第29話「実家」
一歩、実家の門をくぐる。
砂利を踏みしめるその音だけが、やけに重たく響いた。
引き戸に手をかけると、きぃ、と乾いた音がした。
鍵は、かかっていなかった。
昔から、この家では玄関の鍵をかける習慣などほとんどなかったのだ。
このあたりでは、鍵を閉めるほうがよほど「よそ行き」で、泥棒なんて言葉が似合わないほど、人と人との繋がりが濃い場所だったから。
それでも、今となっては、その開けっぱなしの玄関が、どこか無防備すぎて胸のざわつきを煽る。
この扉をくぐれば、もう後戻りはできない。
覚悟は決まっているはずなのに、足が敷居の前で縫い付けられたように動かなかった。
わたしは小さく息を吸い込み、掠れそうになる声で、名を呼んだ。
「……お母さん?」
一拍。二拍。
返事は、ない。
呼吸を潜めて耳を澄ますと、かすかに台所のほうから水の音が聞こえた。
古びた水道管を伝う、あの、ごぼ、ごぼ、という鈍い音だ。
そして、三拍目――。
「えっ!? えみ!? ……えっ、あんた? なんしよーと、急に!」
突然、家の奥から弾かれたような声が響いた。
水音がぴたりと止まる。
わたしは思わず、声のしたほうへ顔を上げた。
キッチンの引き戸がぱたんと小気味よい音を立てて開き、そこから、母が現れた。
「えみたい! えみやろ!? どしたと、そげん突然……」
パーマのかかった髪を後ろで無造作にまとめ、白い割烹着を身につけている。
その手にはまだ濡れたままの菜箸が握られていて、顔には心底驚いたという色が浮かんでいた。
あまりの光景に、わたしは思わず立ちすくむ。
拍子抜けだった。
もっと、何というか――重く、閉ざされた空気が家の中にも満ちているのだとばかり思っていた。
誰もいない静まり返った空間に、わたしだけがぽつんと足を踏み入れていく。
そんな不吉な想像すらしていたのに。
「なんね、もう! なんも連絡なかし、こっちはびっくりしたばい……!」
わたしの戸惑いをよそに、母はさっさと玄関まで歩いてくると、まるで数日ぶりに会っただけかのような、当たり前の顔で言った。
「帰ってくるとやったら、一言くらい言うたらよかとに〜。……あんた、仕事は? 東京のほうで先生しとったんやろ?」
その言葉に、わたしの心はふっと現実に引き戻される。
そうだ。わたしは今、何の理由も言い訳も告げずに、突然帰ってきた娘なのだ。どうするべきか。
考えがまとまらないでいると、母がわたしの顔を覗き込んできた。
「えみ、なーんかあったと? 顔が……ちょっと怖かよ?」
母の顔に、ほんのわずかな不安の影が差す。
ここで発する次の言葉が、きっと、すべての“扉”を開けてしまうことになるだろう。
けれど、今はまだ、その時ではない。
わたしは無理に口角を上げて、笑みを作った。
「……ちょっとだけ。仕事のことでね。少しだけ休みもらったとよ」
母に促されるまま靴を脱ぎ、家に上がる。
廊下を進むと、畳のい草の匂いが懐かしく鼻をくすぐった。
襖の角は少し日焼けしていて、ガラス戸のすり傷は、あの頃のままだった。
「とりあえず、なんか飲む? 冷蔵庫に麦茶あるけん。あ、まだごはん残っとるばい。お昼食べた?」
「……うん、ちょうだい」
口が勝手にそう応えていた。
正直、食欲などひとかけらもなかったけれど、何か“普通”のことに触れていないと、足元から崩れてしまいそうだったのだ。
母はいつもの手際で麦茶をグラスに注ぎ、ガラステーブルに置いた。
琥珀色の液体が、窓から差し込む陽射しを受けてきらりと揺れる。
「ほら。あんた、こっち座りんしゃい」
差し出された麦茶を受け取り、無言で一口飲む。
冷たい液体が喉を滑り落ちていくのを感じながら、ようやく現実に身体が追いついてくるのが分かった。
居間のテーブル。
母が漬けた小皿のたくあん。 漂う味噌汁の出汁の香り。
きれいに折りたたまれた新聞紙。
何も、変わっていない。そのように見えた。
けれど、なぜか視界の隅にあるすべてが、わたしに精巧な“嘘”をついているような気がしてならなかった。
母は味噌汁を温め直しながら、背中越しに明るく話しかけてくる。
「それで、ほんとになんしに帰ってきたと? あんたがうちに突然帰ってくるなんて、よっぽどのことばい。……失恋でもしたとね?」
「違うよ」
「ならよかとけど。……でも、ほんと、えみが帰ってきてくれてうれしかばい。お父さんも喜ぶと思うよ。今日も朝から山の方行っとるけん、晩には戻ってくるやろ」
わたしは、麦茶のグラスを見つめたまま、次にかけるべき言葉を探していた。
母の言葉が、その仕草が、あまりに“普通”すぎて、逆に胸がざわついてくる。
本当に、知らないのだろうか。この村のこと。
そして、真人が攫われたかもしれないという、この異常な現実のこと。
「……ねえ、お母さん」
「なに?」
わたしは慎重に、言葉を選んだ。
「この村って、昔と変わらず静かだよね。なんというか……変な噂とか、ない?」
母は味噌汁のお椀をテーブルにことりと置くと、眉を少しひそめた。
「噂? なんの噂ね?」
「ううん、なんでもない。……ちょっとだけ気になっただけ」
「変な子やねぇ、えみは。東京の空気に毒されとるとよ、あんた」
そう言って、母はからりと明るく笑った。
その笑顔の向こうに、何かを“知らずにいる”人間の、あまりにも無防備な姿があった。
それが、ひどく痛々しく感じられた。
わたしは、これから知りたくないことを、探ろうとしているのだ。
だからこそ、今はまだ、本当のことは口に出すべきじゃない。
わたしは黙って味噌汁をひとくち啜った。
出汁の味が、いつもより、少しだけ濃く感じられた。




