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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 一章 誰にも知られずに咲く
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第2話「先生と、わたし」

 放課後の教室は、生徒たちの熱気が引いたあとの、空っぽな静けさに満ちていた。

 淡い夕陽が窓ガラスを染め、わたしの立つ教壇の影だけを、まるで世界の残り物みたいに廊下まで長く引き伸ばしている。


 わたしは、誰に言うでもなく黒板に残ったチョークの線を指でなぞった。その無機質な感触とは裏腹に、心は無意識にひとつの輪郭を探している。


 真人――。


 進路相談で言葉を交わして、まだ数日。

 それなのに、彼のことを考えない日はなかった。

 教室の片隅、帰り支度をする生徒たちの喧騒が遠ざかるなか、窓際の一角に座る彼の姿が、ふと網膜に焼きつく。


 今日も静かに文庫本を読んでいた。風が吹くたび、少し着崩された制服の袖が小さく揺れる。その儚い動きと、本のページに落ちる彼の睫毛の影が、どうしようもなく綺麗だと思ってしまった。


 その瞬間、胸の奥で「教師」としてのわたしが冷たい警鐘を鳴らす。


 ――いけない。


 けれど、その声すらも、彼を見つけるたびに繰り返される心の揺らめきには、もう勝てそうになかった。


「真人くん、ちょっといい?」


 気づけば、声をかけていた。このあと職員室での雑務が山のように待っている。でも、この時間だけは、誰にも邪魔されない聖域のように切り離しておきたかった。


「……先生。どうかしましたか?」


 彼は本から顔を上げ、不思議そうにこちらを見る。その問いに、用意していた言い訳を口にした。


「ううん、ちょっと疲れたから、誰かと喋りたくて」


 自分でも滑稽だと思うその理由に、真人はけれど、静かに隣の席を引いてくれた。その小さな気遣いが、胸の奥をじわりと温める。


「先生、たまに訛りますよね」


 不意に彼が言った。


「あ……そう? 真人くんと話すと、つい出てしまうと」


 自嘲ぎみに笑いながら肩を竦めると、真人のまっすぐな瞳がこちらに向けられているのを感じた。その眼差しは、夕陽のせいか、どこか眩しい。


「……先生、昔、村で何してたんですか?」


 その一言に、心臓がぎゅっと締め付けられる。


(……なんしよったっけ。思い出せん。けど……)


 頭の中に、白い霧がかかったような、あやふやな記憶が広がる。祭りの笛や太鼓の音、湿った土の匂い、夕暮れの神社の鳥居。

 情景の断片は浮かぶのに、それがどんな思い出だったのか、誰と過ごした時間だったのか、核心に触れようとすればするほど、何かが指の間からすり抜けていく。


「……あんまり、覚えとらんと。変な村だったなーって、それくらい。ただ、お父さんに連れられてよく山に入っとったけん、獣をどう避けるか、どう追い詰めるか、そういう知恵だけは嫌でも身についたけどね」

「……でも、真人くんがいてくれて、ちょっと嬉しかったよ。私も、話せる相手ができたって思った」


 そう口にした瞬間、真人のまつげがふわりと震えた。その微細な動きが、なぜかスローモーションのようにわたしの目に映った。


 ◇


 夜。ひとりで暮らすマンションの部屋は、静かすぎて、自分の呼吸の音だけがやけに大きく響いた。


 カーテンを閉め、間接照明だけの薄明かりのなか、わたしはベッドサイドに腰を下ろす。湯上がりの身体を包むタオル地のバスローブが、まだ熱を帯びた肌に貼りついていた。


 そのまま、冷たいスマートフォンを手に取る。インカメラに切り替えると、画面の中に、湿った髪をまとった自分が現れた。首筋を伝う水の粒、湯気でわずかに上気した頬、薄い布越しに浮かび上がる鎖骨の線。


 指先で画角を決めながら、わたしはカメラ越しの“わたし”に、声にならない問いを投げかける。


 ――まだ、女として、綺麗だと思う?


 誰にも見せるためじゃない。誰かに送るためでもない。この自撮りは、鏡よりも残酷で正直な、わたしだけの審判だ。

 日に日に失われていく若さを、せめてこの瞬間だけは美しいのだと、自分に言い聞かせるための儀式だった。


 胸のラインが、薄手の布越しにやわらかく浮かび上がる。

 腰の曲線は、座る角度ひとつで生々しいほどの輪郭を描き出す。


 この身体が、ただ年を取り、誰にも知られずに朽ちていくのを見ていられなくて――

 わたしはときどき、こうして確かめるのだ。

 この肉体がまだ、女としての熱を失っていないことを。


 心の奥底では、“誰かに見られたい”と叫んでいるのかもしれない。

 けれど、この姿を誰かに見せた瞬間、すべてが終わってしまいそうな気もしていた。

 教師という仮面が剥がれ、ただの女として値踏みされ、そして幻滅される。


 その恐怖が、この衝動を画面の中だけに留めさせる。

 スマホの中のわたしが、寂しげに笑ったように見えた。


 ――虚勢やな、って。


 その声なき声に、わたしは現実に引き戻される。

 画面を閉じ、指先ひとつで今撮ったばかりの写真をゴミ箱へ送った。保存しない。履歴も残さない。

 わたしの内に秘めたこの浅ましいほどの渇望は、誰にも知られてはならない。


 それでも、わたしが“そうした”という事実だけが、この部屋の空気に、ぬるく沈んでいく。

 静かな夜。わたしだけが知っている“女としてのわたし”が、またひとつ、この指で消した写真と共に擦り減った気がした。

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