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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第38話「盃」

 静寂を破ったのは、小さな、けれどやけに澄んだ音だった。


 ちりん――。


 まるで水の表面に落ちた雫のように、その音は宴会場の空気を揺らした。

 高く、透明で、儚く、そして異様なほど存在感がある。

 その音に呼応するように白装束の老人が、会場の中央に、ふらふらと歩を進めていた。


 その歩みは不安定で、かすかに足を引きずっているようにも見えたが、動きにはまるで儀式的な緩慢さが宿っていた。

 無駄のない、誰よりも“決まっている”動き。


 老人の手には、朱塗りの柄のついた小さな鈴が握られていた。

 それを掲げると、再び――ちりん。 音が、会場全体に満ちる。


 その瞬間だった。


 ごそっ、と会場のあちこちで、一斉に布の擦れる音が立ち上がった。

 すぐ隣、チカもまた、何の前触れもなく膝の前に手を伸ばしていた。

 指先が迷いもせず、お盆の端にかけられていた白い布を持ち上げる。


 まるで、息を合わせた舞台の一幕だった。村人たち全員が同時に、白布を静かに剥がす。


 ぞくり、と背筋が粟立った。


 そのあまりにも自然な同時性が、日常をひっくり返した。

 わたしの時間だけが取り残されたように、視界が一瞬ぼやける。

 ざらついた音。畳の上を滑る白。重なり合う呼吸。


 布の下にあったものが、ようやく姿を現す。

 チカの前の盆には、二つのものが整然と並んでいた。


 ひとつは、小さな小瓶。指の腹ほどのサイズ。

 ガラスは曇っておらず、きれいな透明。

 けれど中に入っている液体は、光の加減で色味が変わる。


 白か、薄い黄か、それとも無色か――判然としない。


 もうひとつは、白磁の盃だった。重心の低い、広口の器。

 表面には模様も刻印もなく、ただ“白”だけがそこにあった。

 言葉にならない。


 何かが始まったのだという直感だけが、脈打つように胸の内で鳴っていた。


 村人たちは、それを見つめた。

 だが――誰も、声を出さない。笑い声も、囁きも、音も、完全に止まっていた。

 ただ、二つの品を目の前に据え、まるで何かの到着を待っているかのように、皆が同じ姿勢で膝を揃えていた。


 わたしは、自分だけが“その中心にいない”ことを悟る。

 目の前に、盆はなかった。

 白布も、小瓶も、盃も――何も配られていなかった。


 周囲の村人の前には、等しく置かれている。

 けれど、わたしの前だけが、ぽっかりと空いていた。

 その意味が何か。そこに込められた判断や意図を、言葉にできる者はここにはいなかった。


 隣のチカは、両手を膝の上に置いたまま、視線をすっと、前の盆に落とす。

 その目に驚きはなかった。喜びも、拒絶もなかった。あるのは、ただの静かな順応。

 わずかに視線を動かすと、会場中の誰もが同じように膝を揃えていた。


 白装束の老人は、中央で止まったまま。

 わたしの鼓動だけが、どくん、と大きく鳴っていた。


 白装束の老人が、朱の鈴をわずかに掲げた。

 音は出さない。けれど、その動作だけで空気が一変した。

 全員が動いた。 十二人の男たちがそれぞれの持ち場へと散り、無言で歩みを進める。


 肩に猟銃をかけたまま、手には折りたたまれた白い短冊状の紙。 二つ折り。ただ、それだけの形。

 男たちは、村人一人ひとりの前へと進み、短冊を差し出していく。

 丁寧でもなく、乱暴でもない。感情を感じさせない、まるで配達のような手つき。


 わたしの隣にいたチカもまた、黙って手を伸ばし、それを受け取った。

 白い紙が彼女の指に触れた瞬間、指先がほんのわずか震えていた。

 わたしはその一瞬を見逃さなかった。


 だが、チカの表情には何の変化もない。笑ってもいない。眉も上がっていない。

 ただ、紙を受け取ったまま、膝の上にそっと置いた。

 村人たちは皆、同じように二つ折りの短冊を静かに受け取っていく。


 小瓶はすでに注がれ、盃の中には淡い液体が光を映している。

 それでも誰も、それに手を伸ばさない。

 まるで誰かの合図を待っているかのように。


 沈黙が、また訪れた。


 今度は、より深く、より重い。

 音という音が消えていた。鍋の中の残り湯さえ、音を立てるのをやめたように感じられた。

 時間が止まっている――そんな錯覚すら生まれる静寂だった。


 ただひとつ、呼吸だけが、自分の耳に異常なほど大きく響いている。


「……チカ」


 喉がこわばって、名前を呼ぶのがやっとだった。


「……ん」


 チカは、わずかに顔を向けた。けれど視線は盆の上の盃から離さなかった。


「これは……何?」


 問いに対する返答はなかった。

 チカの唇が、かすかに閉じ直される。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。

 それは、言葉の代わりのような笑みだった。だが、その微笑は冷たかった。


 安心させるものではない。

 ただ、“これ以上は口にするな”という暗黙の境界線。

 わたしは拳を膝の上で握りしめた。


 皆が、全員が“この流れ”を知っている。何を受け取り、何を待ち、どう動くか――全員が、それを覚えている。

 自分だけが、そこにいない。


 白装束の老人は、中央で静止している。目は開いていない。ただ、手には小さな木札を持っているようだった。

 老人の呼吸が、深い。その存在だけが、空間のすべてを掌握していた。


 わたしの指先が、わずかに震える。

 心臓の鼓動が、ゆっくりと喉に迫ってくる。


 合図は、まだ。


 長髪の男が、壁際で腰を下ろした。

 煙草を吸うでもなく、ただ片手を額にかざして、わたしの方をちらと見た。

 その目は笑っていた。でも、その奥の感情は、読めなかった。


 村民たちは動かない。チカも、紙に触れたまま、ただ待っている。

 何かが、いままさに“次”を待っていた。

 沈黙が、宙を支配していた。


 誰も動かない。誰も話さない。

 そのなかで、わたしは、ただひとつの“違和感”に意識を集中させる。


 ――盃。


 注がれた、あの液体。無色ではなかった。光の加減で錯覚していたのかと何度も思い直したが、やはり違う。色がある。

 それも、わずかに――黄みがかっていた。ほんの少しだけ濁っている。水ではない。アルコールとも違う。スープとも違う。


 琥珀色とも言えず、薄い麦茶とも言えず、透明なガラスを通してみるそれは、“限りなく透明に近い何か”だった。


 わたしは、わずかに顔を近づけた。

 液面が揺れる。光を受けて、その揺れが小さな影を盃の内側に落とした。


 香りは、ない。


 ――いや、ほんのかすかに、甘いような、鉄のような、土のような、形容できない曖昧さが鼻腔をかすめた。


 何これ……。


 ゆっくりと盃の縁をなぞった。

 冷たくない。 熱くもない。

 室温に馴染んだその器が、何かの“境界”を保っているように思えた。


 教師という職業柄か、わたしは言葉に頼って思考する癖がある。

 不明瞭に対しては象徴を。

 感情には論理を――そして、“説明できないもの”には、例えを。

 目の前の液体に、反射的に文学的な何かを探していた。


 ――まるで、“思い出”みたい。


 なぜそんな例えが浮かんだのか、自分でもわからなかった。

 けれど、盃の中で揺れる黄味の液体が、ふいに“過去の記憶が少しだけ変質したもの”のように見えたのだ。

 完全には透明じゃない。でも、はっきり色づいてもいない。


 少し、時間の経った水。

 誰かが“ほんのひとしずくだけ、何かを混ぜた”ような。


 記憶を……変えるもの? 突拍子もない発想だった。

 だが、この村の空気の中では、それすら妄想とは思えなかった。

 飲んだら、何かが変わる?


 それは、味覚でも体調でもなく――“わたし”そのものの構造に作用するような何か。

 ふと、視線がチカへと動いた。チカはまだ動かない。盃に指先も触れていない。

 ただ、その瞳は盆の上に落とされ、静かに時をやり過ごしているようだった。


 その指先は微かに緊張している。 組んだ膝の内側で、人差し指が何度も小刻みに動いた。

 チカも怖いの?それとも……知ってるから、静かにしてるの?


 自分だけが取り残されている。

 それは、教室で生徒の誰もがある合図を知っていて、自分だけがその内容を知らされていないような、そんな感覚だった。


 わたしはもう一度、液体に目を落とした。

 これを、皆が“飲む”。そう思うだけで、胸の奥が詰まった。

 まるで、その盃が、小さな契約の器のように見えてきた。形のない同意書。


 ひとくちで、自分の中に染み込む何か。

 でも、それが“何”なのか、誰も言わない。誰も聞かない。

 それでも、全員が“知っている”。


 盃の影が、静かに机の上に伸びていく。

 外はまだ、夕方の手前。

 陽射しがまだ差し込んでいるのに、部屋の空気は、もう夜のように冷たかった。


 彼女は、盃の中をもう一度、じっと見つめた。

 飲めば、何が起きる?飲まなければ、何を問われる?


 そのとき――沈黙を切り裂くように、再び朱鈴の音が鳴った。


 ちりん――。


 白装束の老人の手が、わずかに動いた。


 誰かが、息を吸い込む音が聞こえた。


 誰かが、盃に手をかけた。


 始まる。

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