第35話「幼馴染」
公民館の引き戸をくぐった瞬間、空気が重くなった。
冷房は入っていない。
人の熱気、汗、食べ物の匂い、そして畳の上に敷かれた無数の座布団から立ち上る綿埃。
それらすべてが混じり合って、呼吸をゆっくりと濁らせていくようだった。
「……えみちゃん?」
不意に、誰かの声がした。
振り返ると、正面に三人組の婦人がいた。
浴衣に割烹着を重ね、手に団扇を持っている。
その顔のひとつひとつに、どこか遠い記憶の縁をなぞるような覚えがあった。
けれど、名前は出てこない。
「あらぁ、ほんと。えみちゃんやんね。よう帰ってきたねぇ!」
「久しぶりやけん、すっかり都会の顔になっとるばい」
「あら、可愛くなって。もう先生なんやろ?」
口々に浴びせられる言葉に、わたしは反射的に笑みを作った。
「はい、ただいま」
そう言って頭を下げる。
それが、求められる“正解の応答”だった。
けれど、わたしの目は、彼女たちの顔を細かく見ていた。
頬の笑みが、目に届いていない。
団扇をあおぐ手が、ぴたりと止まっている。
視線が、交わらない。
どこか、“演じている”ような違和感。
それでいて、完璧な仮面だった。
誰も、その内側にある素の顔を見せようとはしない。
「ほらほら、もう席とっとるけん。あっち座りんしゃい」
導かれるまま、わたしは畳の端の席へと促された。
会場の中央には、折り畳みの長テーブルがいくつも連なっている。上には紙皿、プラスチックのコップ、缶ビール、ウーロン茶、そして色とりどりの料理が並べられていた。煮物、漬物、唐揚げ、手毬寿司。
ざっと数えて、五十人はいるだろうか。
老若男女。浴衣の子どもたち、作業着姿の初老の男性、控えめな笑みを浮かべる婦人たち。
皆、食べて、飲んで、談笑している。
でも、それが“型”のように見えた。
会話の抑揚が不自然に揃い、笑い声が妙に同じリズムを刻んでいる。座る位置、料理に手を出す順番、その動作のすべてが、まるで幾度も稽古を重ねた演目のようだった。
わたしは、その真ん中にぽつりと座った。
配膳された皿には、すでに取り分けられた煮物と、冷えたお茶が置かれている。お茶の表面が、静かに揺れていた。
手を伸ばし、口元に近づける。匂いは、ほうじ茶。けれど、その下に何か、薄く酸味のような香りが混じっていた。
これは、本当に、お茶なのだろうか。疑い始めた自分に、わたしは内心で苦笑した。
すべてが何かの前触れのように思えて、喉が重たくなっていく。
「――皆さま、今日はお集まりいただきありがとうございます」
中央、長テーブルの上座に立った年配の男性が、手を叩いた。
顔は覚えていないが、たしか村の組長のような役職だった気がする。
場のざわめきが、すっと引いた。
「今年も、夏祭りの幕開けでございます。本日こうして皆さまと集えたこと、まことにありがたいことで……」
続く挨拶は儀礼的なものだった。農作の豊穣、子どもたちの成長、高齢者の無病息災、そして村の存続。聞き慣れた、形式的な言葉が並ぶ。
けれど、その途中。
彼の言葉が、ふと、こう続いた。
「……そして今年は“巡り年”。皆さまと共に、またこの日を迎えられることを、心より嬉しく思います」
巡り年。
その言葉が、胸の奥にずしりと沈んだ。
何、それ。
誰も、動揺しない。
誰も、言葉を重ねない。 ただ、笑って、頷いて、箸を動かすだけだ。
わたしは、じっと、沈黙したままお茶を見つめていた。グラスの中で氷が小さく崩れる。
祭りは始まった。
でも、始まったのは“何の祭り”なのか。
それを知っているのは、わたし以外の“全員”なのかもしれない。
宴の喧騒が、ふいに遠のいていく。
まるで、分厚い水の底にひとり沈んでいくような感覚だった。
誰かに問いかけることも、ここから立ち上がることも、もはやできない。
行き場を失った意識が、手元にある一枚の紙皿に、吸い寄せられるように落ちていく。
紙皿の隅、煮しめの汁が冷えて膠のように固まりはじめていた。
座敷に敷かれた座布団の縁が少しだけ擦れていて、わたしはそれを指先でなぞる。
雑談と笑い声、食器が触れ合う音。
誰かが唐揚げにレモンをかけ、誰かが缶ビールを開ける。
すべてが“宴”の音として重ねられていくなかで、わたしだけがどこか宙に浮いていた。
そんなときだった。
「……もしかして、えみ?」
背後から、声がかかった。
高くも低くもない、やわらかな声。
振り返る前に、懐かしい記憶が脳裏をくすぐった。
振り向くと、そこにいたのは、紛れもなくチカだった。
栗色の髪は肩下まで伸び、シンプルな紺のワンピースを着ている。
前髪はぱつんと揃えられ、左のこめかみにひとつだけ白いヘアピンをとめていた。
目元は少しだけ垂れ気味で、でも笑うときに頬の筋肉がきゅっと上がるのは、昔と変わっていなかった。
彼女が少し息をのむようにして、笑う。
「やっぱり……えみちゃんやん。なんねぇ、びっくりしたぁ……!」
わたしも、自然と笑っていた。
「チカ……!」
声に出してから、自分の胸がほんの少し温かくなっているのを感じた。
「わあ、本当に……久しぶり。何年ぶり?」
「えーと……あたしたち、最後に会ったんって、高校のときやけん……十年以上?」
「そんなに経ってるんだ」
「うん。……でも、ぜんぜん変わっとらんよ。顔つきがちょっと大人になっただけで、えみちゃんのまんま」
「いや、チカこそ。なんか……綺麗になったね」
「んー……まぁ、年相応ってやつよ。ここじゃ、老ける暇もないけん」
そう言って、彼女はわたしの隣に腰を下ろすと、そっと息を吐いた。
「なんか、今日ひとりで来とったけん、もしかして、誰とも話してないんかなーって思ってさ。えみちゃん、こっちで話せる人、おらんやろ?」
「うん……そう。声かけてくれて、ありがとう」
「よかった。……あたし、ちょっと緊張しとったと」
「緊張?」
「うん。えみちゃんって、すっごい東京の空気、纏っとるやん。雰囲気とか、目線の感じとか……“戻ってきた人”って、やっぱりどこか違うけん」
「……そう、見える?」
「見えるよ。でも、それって悪い意味やないとよ。外の世界を知っとる人って、なんかこう……眼が、ね。澄んどって、でも、鋭い」
そう言いながら、チカはふっと視線を落とした。
目元にかかった前髪を、指先でそっと払う。
「……チカは、ずっと村に?」
「うん。出なかった。というか、出れんやった。いろいろ、ね」
「いろいろ?」
「まぁ、家のこととか……ばあちゃんの介護とかもあったし」
「そっか……」
「でも、別に後悔しとらんよ」
チカは小さく笑った。
その笑みは、言葉どおりに見えるのに、どこか“諦め”に似た匂いがした。
「えみちゃんは……外に出て、どうやった?……楽しかった?」
「……うん。楽しかったよ。けど、うまくいかないこともいっぱいあった」
「それでも、東京は、ええとこ?」
「……全部が、簡単ではない。でも、自由ではあるかな」
「……自由、かぁ」
チカの笑みが少しだけ、苦くなった。その頬にかかる髪が、揺れる。
すっと視線を下にそらしてから、わたしの紙皿を見て、
「これ、食べとる? 唐揚げ、おいしいよ。あたしが揚げたん」
「うん、じゃあ……いただくね」
ひとつ箸でつまむと、衣がさくりと崩れた。
口に運ぶと、思ったよりもスパイスが効いていて、じんわりと熱が広がる。
「おいしい」
「でしょ? 誰にもレシピ、教えてないと」
少しだけ、得意げな笑み。その笑みは昔から変わらない、自分だけの秘密を持つときの彼女の顔だった。
彼女は、この村のなかで育ち、この村の時間をそのまま生きてきた。
たしかに笑っている。 たしかに穏やかだ。
けれどその奥で、何を見て、何を“知らされて”いないのか――それは、まだ分からなかった。
ふと、会場の空気が、ほんのわずか変わった。
わたしの目が、無意識に会場の奥へと向く。
そこに、男たちが何かを運び込んでいた。
白い布をかけられた、盆のようなもの。
わたしの胸の奥に、冷たいものがしずかに、触れた。
「……チカ。ねえ、この村って……同じことを繰り返してるの?」
「うん。そうやよ。変わらん。昔も今も」
「ずっと?」
「ずっと。うちらが子どものときから、もっと前から。……ずっと、そうやった」
「……変わること、ないの?」
チカは少しだけ目を細めた。
そして、小さな声でこう言った。
「……変わる理由、ある?」




