第28話「久邑村」
舗装がはげ、土が顔をのぞかせる道を進んでいくうちに、ぽつり、ぽつりと人家が見えはじめた。
板張りの壁に、錆の浮いたトタン屋根。軒下には、使い込まれた農具が整然と吊るされている。
縁側に干された色褪せた座布団や、風にそよぐ洗濯物。
そういった暮らしの断片のすべてが、まるで時間そのものから取り残されたかのように、張り詰めた静けさに包まれていた。
ここまでは、まだ普通だ。
外から来た者が見れば、きっと「古き良き日本の田舎」とでも評するような、穏やかで懐かしい風景に違いない。
けれど、今のわたしの目には、何もかもが疑わしく映っていた。
真人が消えたあの夜。
夢で見た、あの少年の言葉。
そして、この村の入口に掲げられていた、あの看板。
村の奥には、何かがある。
それはもはや、予感などという生易しいものではなく、冷たい確信となって胸に突き刺さっていた。
道端で、ひとりの老人が屈みこんで草を刈っていた。
その手元に気を取られていたわたしに、彼がふと顔を上げた。
麦わら帽子の下、日に焼けて深く刻まれた皺が、年月の長さを物語っている。
老人は一瞬、不審そうに目を細めたが、すぐにその表情が、ふわりと花が咲くようにほころんだ。
「あれまぁ……神原さんのとこの娘さんじゃなかとね?」
唐突に投げかけられた“日常”の言葉に、わたしの足がぴたりと止まった。
「ほらほら、あんた。小さか頃、お父さんと一緒に神楽を見にきとったろ。わしゃあ、あの時から顔忘れんとよ」
記憶の井戸をいくら浚っても、彼の顔は浮かんでこない。
けれど、老人は心からの懐かしさを滲ませて、屈託なく笑っていた。
「もう都会におるって聞いとったばってん、よう帰ってきたねぇ。夏休みかね? それとも、お母さん具合でも悪かと?」
わたしは、何ひとつ言葉を返せなかった。
頭の中では、真人の怯えた顔がちらついている。ネットカフェの隅で震えていた、あの夜の彼が。
そして、アパートの部屋に残されていた、無残に割れた写真立てが。
「……あの、すみません。急いでて……」
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほどか細く、拒絶の色を帯びていた。
老人はわたしの様子に何かを察したのか、ああ、すまんすまんと軽く手を振る。
「引き止めてしもうた。どこ行きよると? 車なら貸したるばい!」
その言葉は、紛れもない善意だった。
けれど、その純粋な親切さえも、今のわたしには、あまりにも遠い世界の響きにしか聞こえなかった。
そんな言葉を投げかけられて、素直にありがたいと思えない自分が、何よりも嫌だった。
わたしは小さく頭を下げると、逃げるようにしてその場を離れた。
振り返ると、老人はまだこちらを見ていた。手を振るわけでもなく、ただじっと、わたしを“見送っている”目だった。
優しい目をしていた。
けれど、その目はわたしの今を知らない。
この村で、今まさに何が起きようとしているのかも、きっと知らずにいる。
その瞬間、ぞっとするような考えが背筋を走った。
この村には、“知らされていない人々”もいるのではないか。
九州の山間部で行われていたという、祈祷と呼ばれる儀式のこと。
真人と交わした噂話が、脳裏で警鐘を鳴らす。
穏やかに笑いながら暮らしている誰かのすぐ隣で、誰かが消え、誰かが捧げられているのかもしれない。
それでも村は、何事もなかったかのように、ただ静かでいられるのだ。
それが、むしろ恐ろしかった。
足が、自然と速まる。
緑に埋もれるようにして続く道の先――わたしの実家は、もうすぐのはずだった。
◇
道は、やがて少しだけ傾斜を帯びるようになった。
木々の間から差し込む光は細く、長く、揺らめきながら地面に落ちている。
舗装が消えかけたアスファルトに混じる砂利が、足の下でザリザリと乾いた音を立てた。
背負ったバッグの重みがずっしりと肩にのしかかり、息が浅くなる。
それでも、わたしは立ち止まらなかった。
間に合わなければ、意味がない。
汗が背中を伝い、肌に張り付くような不快さがあった。見慣れた道。……そのはずだった。
けれど、こうして自分の足で歩くのは、もう何年ぶりになるのだろう。
村を出て十年以上、帰省らしい帰省は一度もしてこなかった。
記憶はある。けれど、その輪郭はひどく曖昧なままだった。
そうして歩き続けた、その先。
左手の木々が途切れた向こうに、唐突に開けた空間が見えた。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
足が、ふと止まった。
そこに――あったのだ。わたしの“実家”が。
濃い茶色の木板でできた、切妻屋根の平屋建て。
土間へと続く引き戸の前には、古びた簾が垂れている。
風に吹かれて揺れているそれは、かつて夏になると母が毎年新しく掛け直していたものだ。
縁側には今も、錆びたアルミのたらいが置いてある。
昔、祖母がそこで漬物を作っていた。
軒先には風鈴がひとつ。けれど、音は鳴っていなかった。
まるで、わたしが帰ってくることなど忘れてしまったかのように、その家は“止まったままの時間”の中で、じっと佇んでいた。
その静けさは、不思議と嫌悪感を抱かせるものではなかった。
ただ、胸の奥に鈍い痛みと、言葉では説明できない確かな違和感をもたらしてくる。
人の気配はしなかった。けれど、空き家特有の荒れ果てた感じもない。
敷地の草はそれなりに手入れされていて、郵便受けに無造作なチラシの束もなかった。
なのに、窓はどこも閉じられ、カーテンも引かれたままだ。
風もなく、虫の声すら遠くでしか聞こえない。
目の前にあるのは、わたしが帰るはずの“家”。
しかし、そこには誰も迎える者はいなかった。
わたしはそっと、拳を握った。
玄関の敷石に、自分の影が長く落ちている。
この一歩を踏み出せば、すべてが“始まってしまう”。そんな予感がした。
それでも、進まなければならない。真人を取り戻すために。
この村の闇の奥へ、そして、わたし自身の記憶の奥深くへと――。




