第33話「嵐の前の静けさ」
湯船の湯はぬるめで、少しだけ香りの残る入浴剤が使われていた。
肌に馴染むその香りは、昔と同じものだった気がする。
けれど、懐かしさよりも先に、胸の奥にひやりとした感触がまとわりついていた。
間に合うのだろうか。
頭の片隅で、ずっと何かが囁いていた。
湯から上がり、タオルで髪をざっと拭く。
鏡のなかの自分の顔をちらりと見ると、血色は悪くない。
だけど、目だけが、妙に冴えていた。
浴室の引き戸を開けると、廊下にはほんのり味噌と出汁の匂いが漂っている。
居間に戻ると、母がちゃぶ台の上に大皿を並べていた。 煮物、冷奴、きんぴらごぼう、炊きたてのご飯、そして麦茶の入ったポット。 父は湯呑みに口をつけ、新聞を斜めに畳んでいる。
「あら、もう出たと? 早かったね」
母が手ぬぐいを腰に挟んだまま、にこやかに言った。
「……少し熱くて、長く浸かれなかった」
「そうねぇ、今日も暑かったけん。汗出しすぎたら逆にしんどかけんね。えみ、麦茶飲む?」
「……うん、もらう」
コップに注がれた麦茶は、まだ氷の音がカランと響くほど冷えていた。
わたしはそれを両手で受け取り、口をつける。 父が新聞を畳む音が、紙の乾いた音とともに静かな部屋に響いた。
「そういえば……祭り、今年っていつなの?」
聞くつもりはなかった。
けれど、口が先に動いていた。
父と母が、ふと顔を見合わせる。
一瞬の沈黙。
その後、ごく自然に、母が応えた。
「……六月の二九と三十よ。いつも通り、二日間」
六月の、二十九日と、三十日。
数秒、時間が止まったような感覚。
時計の針が、ぴたりと動きを止めるようだった。
「……そうなんだ。思ったより、早いんだね」
「昔っから変わっとらんよ、この時期は」
父が口を挟む。 座り直すように腰を浮かせた拍子に、湯呑みの茶がほんのわずか揺れた。
「夏の始まりに、感謝の祭り。田植えも終わった頃合いやけんね」
「そげん昔からなんよ。今年で、ええと……百八十何回目とかね。もう数えんのも大変ばい」
母が軽く笑う。その笑顔は、本当に“普通”だった。
二十九日と、三十日。
夏のはじまりを告げる時期に行われる、毎年の祭り。
けれど、わたしにはそれが、ただの“節目”に思えなかった。
あの夜の夢。祭りの屋台を歩く、少年の影。
聞こえてくる太鼓と風鈴の音。
手を引いてくれた温もりと、忘れてしまった名前。
そして――真人が話していた、儀式の話。
『……昔から、俺たちの出身の九州地方の村には“なにかを捧げる”ことで、災いを避けてきたっていう伝承があるみたいで』
『九州の山間部にあるいくつかの村で、“世界の安寧をご祈禱する”ってフレーズが重なるって話が出てきて……』
『“災いを退ける”って意味で、文献とか、ネットに散らばった話の中では、それが“実際に効いた”って書いてる人もいた』
もしかして、それは。
思考が、音もなく凍っていく。
わたしは、手元の麦茶に視線を落とした。冷たいはずなのに、喉が渇いていくようだった。
儀式と、祭りは、セットなのだ。
あれは、ただの都市伝説じゃない。
彼は、なにかに勘づいていた。
それを“冗談”に見せかけて、話題に出していたのだ。
祭りは二日間。 二十九日と、三十日。
――あと三日しかない。
ふいに、母の言葉が聞こえた。
「ねぇえみ、今年の浴衣どうする?まだあんたが昔着よったやつ残っとるけど、サイズ合わんかねぇ?」
「……あ、うん……ちょっと、考えとく」
口元だけ笑って見せる。
でもその笑顔が、どこか頬の筋肉に引っかかっているようだった。
父は再び湯呑みに手を伸ばす。
その手が、さっきよりも少しだけ強く握られているように見えた。
「三十日。……最後の日の夜が、本番やけんね」
それは、何気ない言葉だった。
けれど、その言い回しだけが、心にひっかかった。
“本番”――。 どうして、そう言ったのだろう。
わたしは、ただコップを見つめた。
中の氷が音もなく崩れ、沈んでいった。
風呂上がりの身体はもう冷えている。けれど、心の奥には微かな熱があった。
三十日が、“それ”だ。
わたしには確信があった。
まだ何も知らない。 でも、身体が知っている。
夢の記憶と、彼の声と、村の空気と、親の言葉と――そのすべてが、三十日という日付を指している。
あと、三日。
それまでに、わたしは“答え”にたどり着かなくてはならない。
そして――真人を、取り戻す。




