉が渦のように室内を回っている。
そのなかで、チカの両手が、静かに動いた。胸の前で、二つ折りの短冊を、ゆっくりと、丁寧に開いた。
白くて、何の変哲もないその紙に――たった三文字。
「まこと」
筆跡は整っていた。黒いインクが滲むこともなく、中央に、正確に記されていた。
……まこと?
喉が詰まった。その名前を読んだ瞬間、脳が勝手に“あの少年”の顔を浮かべた。
真人。都内で一緒に暮らし、何度も身体を重ねた、数日前、突如として姿を消した――あの、“真人”。
偶然か。でも、そんな偶然がありえるほど、村は無関係な場所じゃなかった。
――彼は、「この村」の出身ではないか。
チカは、わたしの目をじっと見ていた。紙を差し出したまま、表情は変えない。
けれど、その瞳の奥で、何かが“震えそうになるのを必死に止めている”のがわかった。
わたしもまた、何も言えなかった。口を開けば、すべてが壊れてしまいそうで。
そのとき、歌が、ふっと止んだ。 全員が、声を引いた。
――沈黙。
音が一滴も落ちない、完璧な静寂が、会場を包む。
白装束の老人が、ゆっくりと顔を上げた。
目は閉じたまま。手には、小さな巻物のようなものが握られている。
会場にいる全員の視線が、まるで細い糸のように、その一点へと集束していく。
彼はこの空間の絶対的な中心であり、これから起きることの、すべての起点だった。
この場の全員の呼吸を、その手に握っているかのようだった。
沈黙の中、白装束の老人が再び手を上げた。その指の動きはゆっくりと、空間の重力すら変えるように滑らかだった。
そして――再び、祝詞が始まった。
「つちのなか いのちまもり……みまこと、たままこと……」
その瞬間だった。 脳に、痛みが走った。
……今……なに?
ひとつの言葉が、歌のなかに埋もれていた。でも、明確に響いた。
まこと。
抑揚のない詠唱の一部として、何の装飾もなく、ただ地続きに。
けれど、その音だけが、わたしの身体の奥に刺さった。
視界が、一瞬ぐらついた。呼吸ができなくなる。
喉が絞まり、唾が飲み込めない。胃の奥がきゅうっと縮こまって、何かが逆流しそうになる。
いま……歌の中に、“まこと”って……。
口に手をあてた。指が冷たい。それなのに、掌の下の呼気は熱くて、乱れていて、音が漏れる。
はぁ、はぁ、と喉の奥で小さな喘ぎ声が漏れる。
呼吸をすればするほど、空気が重くて苦しい。
この部屋そのものが、毒のような言葉で満たされている気がした。
――歌は続いていた。
「まことをつぐなえ まことにささげよ……」
確かに、そう聞こえた。
“まこと”が、祈りの対象になっている。何度も、繰り返される。呼びかけではない。だけど、“差し出すもの”のように語られていた。
やめて……やめて……。
心の中でそう叫びながら、わたしは震える視線を上げた。
カメラがズームアウトするように、視野がゆっくりと会場全体に広がっていく。
まずは正面。無表情で祝詞を口にする中年の女性。その隣でリズムを取るように小さく揺れる、浴衣姿の若者。
誰もが、どこか“日常の中の異常”を当たり前に受け入れていた。
左手にゆっくりと視線を移す。その先に――いた。
父が、歌っていた。低く、しっかりとした声で。その顔には、苦悩も葛藤もなかった。
まるで朝食の前にニュースを読み上げるかのような落ち着き。
その横に、母の姿もあった。
母は少し笑っていた。目を閉じ、唇を動かしながら、歌の言葉を丁寧に紡いでいた。
まるで、子守唄を歌っているかのような穏やかさで。
うそ……。
わたしの体が、小さく震えた。
この空間のすべてが、どこかでひっくり返っていた。でも、ひっくり返った事実に、誰も気づいていない。
いや、もしかしたら最初からこうだったのかもしれない。
“正気なのはわたしだけ”だという、そんな悪夢の構図。
自分の手のひらを見た。爪が肌に食い込んでいる。しかし、それすら現実感がなかった。
祝詞は続く。どこまでも続く。旋律はない。
だが、そこに込められた意思だけは、確かにあった。
「まことを うたとせよ……」
「まことを わすれよ……」
その一節を聞いたとき、わたしの背筋がぞわりと逆撫でられた。
……忘れよ?
まことを、うたとし、まことを、わすれよ。
それは祈りじゃない。儀式だ。
誰かの存在を、言葉にして、歌って、“消す”ための儀式。
口の奥が酸っぱくなる。胃の中で消化されていないものが、せり上がってくる。
息が、またできなくなっていた。
喉の奥が塞がれている。
声を出せば、何かが壊れる。出さなければ、わたしが壊れる。
祝詞が、ぴたりと止んだ。
会場は、静まり返った。 静かすぎて、わたしの呼吸音だけが異様に浮かび上がっていた。
視線がチカの手元に落ちる。
さっき開かれた紙――「まこと」。
それが、今や全員の目に、何らかの形で現れる。それが、何を意味するのか。
これから、何が起こるのか。まだ語られないまま、しかし、確実に“始まってしまった”。
息が詰まるほどの沈黙が、祝詞の終わりと共に会場を支配していた。
“まこと”という名が、儀式の歌に織り込まれてから、わたしの体温はどこかへ置き去りにされたままだった。
自分の鼓動だけが異物のように響いている。
その中で、ふと、何かが決壊した。
「チカ」
声が震えた。けれど、それでも前に出た。
言葉を出さなければ、自分が崩れてしまいそうだった。
「……ここを出よう。お願い、わたしと一緒に」
チカは何も言わなかった。
ただ、少しだけ眉をひそめて、わたしを見た。
ほんの一瞬、彼女の表情に“迷い”の影が落ちた。
けれどその次には、微かに頷いた。
それだけで、わたしは彼女の手を取った。
外に出ると、夜風が強く吹いていた。
草の匂い。湿った木の皮。 虫の声が、空の高い場所で反響していた。
公民館の引き戸が背後で静かに閉まり、あの“歌の空間”との境界が断たれる。
息を吸う。肺の中に入ってくる空気が、あまりに違うことに驚く。
月が、低い山の稜線にかかっていた。夜の帳が降りきる少し手前。
空の色はすでに墨色で、風は草の香りを含んでいた。
わたしは、夜道を歩く足音を意識しながら、隣を歩くチカの顔を見た。
その横顔は淡く照らされていた。睫毛の影が頬に落ち、輪郭の柔らかさが際立つ。でも、その表情はどこか硬く、揺れているようで、揺れていない。
まるで“考える”という行為に、自ら制限をかけているかのようだった。
「ねえ……さっきの祝詞」
わたしの声は、胸の奥をかき混ぜるように出てきた。
「うん」
チカの声は静かだった。足を止めず、月明かりの細道を踏みしめながら、返事をする。
「“まこと”って、言葉が何度も出てきたよね」
「うん……出とったね。たしかに」
「……チカ。あれって、“人間の名前”だと思ったこと、ある?」
足音が一瞬止まりかける。けれど、チカはすぐに歩を戻す。
「人の名前……?」
彼女は小さく首をかしげた。
「そう聞くと、ちょっと変な感じやね。“まこと”って、なんちゅうか、意味としては“誠”とか“まことのこころ”とか……そういう……」
言葉を探している。でも、探しているのは“意味”であって、“個人”ではない。
そのズレに、ぞくりとした。
「……“真人”って人、村にいたよね?」
問いかけに、チカは立ち止まった。 ほんの一拍、遅れて足が止まる。
「……ああ、あの子やね?都会に出たって聞いた。あんた……知り合いやったと?」
「うん。……わたしの、大事な人」
チカの目が、わたしをまっすぐ見た。けれど、その瞳にはやっぱり、結びつきの影はなかった。
「……でも、えみちゃん。“まこと”って言葉と、その子……真人くんやったっけ。そんなん、まさか、関係あるわけなかろ?」
その言葉が、胸に突き刺さる。
無垢すぎる。何も知らない。けれど、それは無関心ではなかった。
ただ――“そう教えられてきた”というだけの人の顔だった。
「そう、なのかな……」
自分でも声が震えているのがわかった。
わたしたちは、また歩き出した。
虫の声が、風のなかで細く尾を引いている。
チカの歩幅が少しだけ縮んだ。並ぶように、わたしのすぐ隣を歩く。
その手元が、何度か服のすそを摘まむように揺れた。
沈黙が降る。
けれど、わたしの中では言葉がまだ燃えていた。
この村の人たちは、“祝詞に出てくる言葉”が、誰か“現実の人間”だなんて……思ってない。
あれは、あくまで“概念”。“伝統”。“信仰”。
でも……そう装ってるだけかもしれない。
だって、それで人は……。
言葉の先を、自分の胸の中で止めた。
「あのね」
チカの声が、ふっと静かにこぼれた。
「真人くんの家……あんまり近寄ったこと、ないとよ。昔、お母さんが病気でね、あんまり人と関わらんようにしてるって噂もあって。けっこう奥のほう、谷の下の川沿いにあるけん、村の道から外れてて……」
「……大丈夫。行ってみる。チカ、一緒にいてくれる?」
チカはゆっくりと頷いた。
その顔には、まだ“何も知らない人の顔”が浮かんでいた。
――それが、いちばん怖かった。
◇
わたしの影が、山道に長く伸びていた。照らすのは月明かりだけ。
風が吹き、木の葉が音を立てるたび、どこかで小さな足音が混じるような錯覚に陥った。
誰かに見られている。
そう思って、振り返る。でも、そこにはただ、道が続いているだけだった。
森のにおいが濃くなっていた。草いきれと湿気が、夜風のなかに重たく混ざっている。
わたしは、その道を歩きながら、静かに周囲を見渡していた。
山肌に沿うように伸びる細いアスファルト。
舗装はされていても、ひび割れが目立ち、ところどころで雑草が盛り上がっていた。
右手に小川の音。 月の光をかすかに反射する水面が、揺れているのが見える。
……誰か、いないの?
そう思った。
この村の中で、“わたしの言葉”が通じる人は。
おかしいって、これ変だって、言える相手は……。
けれど、浮かぶ顔はひとつもなかった。
両親も、子どもたちも、祭りに集った大人たちも。
みんな、同じように、あの祝詞を歌っていた。
わたしの耳には、まだその旋律がこびりついて離れなかった。
――まことを、ささげよ。
あの声が、頭蓋の奥で何度も再生されていた。
「……この村ってさ」
息を整えながら、隣のチカに声をかけた。
表面上は穏やかに、けれど言葉の選び方には鋭さが滲んでいた。
「駐在さんって、いないの?」
チカは足を止めず、少しだけ目を丸くした。
「ん?駐在さん?おるよ?」
「……え、いるの?」
「うん。たしか……さっきの宴会場に来とったと思うよ?たぶん、私服やったけん、えみちゃん気づかんやったとやろね。あの、奥のほうで座っとった、坊主頭の……あの人やないかな?」
チカの声は、いつも通りだった。やわらかいイントネーション。幼なじみと冗談でも交わすような、どこか浮遊感のある声色。
だが、わたしの内心には、その軽やかさがかえって苛立ちを呼び起こしていた。
……そういうことじゃない。
胸の内で、何かがくしゃりと崩れた。
私服だったから?それで何?見てただけじゃない。何ひとつ、止めようとしてなかったじゃない。
――知っていた。
都内で、真人がいなくなった直後の記憶が蘇ってくる。
『真人……ああ、先週の……』
『……申し訳ありません、確かにそのように引き継がれていたはずですが、昨夜は別のエリアに重点を……』
ここでも同じ。警察なんて、何の役にも立たない。
ぎゅっと握った拳に、薄い痛みが走る。
でも、その痛みはむしろ“現実との接点”のようで、自分の存在をかろうじて支えてくれている感覚すらあった。
「えみちゃん、だいじょうぶ?」
チカが横目で心配そうに覗き込む。細い眉がほんのわずかに下がっていた。
「……うん、大丈夫。ごめん、急に」
「なんか……怖かったんよね、あの歌。ちょっとびっくりしたよね。でも、ほんと大丈夫やけん。……怖く見えても、うちは慣れとるし」
チカはそう言って、首筋の髪を指で払いながら笑った。その笑顔が、皮膚に張りついた仮面のように見えた。
“慣れてる”ことが、いちばん恐ろしいんだよ。
声に出したかった。でも、出せなかった。
風が、わたしとチカの間を抜けていく。
山の奥へ続く細い道が、暗く伸びている。
そこに、真人の家がある。
歩幅が、自然と速くなっていた。急かされるように。
この“村の内部”に、もう一歩深く踏み込まされているような気がした。




