第34話「宴会」
朝の光はすでに差し込んでいたが、気温はまだ上がりきらず、空気には薄く冷たさが残っていた。
障子の外にうっすら映る影が、庭の木々の揺れを伝えてくる。
寝起きのまま目をこする指先に、わたしは微かな汗を感じた。
夢は見なかった。
そう思った。けれど、その“何も見なかった”ということが、なぜか妙に重たく感じられた。
空白が、かえって心の輪郭を浮き彫りにする――そんな朝だった。
台所から、湯が沸く音が聞こえる。
ごぼごぼ、と古い鉄瓶の喉が鳴っていた。
居間へ出ると、母がちゃぶ台に味噌汁を並べているところだった。
割烹着の袖口をくいっと直すと、ちらとこちらを見て、穏やかに口を開く。
「おはよう。よぅ眠れた?」
「うん。まぁ……」
「えみ、今日は朝からちゃんと食べときんしゃいよ。夜は食べきらんごとなるけん」
その言葉の意味が分からず首をかしげると、母は何でもないように笑って、味噌汁椀をわたしの前に置いた。
「今日はほら、公民館で宴会やけん。昼から始まるけん、朝はしっかりしとかんと」
「……宴会?」
「夏祭りの、はじまりの祝いばい。毎年のこと。みんな集まって、今年もよろしくって乾杯するっちゃ。久しぶりやけん、顔ば見せとき」
思わず、息を飲み込む。
昨日聞いた、祭りの日程。六月の二十九日と三十日が夏祭りの本番なら、今日――二十八日は、その前夜にあたる。
箸を手に取る指先が、わずかに震えた。
「えみ、あんた好きやったやろ。南瓜の煮物。今朝の、よぅ味しゅんどるよ」
母はそう言って、少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。
その顔には、やわらかい光があった。
けれど、それがどうしても“演技のように”見えてしまうのは――きっと、わたしが疑っているからだ。
母の手の甲には、洗い物で荒れた痕がある。
でも、その指の動きだけは、妙に滑らかで、間違いがなかった。
毎年繰り返された所作。
まるで、今日という日を、ずっと前から“練習”していたような、淀みのない自然さだった。
「……じゃあ、わたしも行くよ」
そう返すと、母は安心したように軽く頷いた。
それだけのやりとり。でも、内心では、目の奥がざわざわと落ち着かなかった。
朝食を終える頃、父が玄関から入ってきた。
作業着の裾にはまだ土がついている。
帽子を取り、手ぬぐいで額を拭きながら、わたしに気づくと軽く会釈した。
「おう。今日は、顔ば出すとやろ?」
「……うん。公民館でって、聞いた」
「昼前からぼちぼち始まるけんね。まぁ、食べて、飲んで、あとは適当にやってりゃええ」
声の調子は平板だった。
けれど、湯呑みを置く手が一瞬だけ、わずかに硬直していたのを、わたしは見逃さなかった。
「毎年、こうやってやってるんだ?」
「ん。変わらんよ。……もうずっと、そうや。えみが小さい頃も、同じようにやっとったやろ?」
「……そうだっけ?」
わたしは笑ってみせた。
けれど、父の顔がそのとき、ほんのわずかだけ“ぎこちなく”なったのを、わたしは確かに見た。
そうだ。わたしは知っていることを、あえて曖昧に返したのだ。記憶のズレを確かめるために。
しかし、父はうまく受け流した。
それはまるで――こうなることを、あらかじめ知っていたかのような反応だった。
部屋に戻り、押し入れの鏡で身支度を整える。
薄手のカーディガンに、黒のスキニーパンツ。きれいめな服を着ることが、むしろ“異物”に思えるほど、この家の木目の色は濃かった。
髪をひとつにまとめながら、わたしは鏡の中の自分と目を合わせた。
祭りの“はじまり”に、呼ばれている。そう思った。
表向きは、ただの宴会。
でも、きっと――そこには何かが含まれている。
真人が言っていた“九州の山奥にある村の話”。ネットの都市伝説。馬鹿馬しかしい作り話。
でも、今ではそれが、この村の話だったとしか思えない。まだ具体的な内容は知らない。
けれど、祭りと儀式は、きっと重なっているのだ。
この三日間に、すべてが埋め込まれている。
わたしが知らない“祭りの顔”が、きっとある。
そしてそれは、今日から始まるのだと、心が静かに告げていた。
廊下に出ると、母がふとこちらを見た。
その目が、一瞬だけわたしの服装を確認する。
「……うん、よかね。ちょっと都会の香りがしとる」
冗談のように言って、母は台所へと消えていった。
わたしはその背中を見送りながら、指先に小さく力を込める。
この空気に、呑まれるな。
もうすぐ、わたしは“場”に入る。ただの宴会なのか、それとも――。
見届けなければならない。その中心に、真人を連れていったなにかがあるのならば。
◇
時計の針が、昼の一を指していた。
真上から射し込む光はやや角度を落とし、木造家屋の庇の影を濃くしている。陽射しは強かったが、風は涼しく、地面を這う影のなかを歩くたび、足元の熱が静かに薄れていった。
わたしは、坂をくだっていた。公民館へ向かうためだ。
陽に焼けたアスファルトはところどころ割れており、その隙間から草がひょろりと顔を出している。
空は抜けるように高く、雲ひとつなかった。
すでに遠くから、人の声が聞こえていた。
笑い声、土間を歩く下駄の音、風に揺れる暖簾のはためき。
村の“音”が、そこに集まっている。
始まっている。心の奥で、なにかが囁いた。
公民館は、思ったよりも人が集まっていた。
白いトタンの屋根。
木製の引き戸は全開にされ、表には簡易的な横断幕が張られている。
《夏祭り 祝宴》
字は大きく、墨で書かれたような勢いがあった。
その下に、手書きのような村の家名一覧と、小さな印。
わたしは、そこに足を踏み入れた。
その瞬間、空気の温度が、ふっと変わった気がした。




