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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第37話「祝宴に潜む獣」

 宴も、終わりが近づいていた。


 湯気の立っていた料理は冷え、唐揚げの衣は湿って軟らかくなり、誰も手を伸ばさなくなっていた。

 ピッチャーの中では氷がすっかり溶け、麦茶はぬるくなっている。

 子どもたちはすでに片隅で小さな輪を作り、大人たちは思い出話や農作の話に花を咲かせ、冗談混じりに笑っていた。


 チカも、わたしの隣で団扇をひらひらとあおぎながら、「明日は天気、どうかなぁ」なんて言葉をこぼしていた。


 そのときだった。


 土間の引き戸が、音を立てて開いた。

 ぎぃ……という低く湿った音。それだけで、空気が変わった。


 微細な緊張が、部屋の中心に波紋のように広がっていく。

 会話も、笑いも、完全には止まらない。でも、空間の“気圧”が、確かに変わったのだ。


 入ってきたのは、十二人の男たちだった。


 全員、揃いの作業着を着ている。グレーから黒にかけての、土や泥が染みついたような色味。

 背は高く、肩幅が広い。

 そして、その肩に、猟銃が斜めにかけられていた。


 銃口は下を向いていたが、わたしの目には、それが今にも何かを撃つ準備をしているように見えた。

 彼らの顔は見えなかった。 というより、全員が同じように“無表情”だった。

 目線も合わせず、声も出さない。


 ただ黙々と、入ってきて、壁際に沿って進んでいく。

 その彼らに続いて、ひとりの老人が現れた。

 白装束。 着物というより、神事用の浄衣に近い。白地に灰色の縁取りがあり、帯には何かの文様が刺繍されている。

 背中は丸まり、足取りはゆっくりとよろめいていたが、その姿はひどく浮かび上がって見えた。


 異様だった。


 なのに、誰もそれを異様と思っていない。

 周囲の村人たちは、視線を向けると、ただ一礼する。それだけ。 驚きも、ざわめきもない。

 わたしの知る村の集まりではありえないほど、静かに、滑らかに彼らを受け入れていた。


 チカもまた、軽く膝を正し、頭を下げた。

 そして、何事もなかったかのように、また団扇をゆっくりとあおぎはじめる。


「……誰?」


 ようやく、それだけを口にできた。

 けれどチカは、わたしの方を見なかった。


「……ああ、あの人たちは、ね。……毎年のことやけん」


 それだけだった。


 言い終えると、チカはまた箸を手に取り、冷えた豆腐をひと口食べた。

 音は戻っていたが、場の空気は確かに変わっていた。

 視線の交差が減り、言葉のトーンがわずかに低くなった。


 笑い声は、出る瞬間に一瞬の間を挟むようになった。

 みんなが、何かを意識していた。


 白装束の老人は、宴会場の中央に進み出ると、杖も使わずに両腕をゆっくり開くようにして、正座した。

 十二人の男たちは、壁際の所定の位置に並び、全員が直立する。

 口元は引き結ばれていたが、視線のない目だけが、誰かを“観察”しているように動いていた。


 それが、たまらなく気味が悪かった。


「……チカ」


「うん?」


「彼らって、……その、何をする人たち?」


「え……」


 チカは一瞬だけ、わたしの顔をまっすぐ見た。

 その目が、ふと揺れた。ごく微かに、笑みの形が崩れる。

 けれどすぐに、整え直すように口元が戻った。


「……村の人やよ。あの人たち、いつも裏で準備とかやってくれとる」


「準備って?」


「いろいろ。あたしらには関係ないこと」


 関係ないこと。

 それは、“知らなくていい”という意味でもある。

 チカの目が、盆の白布を一瞬だけ見たことに気づいたのは、わたしだけだったと思う。


 壁際の一角に立っていた男のひとりが、何かを運び込む気配がした。

 白装束の老人が、ゆるやかに、片手を挙げる。しわだらけの指先がわずかに震えながら、ふっと空を掴むように静止した。


 その瞬間だった。


 壁際に並んでいた十二人の男たちが、一斉に体勢を崩した。

 まるで、あらかじめ合図されていたかのように、正確に、迷いなく。

 直立していた身体が関節を弛め、銃を肩から外す者もいれば、缶ビールのプルタブを開けている者までいた。


「でさ、あの時の猪がまたさぁ、罠ばしてやられとってよ……」

「おまえ、今年の田んぼ手伝い、サボりすぎちゃないと?」

「アホ、うちはちゃんと前の月に終わらせとるし」


 低い声、高い声、擦れた笑い声。普通の、村の男たちの声だった。

 それがかえって異常に思えた。

 つい数分前まで兵士のように整然と並んでいた彼らが、まるで何もなかったかのように、村の日常のなかへと溶け込んでいく。


 わたしの胸の奥が、ぐっと縮こまるように冷えた。

 その“切り替え”があまりにも不自然だった。 演技か、習慣か、それとも彼ら自身がそれを意識していないのか。

 白装束の老人は、依然として正座したまま動かない。


 チカは何も言わず、ごく自然に目を伏せ、冷えた酢の物をひと口だけ食べた。

 その動きは、まるで舞台の振り付けのように滑らかで、計算されていた。


 そのとき、人の気配が、明確にわたしに向かって動いたのを感じた。


 会場の端を、ひとりの男がゆっくりと歩き始めていた。

 十二人の中のひとりで、他の男たちよりも明らかに異質だった。

 肩口で跳ねる癖のある長髪は、何度も染め直して抜けきったような浅い焦げ茶色をしている。


 前髪は目にかかるほど長く、顎の輪郭は細い。線が細く、背は高いが筋肉の厚みは感じられない。

 ただ、動きには“軽さ”ではなく“切れ”があった。


 風を肩で切るように、彼は会場の空気そのものを押しのけながら進んでくる。

 黒いサンダルの底が、畳をさく、さくと擦っていく。

 両手はポケットに突っ込まれ、銃は背に背負っているが、それさえただの飾りに見えるほど、身体の動きに自信と余裕があった。


 前髪に隠れて目は見えない。けれど、こっちを見ていることだけは、確信できた。

 彼の歩く軌道が、徐々に、あまりに自然にわたしとチカのもとへと近づいてくる。

 チカは気づいているのか、反応していないのか、口元には穏やかな笑みを浮かべていた。


 だが、箸の動きが止まっている。豆腐を挟んだまま、数秒、固まっていた。

 男は数メートルの距離にまで近づくと、気怠そうに首をまわした。

 パキ、パキと骨が鳴る音が不自然に大きく響く。


「……ちょい、きて」


 低く、けれど引っかかるような声で呼びかけた。

 その瞬間、会場の空気がまた一段、変わる。

 壁際に散っていた十一人の男たちが、まるで打ち合わせでもしていたかのように、緩やかに、ラフな身のこなしで、だが確実にわたしとチカのまわりを囲むように集まってきた。


 カチャ、と誰かの銃の留め具が揺れる音がした。

 空気が一気に酸欠になるような圧迫感に、背筋が硬直し、体温が下がっていく。

 笑い声も、会話も、遠くなった。


 なのに、村の人々は誰もこちらを見ない。


「なぁ、おまえら。こいつ……知っとる?」


 長髪の男が、顎をしゃくってわたしを指した。


「んー? 知らん」

「見たことねぇな」

「誰の家系やろか、嫁さんかなんか?」


 取り囲む男たちは、まるで市販のスナックを選ぶような気楽さで、口々にわたしという存在を品定めする。


「やっぱ、そうかぁ……」


 男はにやりと口角を上げ、舌で奥歯の裏をなぞるようにしながら、ゆっくりと身を屈めてきた。

 わたしの、首元へ。鼻先が触れそうな距離まで近づき、露骨な音を立てて、息を吸い込んだ。


「……うわぁ、いい匂いやな」


 言いながら、獣が肉を前にしたような笑いを漏らす。


「ええ匂いやわ〜……こう、さっぱりした感じ? 柔軟剤ちゃうな。石鹸か?なあ?」


「ハッハ、おまえ犬かよ」


「またそれやん、おまえ、嗅ぎ癖直せって」


 どっと乾いた笑いが起きたが、それは輪の中心でわたしだけを静かに見世物にしていた。

 その中心で、チカは小さく息を飲み、肩が一度だけ小刻みに揺れた。

 笑ってみせようとしたのか、頬の筋肉が引きつり、すぐに目線を落とす。


「なあ……お姉さんさぁ、ええ体しとるよな?」


 男がそう言いながら、わたしの胸元から腰へと、あからさまに目線を滑らせた。


「ほら、見てみ。なあ、乳でっか。ケツもええ感じやろ、なあ?」


 呼吸が、止まった。


 触れられる。そう察した瞬間、反射的に動いていた。

 男の腕が肩に伸びる、その手がわたしの距離を侵そうとする直前、無言で手を伸ばし、それをはたいた。

 男の手が弾かれ、空中で止まる。


 一拍。 二拍。


 男は、眉を上げた。

 だが、怒りではない。

 興味だった。


「……お? やるやん」


 そして、不気味に笑った。


「久々に面白いの出てきたなぁ。いいなあ、こういうの」


 まわりの数人が再び笑ったが、その笑いには先ほどまでの軽薄さが少しだけ削れていた。


「おい、もうええやろ。あんま目立つなよ」


 ひとりが抑えるように声をかけたが、男は応えず、最後にもう一度、わたしの顔を覗き込む。


「またあとでな」


 そして、ふっと踵を返し、取り囲んでいた輪が静かに崩れていく。


 チカは、まだ目線を落としたままだった。

 手が、わずかに震えている。呼吸が、浅く、冷たい。


 男たちが離れていったあとの空間は、ひどく静かだった。

 表面的には宴のざわめきは元通りだったが、わたしのまわりだけ、まるで熱が抜けたかのように空気が冷たかった。


 手のひらは、まだじんわりと汗ばんでいる。


「……チカ」


 呼びかけると、彼女は顔を向けた。

 しかし、まっすぐには目を合わせず、どこか眉のあたりが不自然に浮いていた。


「うん?」


「……いまの人たち。さっきも聞いたけど……彼らって、何者なの?」


 ほんの一秒、永遠のように長い沈黙が落ちた。


 チカの目が、ゆっくりとわたしに向き直る。

 その視線は、まっすぐで、でもどこか焦点が合っていないような曖昧さを帯びていた。


「……さあ。村の人たちよ」


「村の人って……どういう?」


「うーん……昔から、いる人たち。わたしも小さいころから見とる。……けど、詳しいことは……うちは知らんとよ」


 彼女の声は、言葉の輪郭がすべて曖昧な、にじませるような柔らかさだった。

 知らないのか、言えないのか。

 チカは笑ったまま、視線を落とし、指先を重ねる。


 薬指の小さな銀の指輪が、光を受けてわずかに瞬いた。

 その手元を見つめたまま、彼女はぽつりと続けた。


「……あの人たちが動くときって、だいたい“今日みたいなとき”やけん」


「“今日みたいなとき”?」


「そう。……祭りのとき。行事んときだけ」


「それって、何のために?」


 問いの刃先をなるべく隠すように言ったが、チカの指の動きが一瞬だけ止まる。

 そして彼女は、また笑った。 その笑みは、ほんのわずかだけ、かすれた。


「……そういうこと、えみちゃんが聞くん、珍しかね」


「……わたし、何かおかしいのかな?」


「……んー、どうやろうね。でも、えみちゃんは昔から、ちょっと“こっちの子”やなかったけんね」


「……“こっちの子”?」


「うん。あんたって、なんちゅうか、“帰る場所を持っとる”って感じがしとった。ここで終わらん人、っていうか」


 その言葉が、急にひどく冷たく感じられた。

 やさしい口調なのに、まるで部外者と言われているような。

 帰る場所がここではないと、宣告されているような。


 ふと脳裏に浮かんだのは、白い布のお盆だった。

 目の前にあるのに、誰も言及しない。わたしだけが、それに気をとられている。

 まるでこの村には、口に出してはいけないことが数えきれないほどあるかのようだった。


「……チカ」


「なに?」


「ほんとうに……わたし、変わった?」


 チカは、一瞬だけ、まっすぐにわたしの目を見た。

 まつ毛が、わずかに震えた。


「……変わってないよ」


 けれど、その声は、やけに静かだった。

 まるで、自分に言い聞かせるように。


 そのとき、会場の奥で、小さな鈴の音が鳴った。


 ちりん、と高く、澄んだ音。


 白装束の老人が、ゆっくりと立ち上がっていた。

 その足元に、まだ白い布のお盆が残されている。

 空気が、また少しずつ冷たくなり始めていた。

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