第31話「少年」
その家は、深い路地の先に、ひっそりと佇んでいた。
蔦に覆われた古い木造家屋。玄関の引き戸はわずかに開いており、誰かが最近ここを出入りしたような気配が漂っている。
わたしは立ち止まり、まるで何かに導かれるように、そっと手を伸ばした。
この場所、昔も来たことがあるような気がする。
指先が湿った木の感触に触れた瞬間、何か遠い記憶の欠片が、脳裏を稲妻のようにかすめた。
戸は、抵抗なく開いた。内側に広がるのは、埃と古い畳が混じり合った、懐かしい匂い。
誰のものとも知れぬ履き古されたサンダルが、土間に無造作に脱ぎ捨てられている。
わたしは、それに吸い寄せられるように、そっと中へ足を踏み入れた。
とたんに、身体が急激に重くなる。
視界がじわりと滲み、立っていることさえままならない。
膝が崩れ、わたしはその場に倒れ込んだ。
まぶたの裏から滲み出す暗闇が、抗う間もなく、わたしの意識を静かに奪っていった。
◇
気づけば、空はどこまでも明るかった。
頭上からは、空気を震わせるほどの蝉の声が降り注いでいる。
足元の地面は焼けるように熱く、遠くから規則正しい太鼓の音が響いてきていた。
この感覚、知っている。
目の前には、木の棒で地面を叩きながら歩く、ひとりの少年がいた。
背は高く、日に焼けた肌に、祭りのものだろうか、真っ赤な法被をまとっている。
短く刈り込んだ髪は汗で濡れ、額に張り付いていた。
その手には金魚すくいの網が握られていて、わたしの手をぐい、と力強く引っ張っていく。
「ほら、行くぞ。ヨーヨー釣りまだ空いとるっちゃけん、急がんと全部取られてまうぞ!」
張りのある、力強い声。
その目には、迷いというものがひとかけらもなかった。
真人とは違う。彼は、何かを“引っ張っていく”引力を持った少年だった。
やはり、名前が思い出せない。
けれど、確かにわたしは彼のことが好きだった。
生まれて初めて、自分の意思ではっきりと「好きだ」と感じた、誰か。
年上だったか、同級生だったか――それさえ曖昧なのに、あの夏、彼と手をつないで歩いた記憶だけは、やけに鮮明だった。
提灯の柔らかな灯り。綿あめの甘い匂い。空にぼんやりとこだまする、花火の音。
浴衣を着た子どもたちが走り回り、大人たちは屋台の脇で楽しげに酒を飲んでいる。
「なあ、えみ。あっちの道から行ったほうが早かばい」
「うん……」
手を引かれるままに歩く。
わたしの手のひらは汗ばんでいたけれど、彼はそれを気にする様子もなかった。
そのとき、ふと彼が立ち止まった。
「……なに?」
「おまえさ、……この村、好きか?」
その言葉に、わたしは返事をする前に、はっと息を呑んだ。
なぜ、“この村”なんて、彼が言ったのだろう。
わたしはまだ、九歳。ただ夏祭りに連れて行ってもらっているだけの、子どもだったはずだ。
それなのに、その言葉には、まるで未来のわたし自身が問いかけられているかのような、ずしりとした重みがあった。
さわ、と風が吹いた。
ちりん、と風鈴が澄んだ音を立てる。
だけど、それはさっきまで歩いていた現実の村で聞いた音と、まったく同じ音だった。
夢の中なのに、現実と同じ音がする。
周囲を見回すと、屋台の列がぼんやりと滲んでいた。
まるで水面に映った影のように、輪郭がゆらゆらと定まらない。
わたしは手を引く少年の顔をもう一度、しっかりと見ようとした。
けれど、見えない。
そこに顔があるはずなのに、深い霧がかかっているように、何も見えなかった。なのに、声だけが生々しく耳に残る。
「――おまえ、ここに戻ってくるんやろ?」
「え……?」
「ぜったい、来るって言ったやろ?」
その声が、やけに寂しそうで、悲しそうだった。
視界が、暗転していく。屋台の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
提灯の赤が、墨に沈むように滲んでいき、耳を塞いでいた蝉の声が遠ざかる。
そのとき、背後から微かに誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。
“えみ……”
それは、彼の声ではなかった。
もっと細く、やわらかく、誰かに頼るような声。懐かしい響き。
「……っ、あ……!」
はっとして目を覚ました。
わたしは、さっき入った家の畳の上に倒れ込んでいた。
夕陽は完全に落ち、窓の外はもう闇の色を帯びている。冷たい汗が、首筋を伝っていた。
夢、だった。
けれど、手のひらに残る“彼”の手の生々しい感触が、まだ消えていなかった。
あの子……いったい、誰だったのだろう。
今まで見てきた、どこかに閉じ込められて逃げ惑う悪夢とは違う。今回は、不思議な安らぎがあった。なのに、最後に聞こえた“もう一つの声”が、心の奥に棘のように深く刺さっている。
今の夢は、記憶なのだろうか。
わたしは膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外には、久邑の家々が静かに沈んでいた。
どの家も明かりはついているのに、人の姿はどこにも見えない。
この夢は、わたしに“思い出せ”と告げているのだろうか。
わたしはそっと胸に手をあてた。夢の中で交わした、あの少年の問い。
「おまえ、ここに戻ってくるんやろ?」
それが、今のわたしにとって一番の鍵のような気がしていた。
そして、あの声が呼んでいた。“えみ”と。
――それが、真人だったのか、それとも……。




