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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第31話「少年」

 その家は、深い路地の先に、ひっそりと佇んでいた。

 蔦に覆われた古い木造家屋。玄関の引き戸はわずかに開いており、誰かが最近ここを出入りしたような気配が漂っている。


 わたしは立ち止まり、まるで何かに導かれるように、そっと手を伸ばした。

 この場所、昔も来たことがあるような気がする。

 指先が湿った木の感触に触れた瞬間、何か遠い記憶の欠片が、脳裏を稲妻のようにかすめた。


 戸は、抵抗なく開いた。内側に広がるのは、埃と古い畳が混じり合った、懐かしい匂い。

 誰のものとも知れぬ履き古されたサンダルが、土間に無造作に脱ぎ捨てられている。

 わたしは、それに吸い寄せられるように、そっと中へ足を踏み入れた。


 とたんに、身体が急激に重くなる。

 視界がじわりと滲み、立っていることさえままならない。

 膝が崩れ、わたしはその場に倒れ込んだ。


 まぶたの裏から滲み出す暗闇が、抗う間もなく、わたしの意識を静かに奪っていった。


 ◇


 気づけば、空はどこまでも明るかった。

 頭上からは、空気を震わせるほどの蝉の声が降り注いでいる。

 足元の地面は焼けるように熱く、遠くから規則正しい太鼓の音が響いてきていた。


 この感覚、知っている。


 目の前には、木の棒で地面を叩きながら歩く、ひとりの少年がいた。

 背は高く、日に焼けた肌に、祭りのものだろうか、真っ赤な法被をまとっている。

 短く刈り込んだ髪は汗で濡れ、額に張り付いていた。

 その手には金魚すくいの網が握られていて、わたしの手をぐい、と力強く引っ張っていく。


「ほら、行くぞ。ヨーヨー釣りまだ空いとるっちゃけん、急がんと全部取られてまうぞ!」


 張りのある、力強い声。

 その目には、迷いというものがひとかけらもなかった。

 真人とは違う。彼は、何かを“引っ張っていく”引力を持った少年だった。


 やはり、名前が思い出せない。

 けれど、確かにわたしは彼のことが好きだった。

 生まれて初めて、自分の意思ではっきりと「好きだ」と感じた、誰か。


 年上だったか、同級生だったか――それさえ曖昧なのに、あの夏、彼と手をつないで歩いた記憶だけは、やけに鮮明だった。


 提灯の柔らかな灯り。綿あめの甘い匂い。空にぼんやりとこだまする、花火の音。

 浴衣を着た子どもたちが走り回り、大人たちは屋台の脇で楽しげに酒を飲んでいる。


「なあ、えみ。あっちの道から行ったほうが早かばい」

「うん……」


 手を引かれるままに歩く。

 わたしの手のひらは汗ばんでいたけれど、彼はそれを気にする様子もなかった。

 そのとき、ふと彼が立ち止まった。


「……なに?」

「おまえさ、……この村、好きか?」


 その言葉に、わたしは返事をする前に、はっと息を呑んだ。

 なぜ、“この村”なんて、彼が言ったのだろう。

 わたしはまだ、九歳。ただ夏祭りに連れて行ってもらっているだけの、子どもだったはずだ。


 それなのに、その言葉には、まるで未来のわたし自身が問いかけられているかのような、ずしりとした重みがあった。


 さわ、と風が吹いた。

 ちりん、と風鈴が澄んだ音を立てる。


 だけど、それはさっきまで歩いていた現実の村で聞いた音と、まったく同じ音だった。

 夢の中なのに、現実と同じ音がする。

 周囲を見回すと、屋台の列がぼんやりと滲んでいた。


 まるで水面に映った影のように、輪郭がゆらゆらと定まらない。

 わたしは手を引く少年の顔をもう一度、しっかりと見ようとした。

 けれど、見えない。


 そこに顔があるはずなのに、深い霧がかかっているように、何も見えなかった。なのに、声だけが生々しく耳に残る。


「――おまえ、ここに戻ってくるんやろ?」

「え……?」

「ぜったい、来るって言ったやろ?」


 その声が、やけに寂しそうで、悲しそうだった。

 視界が、暗転していく。屋台の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。

 提灯の赤が、墨に沈むように滲んでいき、耳を塞いでいた蝉の声が遠ざかる。


 そのとき、背後から微かに誰かの名を呼ぶ声が聞こえた。


 “えみ……”


 それは、彼の声ではなかった。

 もっと細く、やわらかく、誰かに頼るような声。懐かしい響き。


「……っ、あ……!」


 はっとして目を覚ました。


 わたしは、さっき入った家の畳の上に倒れ込んでいた。

 夕陽は完全に落ち、窓の外はもう闇の色を帯びている。冷たい汗が、首筋を伝っていた。

 夢、だった。

 けれど、手のひらに残る“彼”の手の生々しい感触が、まだ消えていなかった。


 あの子……いったい、誰だったのだろう。

 今まで見てきた、どこかに閉じ込められて逃げ惑う悪夢とは違う。今回は、不思議な安らぎがあった。なのに、最後に聞こえた“もう一つの声”が、心の奥に棘のように深く刺さっている。


 今の夢は、記憶なのだろうか。

 わたしは膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がった。

 窓の外には、久邑の家々が静かに沈んでいた。


 どの家も明かりはついているのに、人の姿はどこにも見えない。


 この夢は、わたしに“思い出せ”と告げているのだろうか。

 わたしはそっと胸に手をあてた。夢の中で交わした、あの少年の問い。


「おまえ、ここに戻ってくるんやろ?」


 それが、今のわたしにとって一番の鍵のような気がしていた。

 そして、あの声が呼んでいた。“えみ”と。

 ――それが、真人だったのか、それとも……。

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