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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第30話「違和感」

「えみ、ほらあんた好きやったやん。トマトと大葉の漬けもん。冷蔵庫にあるよ。あとで出すけん」


 母はそう言って、また一口、味噌汁を啜った。

 わたしはそれに頷きながら、ほんの少しだけ、探るように問いかける。


「……ねぇ、お母さん。わたしって、村を出たのって、何歳のときだったっけ」


 ぴたり、と母の箸の動きが止まった。


「……ん?」


 母は何かを思い出すように、ゆっくりと視線を宙に向ける。

 しばらく唇を小さく動かしていたが、なかなか答えは返ってこない。

 その沈黙が、やけに長く感じられた。


 わたしは、続けるように言った。


「十七のときだよ。高校卒業して、東京に出たじゃない。大学に入る前」


「そう、やったかいな……?」


 母はぽつりと呟き、それからまた少し考え込む仕草を見せる。


「……でも、あんた、高校入る前にもう“出たい”って言うとったよ?うちらの言うことなんか全然聞かんでさ。ほら、あんた昔から頑固やったけん」


 わたしは、味噌汁の湯気の向こうから、母の顔をじっと見つめた。

 違う。

 たしかに「出たい」と騒ぎ始めたのは中学の終わりごろだった。


 けれど、実際に出たのは高校を卒業したあとだ。

 進路相談のことで父と激しく揉めて、一時期、口もきかなくなったことさえ、今でもはっきりと覚えている。


 親が、娘の上京の年を、そんな風に曖昧に記憶しているなんて。


「高校入る前じゃないよ。高校三年の春、進学のことで揉めて、それで……」


「あら、そうやったかねぇ……? ごめんごめん。あんたのことで頭いっぱいやったけん、記憶もごっちゃになっとるっちゃろ」


 母はそう言って笑った。その笑顔は、どこか申し訳なさそうだった。

 日常の中の、ささいな食い違い。

 けれど、そのあまりの軽さが、逆に不気味だった。


 違うのだ。単なる記憶違いではない。

 母の言葉そのものではなく、そこに至るまでの“間”だった。

 質問されてから答えを出すまでの、あのわずかな逡巡。


 まるで、与えられた“母親という役”の台本を、必死で思い出しているかのような――。

 喉の奥に、冷たい何かがひっかかったような感覚がした。

 食卓での会話は、その後も続いた。


 母はいつもどおり、どこかの誰々さんの娘が結婚したとか、隣の家の犬が子どもを産んだとか、まるで時間が止まった村のニュースを流し続けるラジオのように、のんびりと喋っていた。

 わたしは箸を動かすふりをしながら、そのほとんどに手をつけていなかった。


 母は、わたしの十七歳の春を、本当に忘れてしまったのだろうか。

 あのとき、泣きながら話した母の顔も、家の天井の木目の形さえも、わたしは全部覚えているというのに。


 心の中で、わたしという存在を支える根っこの一本が、すっと抜けてしまったような気がした。


 もしも、この村全体が、少しずつ“変わって”いるのだとしたら。

 記憶が曖昧になったのではなく、何者かによって、何かが“書き換えられて”いるのだとしたら。

 祭りの日の風景。誰かの泣き声。あの橋を渡るときの、根拠のない恐怖。

 そういった記憶の断片が、うっすらと霧に包まれていく。


「えみ?なんか元気なかね?疲れとると?」


 母の声に顔を上げると、湯気の向こうに、変わらない優しさがあった。

 けれどその優しささえ、どこか仮面のように滑らかすぎて、ぞくりとした。


「ちょっと、外の空気、吸ってくるね」


 わたしは椅子を引いた。


「そうね、少し歩いてきんしゃい。夕方は気持ちいいけん」


 母の笑顔に頷き、わたしは家を出た。


 玄関の戸を引くと、背後で母の優しい声が遠のいていく。

 サンダルに足を通し、外へ一歩踏み出すと、ひやりとした夕暮れの空気が火照った肌に心地よかった。

 深く息を吸い込むと、湿った土と、遠くで何かが燃えるような匂いがした。


 確かめなければならない。

 この村で、一体何が起きているのかを。

 自分の足で歩き、この目で見て、この肌で感じて。


 陽は傾き、空は橙と群青の境目を曖昧に滲ませていた。

 夕暮れの光が屋根瓦を撫で、古びた郵便受けに長い影を落としている。

 民家の縁側には布団が干され、夕餉(ゆうげ)の香りが風に混じってくる。

 どこまでも穏やかで、無害な景色。


 けれど、この空気が、一番怖い。

 まるでこの村そのものが、真人の存在を、初めからなかったことにしようとしているように思えた。

 わたしは坂を下り、細い路地を右に折れた。


 すると、洗濯物を取り込みかけていた老婆がこちらを見て、しわくちゃの顔で笑った。


「あらぁ……えみちゃんやなかね? まあまあ、よう帰ってきたねぇ」


「……こんにちは」


 わたしは、なるべく表情を崩さずに返す。


「お母さんとこ寄ったとやろ? あんた、昔からよう動く子やったけん、今でも足腰はしっかりしとるっちゃろ。お勤めは東京で?」


「……はい。教師してます」


「そうねぇ、立派ばい。先生は村の誇りやけんね」


 老婆は優しく笑いながら、それ以上は何も訊いてこなかった。

 こんなに小さな村で、わたしの突然の帰省が話題になっていないわけがない。

 それなのに誰も、その核心に触れようとしない。

 まるで、それが“決められていた”かのように。

 

 細道を抜けた先、かつて遊び場だった雑木林の手前まで来たとき、道端に座る青年がいた。

 煙草をくゆらせていた彼は、わたしに気づくと視線を向ける。


「おや、久しぶりっすね。……えみ姉ちゃん」


「……あなたは」


 思い出す。

 小さい頃、何度か一緒に山へ虫を取りに行った子だ。

 下の名前は、たしか“圭”だったか。


「もう帰ってこんのかと思っとった。えみ姉ちゃん、村のこと嫌いになっとったっちゃろ」


「……別に、嫌いじゃないよ。ただ……ちょっと距離を置いてただけ」


 彼は笑うでもなく、曖昧に頷いた。


「この村、変わっとらんよ。いまだに、ぜんぶゆっくりで。東京とは違うやろ?」

「……うん。違いすぎるぐらい」


 圭は煙草を地面に落とし、靴で揉み消す。

 そして立ち上がると、一度だけこちらを見て、ぽつりと言った。


「……気ぃつけてな」


「……え?」


「山の道、夜は真っ暗やけん。あぶなか」


 そう言って、彼は去っていった。

 何かを言いかけて、やめたような気がした。


 わたしはまた歩き出す。あたりは少しずつ影が濃くなってきた。


 民家のガラス窓からこぼれる光、軒先にぶら下がる虫除けの風鈴。

 夕方の村は、穏やかで、温かくて、なのに吐き気がするほど不気味だった。

 この村には、感情がない。怒りも、戸惑いも、罪悪も。人々は“決められた反応”を繰り返しているみたいに整っている。


 まるで、村ごとひとつの“劇場”のようだった。


 そしてふと気づく。

 風が、止まっている。


 さっきまで微かに吹いていた夕風が、ぴたりと止んでいた。

 葉は揺れず、風鈴は黙し、空気の流れが凍っている。

 見上げた空は、まだ明るい。なのに、その明るさがどこか異常だった。夜にならないように保たれている、人工の夕焼けのように見えた。


 この村は、何かがおかしい。


 心が、叫んでいた。

 わたしはサンダルのまま、ひとつ深い路地に入った。


 違和感を明確に指差すことはできない。

 それがこの村の、いちばん恐ろしいところだった。


 次の一歩が、どこに繋がっているのか。

 わたしはそれを知らないまま、影の濃くなった村を、ただ歩き続けていた。

以降、30分毎に更新します。

良ければブックマーク等よろしくお願いします。

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