表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
33/59

第32話「夏祭り」

 蔦に覆われた古い木造家屋の、埃と湿気の混じる空気の中で、どれくらい意識を失っていたのだろうか。


 ふと気づけば、あたりはすっかり夜の色をしていた。


 部屋の隅に差し込む光は、薄く、橙がかった揺れを帯びている。

 提灯の光だ。 窓の外に、小さな灯りがいくつも浮かんでいた。

 ぼんやりとした光が木々の間を滲ませ、黒い夜の皮を剥ぐように、ちらちらと瞬いている。


 その光の列は、下の広場へと続いていた。 あの夏祭りの会場へ。

 わたしは立ち上がり、土間に脱ぎ捨てたサンダルに足を差し込む。

 少し足元がふらついたが、構わずに戸を開けた。


 きぃ、と鈍い音が夜に染み込んでいく。

 外は、虫の音すら薄れていた。 風はぬるく、どこか湿り気を帯びて、草と土の匂いを運んでくる。

 わたしは階段を降り、坂をくだった。


 自分の足音だけが、音もなく石畳に吸い込まれていく。

 やがて、広場が見えてきた。

 提灯の列が、空をなぞるように伸びている。


 赤、橙、乳白色――それらの光が、夜の村に小さな島のような浮遊感を与えていた。

 屋台は暖簾がかけられ、テントが張られ、出店の準備がほぼ整っていた。

 鉄板からは、まだ火は入っていないのに、微かに油の匂いが漂ってくる。


 誰かがついさっきまで、予行のように手入れをしていた気配があった。

 こんなに静かなのに、村の気配は、ちゃんと“祭り”のために準備されているのだ。

 それなのに、人影はどこにも見えない。


 祭りの鼓動だけが、抜け殻のようにこの空間に残っているようだった。

 広場の中央には、櫓がそびえていた。

 新しく塗り直されたらしい柱に、白い布が掲げられている。


 そこには、力強い筆文字があった。


 《第百八十三回 久邑夏祭り》


 わたしは、その数字をただ見つめていた。

 百八十三回。 百年をはるかに超える年月、この行事が当たり前のように続いてきたという事実。

 その重みを、すぐには咀嚼できずにいた。


 祭り。祭るという字は、“祀る”とも書く。

 何を、誰を、祀って、何のために祝っているのだろうか。


 脳裏に、真人との会話が蘇る。

 日本の山村に残る隠された儀式。現代にも続く生贄文化。

 そんなの映画の話だよと、わたしたちは笑いあっていたはずだった。


 だが、この村の空気、この夜の匂い、そしてこの完璧に整えられた“祭り”の準備。

 “そんなはずはない”という理性と、“もしそうだったら”という直感が、心の奥で激しくせめぎ合っていた。


 わたしは会場をゆっくりと歩いた。 誰もいない屋台の前を通り、提灯の柱にそっと手を添えてみる。

 手に伝わるのは木のぬくもり。だが、その表面は不自然なほど乾いていた。

 櫓の根元に、小さな折り紙が落ちているのが目に入った。


 子どもが遊んでいったのだろうか。鶴でも、兜でもない。 ただ長方形に折りたたまれたそれは、まるで短冊のようだった。

 拾い上げてみても、裏には何も書かれていない。 白紙だった。


 わたしはそれを、意味があるかは分からないまま、ポケットにそっとしまった。

 この村で、無作為に落ちているものなど、きっと何一つないのだから。


 提灯が、ふわりと揺れた。 音もなく。それがいっそう、気味悪かった。

 なぜ、誰もいないのか。

 村中が眠っているのか、それとも、何かを待っているのか。


 わたしはもう一度、櫓を見上げた。

 横断幕の筆文字の下に、もうひとつ、小さな文字列が添えられている。


『今年も、変わらず、感謝を。』


 何が、“変わらず”続いてきたというのか。


 わたしは踵を返し、坂道をもう一度上る。

 ここから先は直感ではなく、証拠がいるのだ。

 ポケットの中で、小さな短冊がかすかに音を立てた。


 ◇


 玄関の戸を開けた瞬間、土間の空気が少しだけ温かかった。

 夜の外気とは違う、生活の温もり。

 味噌と出汁、古い畳と電気炊飯器の匂いが、静かに鼻をくすぐる。


 サンダルを脱ぎ、縁に足を揃えると、奥の台所から食器の音がした。


「おかえり」


 父の声だった。 その声を聞いたのは、何年ぶりだろう。


「……ただいま」


 わたしが答えると、ゆっくりと障子が開く音がした。

 廊下の奥、居間の灯りの中から、父が姿を見せる。

 短く刈った髪、深く刻まれた額の皺。


 それでも、背筋は昔と変わらず真っ直ぐだった。


「晩飯、まだやろ? もうすぐ母さんが温めるって」


「……うん、ありがとう」


 居間に入ると、ちゃぶ台の上に味噌汁と副菜の並んだ膳が二つ用意されていた。

 父は座布団に腰を下ろし、湯呑みの緑茶をすする。 そして、ふっと息を吐くと、まっすぐな目でわたしを見た。


「どうや、村は」


「……変わってないね」


「そやろ。そういう場所やけん」


 父の指は大きく、節くれだっていた。

 湯呑みを持つその手が、かすかに震えているのを、わたしは見逃さなかった。


「夕方、懐かしい道を歩いてみた。祭りの会場も」


「……ああ、あそこか」 父は一瞬、口を閉ざした。


「今年も、祭りはやる。毎年のことや」


「うん。もう準備、始まってた」


「そやろ。村の連中は、そういうのに律儀やけん」


 会話は続いている。

 だが、わたしは父の横顔から目が離せなかった。

 ふとした瞬間に逸らされる視線、落ち着きなく膝に置かれた指先、何度も微妙にずれる湯呑みの位置。


 彼は落ち着かないのではない。

 警戒しているのだ。 この会話を、わたしの意図を。


「……ねぇ、父さん」


「なんや」


「昔さ、わたしが村を出たときって……何歳だったっけ?」


 母にしたのと同じ問いを、投げかけてみた。

 父は表情を崩さなかったが、答えるまでに三秒かかった。


「……高校の、卒業のときやな。東京の大学に行く言うて。大喧嘩やったな、あのときは」


 母とは違う。 父は、ちゃんと答えた。

 その答えが“正しい”はずなのに、背筋がすっと冷える。

 誰が間違っている?


 母か、父か、それとも、わたしなのか。


「今年の祭りって、いつ?」


「……もうすぐだな」


 また一拍、間が空いた。


「そう……今年って、なんか……特別な年だったり、しないの?」


 声が震えそうになるのをこらえる。

 父の目が、少しだけ鋭くなった。


「なんや、それは」


「いや……なんか、いつもより準備が早い気がして」


「昔から、あの祭りはそうや。年がどうとか、特別やとか、そんなもんじゃない。毎年同じ。変わらん。……そういうもんや」


 それ以上、何かを言いかけた唇が閉じられた。

 言いたくないのか、それとも、“言えない”のか。


「……風呂、湧いとるで。先に入ってこい」


「うん」


 わたしは立ち上がる。 父の背中はもう、こちらを向いていなかった。 だが、その背中が、わたしに向けて“何かを押しとどめている”ように見えた。


 風呂場の戸を開け、鏡を見たとき、わたしは自分の顔がひどく青ざめているのに気づいた。

 照明のせいでも、疲れのせいでもない。

 この家の空気が、少しずつ壊れていっている。


 家族の記憶に“ひび”がある。 それを、誰も指摘しようとしない。

 壊れているのは“記憶”なのか、“わたし”なのか。


 湯気のなかで、わたしは拳をぎゅっと握った。

 必ず、たどり着く。


 たとえこの家の中が、村と同じように“嘘の中”にあったとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ