第30話「違和感」
「えみ、ほらあんた好きやったやん。トマトと大葉の漬けもん。冷蔵庫にあるよ。あとで出すけん」
母はそう言って、また一口、味噌汁を啜った。
わたしはそれに頷きながら、ほんの少しだけ、探るように問いかける。
「……ねぇ、お母さん。わたしって、村を出たのって、何歳のときだったっけ」
ぴたり、と母の箸の動きが止まった。
「……ん?」
母は何かを思い出すように、ゆっくりと視線を宙に向ける。
しばらく唇を小さく動かしていたが、なかなか答えは返ってこない。
その沈黙が、やけに長く感じられた。
わたしは、続けるように言った。
「十七のときだよ。高校卒業して、東京に出たじゃない。大学に入る前」
「そう、やったかいな……?」
母はぽつりと呟き、それからまた少し考え込む仕草を見せる。
「……でも、あんた、高校入る前にもう“出たい”って言うとったよ?うちらの言うことなんか全然聞かんでさ。ほら、あんた昔から頑固やったけん」
わたしは、味噌汁の湯気の向こうから、母の顔をじっと見つめた。
違う。
たしかに「出たい」と騒ぎ始めたのは中学の終わりごろだった。
けれど、実際に出たのは高校を卒業したあとだ。
進路相談のことで父と激しく揉めて、一時期、口もきかなくなったことさえ、今でもはっきりと覚えている。
親が、娘の上京の年を、そんな風に曖昧に記憶しているなんて。
「高校入る前じゃないよ。高校三年の春、進学のことで揉めて、それで……」
「あら、そうやったかねぇ……? ごめんごめん。あんたのことで頭いっぱいやったけん、記憶もごっちゃになっとるっちゃろ」
母はそう言って笑った。その笑顔は、どこか申し訳なさそうだった。
日常の中の、ささいな食い違い。
けれど、そのあまりの軽さが、逆に不気味だった。
違うのだ。単なる記憶違いではない。
母の言葉そのものではなく、そこに至るまでの“間”だった。
質問されてから答えを出すまでの、あのわずかな逡巡。
まるで、与えられた“母親という役”の台本を、必死で思い出しているかのような――。
喉の奥に、冷たい何かがひっかかったような感覚がした。
食卓での会話は、その後も続いた。
母はいつもどおり、どこかの誰々さんの娘が結婚したとか、隣の家の犬が子どもを産んだとか、まるで時間が止まった村のニュースを流し続けるラジオのように、のんびりと喋っていた。
わたしは箸を動かすふりをしながら、そのほとんどに手をつけていなかった。
母は、わたしの十七歳の春を、本当に忘れてしまったのだろうか。
あのとき、泣きながら話した母の顔も、家の天井の木目の形さえも、わたしは全部覚えているというのに。
心の中で、わたしという存在を支える根っこの一本が、すっと抜けてしまったような気がした。
もしも、この村全体が、少しずつ“変わって”いるのだとしたら。
記憶が曖昧になったのではなく、何者かによって、何かが“書き換えられて”いるのだとしたら。
祭りの日の風景。誰かの泣き声。あの橋を渡るときの、根拠のない恐怖。
そういった記憶の断片が、うっすらと霧に包まれていく。
「えみ?なんか元気なかね?疲れとると?」
母の声に顔を上げると、湯気の向こうに、変わらない優しさがあった。
けれどその優しささえ、どこか仮面のように滑らかすぎて、ぞくりとした。
「ちょっと、外の空気、吸ってくるね」
わたしは椅子を引いた。
「そうね、少し歩いてきんしゃい。夕方は気持ちいいけん」
母の笑顔に頷き、わたしは家を出た。
玄関の戸を引くと、背後で母の優しい声が遠のいていく。
サンダルに足を通し、外へ一歩踏み出すと、ひやりとした夕暮れの空気が火照った肌に心地よかった。
深く息を吸い込むと、湿った土と、遠くで何かが燃えるような匂いがした。
確かめなければならない。
この村で、一体何が起きているのかを。
自分の足で歩き、この目で見て、この肌で感じて。
陽は傾き、空は橙と群青の境目を曖昧に滲ませていた。
夕暮れの光が屋根瓦を撫で、古びた郵便受けに長い影を落としている。
民家の縁側には布団が干され、夕餉の香りが風に混じってくる。
どこまでも穏やかで、無害な景色。
けれど、この空気が、一番怖い。
まるでこの村そのものが、真人の存在を、初めからなかったことにしようとしているように思えた。
わたしは坂を下り、細い路地を右に折れた。
すると、洗濯物を取り込みかけていた老婆がこちらを見て、しわくちゃの顔で笑った。
「あらぁ……えみちゃんやなかね? まあまあ、よう帰ってきたねぇ」
「……こんにちは」
わたしは、なるべく表情を崩さずに返す。
「お母さんとこ寄ったとやろ? あんた、昔からよう動く子やったけん、今でも足腰はしっかりしとるっちゃろ。お勤めは東京で?」
「……はい。教師してます」
「そうねぇ、立派ばい。先生は村の誇りやけんね」
老婆は優しく笑いながら、それ以上は何も訊いてこなかった。
こんなに小さな村で、わたしの突然の帰省が話題になっていないわけがない。
それなのに誰も、その核心に触れようとしない。
まるで、それが“決められていた”かのように。
細道を抜けた先、かつて遊び場だった雑木林の手前まで来たとき、道端に座る青年がいた。
煙草をくゆらせていた彼は、わたしに気づくと視線を向ける。
「おや、久しぶりっすね。……えみ姉ちゃん」
「……あなたは」
思い出す。
小さい頃、何度か一緒に山へ虫を取りに行った子だ。
下の名前は、たしか“圭”だったか。
「もう帰ってこんのかと思っとった。えみ姉ちゃん、村のこと嫌いになっとったっちゃろ」
「……別に、嫌いじゃないよ。ただ……ちょっと距離を置いてただけ」
彼は笑うでもなく、曖昧に頷いた。
「この村、変わっとらんよ。いまだに、ぜんぶゆっくりで。東京とは違うやろ?」
「……うん。違いすぎるぐらい」
圭は煙草を地面に落とし、靴で揉み消す。
そして立ち上がると、一度だけこちらを見て、ぽつりと言った。
「……気ぃつけてな」
「……え?」
「山の道、夜は真っ暗やけん。あぶなか」
そう言って、彼は去っていった。
何かを言いかけて、やめたような気がした。
わたしはまた歩き出す。あたりは少しずつ影が濃くなってきた。
民家のガラス窓からこぼれる光、軒先にぶら下がる虫除けの風鈴。
夕方の村は、穏やかで、温かくて、なのに吐き気がするほど不気味だった。
この村には、感情がない。怒りも、戸惑いも、罪悪も。人々は“決められた反応”を繰り返しているみたいに整っている。
まるで、村ごとひとつの“劇場”のようだった。
そしてふと気づく。
風が、止まっている。
さっきまで微かに吹いていた夕風が、ぴたりと止んでいた。
葉は揺れず、風鈴は黙し、空気の流れが凍っている。
見上げた空は、まだ明るい。なのに、その明るさがどこか異常だった。夜にならないように保たれている、人工の夕焼けのように見えた。
この村は、何かがおかしい。
心が、叫んでいた。
わたしはサンダルのまま、ひとつ深い路地に入った。
違和感を明確に指差すことはできない。
それがこの村の、いちばん恐ろしいところだった。
次の一歩が、どこに繋がっているのか。
わたしはそれを知らないまま、影の濃くなった村を、ただ歩き続けていた。
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