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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 六章 蕾は裂けて、音もなく
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第29話「実家」

 一歩、実家の門をくぐる。

 砂利を踏みしめるその音だけが、やけに重たく響いた。

 引き戸に手をかけると、きぃ、と乾いた音がした。


 鍵は、かかっていなかった。

 昔から、この家では玄関の鍵をかける習慣などほとんどなかったのだ。

 このあたりでは、鍵を閉めるほうがよほど「よそ行き」で、泥棒なんて言葉が似合わないほど、人と人との繋がりが濃い場所だったから。


 それでも、今となっては、その開けっぱなしの玄関が、どこか無防備すぎて胸のざわつきを煽る。

 この扉をくぐれば、もう後戻りはできない。

 覚悟は決まっているはずなのに、足が敷居の前で縫い付けられたように動かなかった。


 わたしは小さく息を吸い込み、掠れそうになる声で、名を呼んだ。


「……お母さん?」


 一拍。二拍。


 返事は、ない。


 呼吸を潜めて耳を澄ますと、かすかに台所のほうから水の音が聞こえた。

 古びた水道管を伝う、あの、ごぼ、ごぼ、という鈍い音だ。


 そして、三拍目――。


「えっ!? えみ!? ……えっ、あんた? なんしよーと、急に!」


 突然、家の奥から弾かれたような声が響いた。

 水音がぴたりと止まる。

 わたしは思わず、声のしたほうへ顔を上げた。


 キッチンの引き戸がぱたんと小気味よい音を立てて開き、そこから、母が現れた。


「えみたい! えみやろ!? どしたと、そげん突然……」


 パーマのかかった髪を後ろで無造作にまとめ、白い割烹着を身につけている。

 その手にはまだ濡れたままの菜箸が握られていて、顔には心底驚いたという色が浮かんでいた。

 あまりの光景に、わたしは思わず立ちすくむ。


 拍子抜けだった。


 もっと、何というか――重く、閉ざされた空気が家の中にも満ちているのだとばかり思っていた。

 誰もいない静まり返った空間に、わたしだけがぽつんと足を踏み入れていく。

 そんな不吉な想像すらしていたのに。


「なんね、もう! なんも連絡なかし、こっちはびっくりしたばい……!」


 わたしの戸惑いをよそに、母はさっさと玄関まで歩いてくると、まるで数日ぶりに会っただけかのような、当たり前の顔で言った。


「帰ってくるとやったら、一言くらい言うたらよかとに〜。……あんた、仕事は? 東京のほうで先生しとったんやろ?」


 その言葉に、わたしの心はふっと現実に引き戻される。

 そうだ。わたしは今、何の理由も言い訳も告げずに、突然帰ってきた娘なのだ。どうするべきか。

 考えがまとまらないでいると、母がわたしの顔を覗き込んできた。


「えみ、なーんかあったと? 顔が……ちょっと怖かよ?」


 母の顔に、ほんのわずかな不安の影が差す。

 ここで発する次の言葉が、きっと、すべての“扉”を開けてしまうことになるだろう。

 けれど、今はまだ、その時ではない。


 わたしは無理に口角を上げて、笑みを作った。


「……ちょっとだけ。仕事のことでね。少しだけ休みもらったとよ」


 母に促されるまま靴を脱ぎ、家に上がる。

 廊下を進むと、畳のい草の匂いが懐かしく鼻をくすぐった。

 襖の角は少し日焼けしていて、ガラス戸のすり傷は、あの頃のままだった。


「とりあえず、なんか飲む? 冷蔵庫に麦茶あるけん。あ、まだごはん残っとるばい。お昼食べた?」


「……うん、ちょうだい」


 口が勝手にそう応えていた。

 正直、食欲などひとかけらもなかったけれど、何か“普通”のことに触れていないと、足元から崩れてしまいそうだったのだ。

 母はいつもの手際で麦茶をグラスに注ぎ、ガラステーブルに置いた。


 琥珀色の液体が、窓から差し込む陽射しを受けてきらりと揺れる。


「ほら。あんた、こっち座りんしゃい」


 差し出された麦茶を受け取り、無言で一口飲む。

 冷たい液体が喉を滑り落ちていくのを感じながら、ようやく現実に身体が追いついてくるのが分かった。


 居間のテーブル。

 母が漬けた小皿のたくあん。 漂う味噌汁の出汁の香り。

 きれいに折りたたまれた新聞紙。


 何も、変わっていない。そのように見えた。

 けれど、なぜか視界の隅にあるすべてが、わたしに精巧な“嘘”をついているような気がしてならなかった。

 母は味噌汁を温め直しながら、背中越しに明るく話しかけてくる。


「それで、ほんとになんしに帰ってきたと? あんたがうちに突然帰ってくるなんて、よっぽどのことばい。……失恋でもしたとね?」


「違うよ」



「ならよかとけど。……でも、ほんと、えみが帰ってきてくれてうれしかばい。お父さんも喜ぶと思うよ。今日も朝から山の方行っとるけん、晩には戻ってくるやろ」


 わたしは、麦茶のグラスを見つめたまま、次にかけるべき言葉を探していた。

 母の言葉が、その仕草が、あまりに“普通”すぎて、逆に胸がざわついてくる。

 本当に、知らないのだろうか。この村のこと。


 そして、真人が攫われたかもしれないという、この異常な現実のこと。


「……ねえ、お母さん」


「なに?」


 わたしは慎重に、言葉を選んだ。


「この村って、昔と変わらず静かだよね。なんというか……変な噂とか、ない?」


 母は味噌汁のお椀をテーブルにことりと置くと、眉を少しひそめた。


「噂? なんの噂ね?」

「ううん、なんでもない。……ちょっとだけ気になっただけ」


「変な子やねぇ、えみは。東京の空気に毒されとるとよ、あんた」


 そう言って、母はからりと明るく笑った。


 その笑顔の向こうに、何かを“知らずにいる”人間の、あまりにも無防備な姿があった。

 それが、ひどく痛々しく感じられた。

 わたしは、これから知りたくないことを、探ろうとしているのだ。


 だからこそ、今はまだ、本当のことは口に出すべきじゃない。

 わたしは黙って味噌汁をひとくち啜った。

 出汁の味が、いつもより、少しだけ濃く感じられた。

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