第3話「芽生える感情」
六月。梅雨入り前の湿った空気が、学園祭へ向かう生徒たちの熱気でむせ返るような季節。
校舎の至る所でペンキの匂いがして、廊下の隅には立て看板の木材が積まれている。
その浮き足立った喧騒のなかで、わたしだけがどこか地上から数センチ浮いたまま、教師としての仕事をこなしていた。
心は、上の空だった。
気づけば足は、グラウンドに面した仮設ステージの裏手へと向かっていた。
積み上げられた段ボールの影に身を潜めるようにして、わたしは無意識のうちに彼の姿を探していた。
真人は――いた。
彼は今、ダンスの練習をする三年生の女子グループに囲まれていた。カーディガンを羽織り、少し照れくさそうに笑っている。ときおり、流れる汗で額に張りついた前髪をかき上げながら、隣の女子生徒と目を合わせ、リズムを確認するように手を合わせる。
笑っていた。楽しそうに。
まるで、彼にだけ穏やかな春が訪れたかのような、そんな柔らかな笑みで。
なぜ、あんな顔を、わたし以外の誰かに見せるのだろう。
胸の奥が、冷たい棘でちくりと刺されたように痛んだ。
感情に名前をつけるのは、まだ怖かった。けれど、その正体不明の痛みは、静かに、でも確実にわたしの心の一部を侵食していく。
舞台の照明が切り替わり、音楽が止まる。「休憩」という声がかかると、真人は隣の子と軽く笑い合いながらステージを降りてきた。
その肩が、ほんのわずか、触れ合う。
その瞬間、わたしの中で何かが硬質な音を立てて、砕けた気がした。
職員室に戻ってからも積み上げられた提出物の山や、連絡ノートに並ぶ無機質な文字が、少しも頭に入ってこなかった。
ぬるくなったコーヒーを口に含む。その苦みが、自嘲の味となって舌に広がった。
馬鹿なことをしている。嫉妬している相手が誰かなんて、本当はとうにわかっている。
でも、認めたくなかった。
だって、彼は生徒で、わたしは教師。
決して交わることのない、たったそれだけの線。
その絶対的な境界線が、今、こんなにも遠く、残酷なものに感じられるなんて思ってもみなかった。