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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第35話「幼馴染」

 公民館の引き戸をくぐった瞬間、空気が重くなった。

 冷房は入っていない。

 人の熱気、汗、食べ物の匂い、そして畳の上に敷かれた無数の座布団から立ち上る綿埃。

 それらすべてが混じり合って、呼吸をゆっくりと濁らせていくようだった。


「……えみちゃん?」


 不意に、誰かの声がした。

 振り返ると、正面に三人組の婦人がいた。

 浴衣に割烹着を重ね、手に団扇を持っている。


 その顔のひとつひとつに、どこか遠い記憶の縁をなぞるような覚えがあった。

 けれど、名前は出てこない。


「あらぁ、ほんと。えみちゃんやんね。よう帰ってきたねぇ!」

「久しぶりやけん、すっかり都会の顔になっとるばい」

「あら、可愛くなって。もう先生なんやろ?」


 口々に浴びせられる言葉に、わたしは反射的に笑みを作った。


「はい、ただいま」


 そう言って頭を下げる。

 それが、求められる“正解の応答”だった。

 けれど、わたしの目は、彼女たちの顔を細かく見ていた。


 頬の笑みが、目に届いていない。

 団扇をあおぐ手が、ぴたりと止まっている。

 視線が、交わらない。


 どこか、“演じている”ような違和感。

 それでいて、完璧な仮面だった。

 誰も、その内側にある素の顔を見せようとはしない。


「ほらほら、もう席とっとるけん。あっち座りんしゃい」


 導かれるまま、わたしは畳の端の席へと促された。

 会場の中央には、折り畳みの長テーブルがいくつも連なっている。上には紙皿、プラスチックのコップ、缶ビール、ウーロン茶、そして色とりどりの料理が並べられていた。煮物、漬物、唐揚げ、手毬寿司。


 ざっと数えて、五十人はいるだろうか。

 老若男女。浴衣の子どもたち、作業着姿の初老の男性、控えめな笑みを浮かべる婦人たち。


 皆、食べて、飲んで、談笑している。

 でも、それが“型”のように見えた。

 会話の抑揚が不自然に揃い、笑い声が妙に同じリズムを刻んでいる。座る位置、料理に手を出す順番、その動作のすべてが、まるで幾度も稽古を重ねた演目のようだった。


 わたしは、その真ん中にぽつりと座った。

 配膳された皿には、すでに取り分けられた煮物と、冷えたお茶が置かれている。お茶の表面が、静かに揺れていた。


 手を伸ばし、口元に近づける。匂いは、ほうじ茶。けれど、その下に何か、薄く酸味のような香りが混じっていた。

 これは、本当に、お茶なのだろうか。疑い始めた自分に、わたしは内心で苦笑した。


 すべてが何かの前触れのように思えて、喉が重たくなっていく。


「――皆さま、今日はお集まりいただきありがとうございます」


 中央、長テーブルの上座に立った年配の男性が、手を叩いた。

 顔は覚えていないが、たしか村の組長のような役職だった気がする。

 場のざわめきが、すっと引いた。


「今年も、夏祭りの幕開けでございます。本日こうして皆さまと集えたこと、まことにありがたいことで……」


 続く挨拶は儀礼的なものだった。農作の豊穣、子どもたちの成長、高齢者の無病息災、そして村の存続。聞き慣れた、形式的な言葉が並ぶ。

 けれど、その途中。


 彼の言葉が、ふと、こう続いた。


「……そして今年は“巡り年”。皆さまと共に、またこの日を迎えられることを、心より嬉しく思います」


 巡り年。

 その言葉が、胸の奥にずしりと沈んだ。

 何、それ。


 誰も、動揺しない。

 誰も、言葉を重ねない。 ただ、笑って、頷いて、箸を動かすだけだ。

 わたしは、じっと、沈黙したままお茶を見つめていた。グラスの中で氷が小さく崩れる。


 祭りは始まった。

 でも、始まったのは“何の祭り”なのか。

 それを知っているのは、わたし以外の“全員”なのかもしれない。


 宴の喧騒が、ふいに遠のいていく。

 まるで、分厚い水の底にひとり沈んでいくような感覚だった。

 誰かに問いかけることも、ここから立ち上がることも、もはやできない。

 行き場を失った意識が、手元にある一枚の紙皿に、吸い寄せられるように落ちていく。


 紙皿の隅、煮しめの汁が冷えて膠のように固まりはじめていた。

 座敷に敷かれた座布団の縁が少しだけ擦れていて、わたしはそれを指先でなぞる。

 雑談と笑い声、食器が触れ合う音。


 誰かが唐揚げにレモンをかけ、誰かが缶ビールを開ける。

 すべてが“宴”の音として重ねられていくなかで、わたしだけがどこか宙に浮いていた。


 そんなときだった。


「……もしかして、えみ?」


 背後から、声がかかった。

 高くも低くもない、やわらかな声。

 振り返る前に、懐かしい記憶が脳裏をくすぐった。


 振り向くと、そこにいたのは、紛れもなくチカだった。

 栗色の髪は肩下まで伸び、シンプルな紺のワンピースを着ている。

 前髪はぱつんと揃えられ、左のこめかみにひとつだけ白いヘアピンをとめていた。


 目元は少しだけ垂れ気味で、でも笑うときに頬の筋肉がきゅっと上がるのは、昔と変わっていなかった。

 彼女が少し息をのむようにして、笑う。


「やっぱり……えみちゃんやん。なんねぇ、びっくりしたぁ……!」


 わたしも、自然と笑っていた。


「チカ……!」


 声に出してから、自分の胸がほんの少し温かくなっているのを感じた。


「わあ、本当に……久しぶり。何年ぶり?」

「えーと……あたしたち、最後に会ったんって、高校のときやけん……十年以上?」


「そんなに経ってるんだ」

「うん。……でも、ぜんぜん変わっとらんよ。顔つきがちょっと大人になっただけで、えみちゃんのまんま」


「いや、チカこそ。なんか……綺麗になったね」

「んー……まぁ、年相応ってやつよ。ここじゃ、老ける暇もないけん」


 そう言って、彼女はわたしの隣に腰を下ろすと、そっと息を吐いた。


「なんか、今日ひとりで来とったけん、もしかして、誰とも話してないんかなーって思ってさ。えみちゃん、こっちで話せる人、おらんやろ?」

「うん……そう。声かけてくれて、ありがとう」


「よかった。……あたし、ちょっと緊張しとったと」

「緊張?」


「うん。えみちゃんって、すっごい東京の空気、纏っとるやん。雰囲気とか、目線の感じとか……“戻ってきた人”って、やっぱりどこか違うけん」

「……そう、見える?」


「見えるよ。でも、それって悪い意味やないとよ。外の世界を知っとる人って、なんかこう……眼が、ね。澄んどって、でも、鋭い」


 そう言いながら、チカはふっと視線を落とした。

 目元にかかった前髪を、指先でそっと払う。


「……チカは、ずっと村に?」

「うん。出なかった。というか、出れんやった。いろいろ、ね」


「いろいろ?」

「まぁ、家のこととか……ばあちゃんの介護とかもあったし」


「そっか……」

「でも、別に後悔しとらんよ」


 チカは小さく笑った。

 その笑みは、言葉どおりに見えるのに、どこか“諦め”に似た匂いがした。


「えみちゃんは……外に出て、どうやった?……楽しかった?」

「……うん。楽しかったよ。けど、うまくいかないこともいっぱいあった」


「それでも、東京は、ええとこ?」

「……全部が、簡単ではない。でも、自由ではあるかな」


「……自由、かぁ」


 チカの笑みが少しだけ、苦くなった。その頬にかかる髪が、揺れる。

 すっと視線を下にそらしてから、わたしの紙皿を見て、


「これ、食べとる? 唐揚げ、おいしいよ。あたしが揚げたん」

「うん、じゃあ……いただくね」


 ひとつ箸でつまむと、衣がさくりと崩れた。

 口に運ぶと、思ったよりもスパイスが効いていて、じんわりと熱が広がる。


「おいしい」

「でしょ? 誰にもレシピ、教えてないと」


 少しだけ、得意げな笑み。その笑みは昔から変わらない、自分だけの秘密を持つときの彼女の顔だった。

 彼女は、この村のなかで育ち、この村の時間をそのまま生きてきた。

 たしかに笑っている。 たしかに穏やかだ。


 けれどその奥で、何を見て、何を“知らされて”いないのか――それは、まだ分からなかった。


 ふと、会場の空気が、ほんのわずか変わった。

 わたしの目が、無意識に会場の奥へと向く。

 そこに、男たちが何かを運び込んでいた。


 白い布をかけられた、盆のようなもの。

 わたしの胸の奥に、冷たいものがしずかに、触れた。


「……チカ。ねえ、この村って……同じことを繰り返してるの?」

「うん。そうやよ。変わらん。昔も今も」


「ずっと?」

「ずっと。うちらが子どものときから、もっと前から。……ずっと、そうやった」


「……変わること、ないの?」


 チカは少しだけ目を細めた。

 そして、小さな声でこう言った。


「……変わる理由、ある?」

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