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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 五章 還らず、祈り芽吹く
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第27話「還らず、祈り芽吹く」

 都内某所、ターミナル駅。

 朝の喧騒がようやく和らぎ始めた時間帯だというのに、駅構内は絶えず人の波がうねり、流れていた。


 スーツ姿で足早に行き交う会社員たち。

 スマートフォンの画面に視線を落としたまま歩く学生。そして、軽快な音を立ててキャリーケースを引く旅行者。

 コーヒーショップのカウンターからは、バリスタの張りのある声と共に、ミルクが泡立つ小気味よい音が漏れ聞こえてくる。


 その日常の風景の中に――明らかに浮いている存在が、ひとり。

 わたしだった。


 ランニングジャケットにショートパンツ、ごつごつとしたトレイルラン用のシューズ。

 膝には物々しいサポーターまで巻いている。

 早朝のランニング帰りと言えなくもない格好だが、今のわたしから滲み出る空気は、爽やかな汗とはおよそ無縁のものだろう。


 失った何かを取り戻すため、今にも駆け出しそうな、焼き切れるほどに強い焦燥と緊張が、身体の奥から溢れ出している自覚があった。


 すれ違う人々が、一瞬だけ眉をひそめる。振り返り、囁き合う声が聞こえた。


「ねえ、あの人……」

「あの格好でどこ行くんだろ」


 そんな視線など、もはやどうでもよかった。

 聞こえないふりをして、わたしは新幹線の改札へと足を速める。

 ただ、早く。一分一秒でも早く、あの村へ辿り着くこと。


 それだけが、今のわたしの全てだった。

 手配済みのチケットで改札を抜けると、ホームに吹き込む風が、身体に密着した機能性ジャケットの裾をわずかになびかせた。


 金曜の午前、空いている窓側の席に深く身を沈めた瞬間、ようやく張り詰めていた糸がほんの少しだけ緩む。

 ポーチから水を取り出して一口含むと、冷たい液体が喉を伝い、熱に浮かされたような思考をわずかに鎮めてくれた。


 スマートフォンを開く。電源はずっと入れたままだったが、真人からの連絡はない。

 その冷たい事実が、また鋭く胸を刺した。

 通知欄のサムネイルに、彼がステージの上で輝いていた、あの日の写真が一瞬映る。

 消そうとして、指が止まった。


 窓の外を、巨大なビル群が滑るように流れていく。

 だがこの無機質な景色も、やがて緑深い山へ、穏やかな川へ、そして霧に沈む山間の道へと変わっていくのだ。

 わたしが向かうのは、忘れていたはずの場所。

 思い出せない記憶が眠る“村”。バッグの中から折り畳んだ地図を取り出すと、その端に記された故郷の名を、わたしは指先で確かめるように、そっと触れた。


久邑くむら


 その地名を睨みつけるように見つめながら、わたしは唇を固く結んだ。


 ◇


 ローカル線に乗り継いだのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 一日に数本しか走らない、小さな路線。

 ホームには地元の高校生らしき制服姿と、農作業の帰りだろうか、日に焼けた男女がぽつりぽつりと座っている。


 その中にあって、わたしはやはり異物だった。

 ジャケットの前を閉じ、キャップを目深に被っても、この場に馴染むことのできない空気は隠しようもない。

 機能性に徹した装備と、張り詰めた気配が、ただの旅行者ではないことを雄弁に物語っていた。


 電車の車輪が鈍く軋みながら動き出す。

 わたしはスマートフォンを取り出した。連絡するつもりはなかった。正確に言えば、できなかった。


 それでも、どうしても確認しておかなければならないことがあった。

 村に住む、父と母のこと。あの場所に“いま”、本当に彼らがいるのかを。

 真人を攫ったのが村の手の者だとすれば、両親が無事である保証など、どこにもないのかもしれない。

 連絡帳をスクロールする指先が、かすかに震える。


「母」という二文字をタップした。

 耳に響くのは、無機質な呼び出し音だけ。ワン、ツー、スリー――。何度目かのコールの後、自動音声が冷たく応えた。


『この電話は現在、出ることができません』


 わたしは通話を切った。心臓が、嫌な音を立てる。

 もう一度、今度は父の番号を押した。


『現在、電波の届かない場所に――』


 思わず、唇を強く噛んだ。

 父は山の中で作業をしているのかもしれない。

 母は買い物か、あるいは誰かと話し込んでいるだけかもしれない。


 偶然。そう、ただの偶然である可能性の方が高い。

 けれど、“もしも”という最悪の仮定が、喉元にこびりついて離れなかった。


 車窓の向こうで、青く沈んだ山の稜線がゆっくりと動いている。

 高く、高く聳える山並みは、まるで村を守るための巨大な壁のようであり、あるいは、村をこの世から隔絶し、閉じ込めるための檻のようにも見えた。


 もう誰も、助けには来てくれない。わたしは膝の上に置いた手を、関節が白く浮き出るほど強く握りしめた。

 自分で選び、自分で守り、自分で責任を取るのだ。

 窓の外に、見覚えのある駅名が流れていく。


 あと三つ。そこからさらにバスを乗り継いで、ようやく――久邑へ。

 わたしはスマートフォンの画面を伏せ、胸の奥で、静かに決意の炎を燃やした。


 ◇


 バスの窓際に座り、左肘を窓の縁にかける。

 流れていく景色を、わたしはぼんやりと目で追っていた。

 ローカル線を降り、次の便まで一時間も待たされたバス停には、錆びたベンチと自動販売機、そして誰が書いたのか「熊出没注意」の張り紙があるだけだった。


 昔は、こんな何もない場所に何の疑問も抱かずに暮らしていた。

 その事実が、今となっては信じられない。


 バスは山道に入るたび、エンジンを唸らせてギアを切り替える。

 くねるカーブ、道にせり出す斜面、不意に姿を現す谷川。

 どこもかしこも、記憶の片隅にうっすらと残っている風景だった。


 だが、そこに重なるように浮かぶ“違和感”の正体は、きっと、あの頃のわたしには見えていなかったものなのだろう。


 目を閉じると、真人の顔が浮かんだ。笑っていた、あの日の彼が。わたしに未来を語っていた、希望に満ちた彼が。

 それが今、どこか暗く湿った場所で、何をされているのかすら分からない。

 間に合わないかもしれない。その言葉が、鉛のように重く喉の奥で膨らんでは、かろうじて飲み込まれていく。


 それでも、行かなければならない。たとえこの先に、何が待ち受けていようとも。


 バスの中には、他に数人の乗客がいるだけだった。

 農作業帰りらしい老人たちが、互いに言葉も交わさず、ただ揺れに身を任せている。

 その中で、わたしの服装も、鞄も、そして何よりわたし自身が放つ切迫した空気も、全てが浮いていた。


 あの子を救い出したい。

 ただそれだけの、あまりにも純粋な願いが、なぜこれほど重く、孤独なものなのか。


 ふと、前方に分かれ道の標識が見えた。


「久邑 3km」


 まるでその標識に呼び寄せられるように、山の緑が急に深くなる。

 光さえ届かないような影が落ち、木々の間から射す斜光が、うっすらと立ち込める霧を照らし出していた。

 異界へと踏み込むための儀式のように、わたしは、かつての“自分”がいた場所へ、そして“まだ見ぬ闇”の中へと向かっていた。


 バスは山道を抜け、谷あいへと降りるように速度を落とす。

 あたりの風景が、確実に変わっていた。

 それは“時代”ではなく、“空気そのもの”が違っているような感覚だった。


 舗装された道路は苔と泥に縁取られ、民家のほとんどはシャッターを下ろしているか、伸び放題の草に埋もれている。

 電柱の間隔はやけに広く、頼りなげに電線が垂れていた。

 喧騒も、光も、人の気配すらない。


 あるのは、音のない緑と、時折響く鳥の声だけ。

 そんな風景の中にぽつんと置かれていることに、わたしは急激な不安を覚えた。

 本当に、ここに来てよかったのか。


 心の内に芽生え始めた問いを、かき消すように目を閉じる。

 いいえ、そんなことを言っている場合ではない。

 真人がいるかもしれないのだ。この山の奥の、どこかに。


 再び目を開けたとき、視界の先に――それはあった。

 山の木々がふっと割れ、橋と、苔むした石碑が見える。


 《久邑村 ようこそ》


 かすれた白いペンキで書かれた看板が、斜めに傾いて吊るされていた。その光景を目にした瞬間、喉がひゅっと鳴り、息を呑む。

 足先から頭のてっぺんまで、冷たい液体を浴びせられたように、全身が硬直した。


 わたしは、いま、戻ってきたのだ。

 バスはゆっくりと停車する。

 体が勝手に動き、わたしは立ち上がった。


 ドアが開き、ひんやりとした外気が流れ込む。

 土の匂い。緑の匂い。

 そして、かすかに――血のような、鉄のような、嗅ぎ慣れない匂い。


 わたしは、そんな世界へ、いま、自分の足で入っていこうとしている。

 真人を、取り戻すために。


 橋のたもとに、わたしは立ち尽くしていた。

 目の前には、村へと続く一本の、長く、異様に静かな橋。

 コンクリート製の古い欄干には苔が生え、全長はせいぜい数十メートルのはずなのに、向こう岸が地平線の果てまで続いているように思える。


 風が、どこか生ぬるく、湿っていた。橋の下の川は、濁ってはいない。けれど、透き通ってもいない。

 まるで底そのものが存在しないかのように、深く、黒く、ただ流れている。


 靴の底が、コンクリートを踏む。わずかな音が、やけに大きく響いた。

 一歩。そして、もう一歩。

 橋を渡り始めたその瞬間から、世界の音が遠のいていく。


 風の音すら、もう耳には届かない。

 背中に貼りつく汗が、冷たさではなく熱を帯びていた。

 鼓動だけが、異常な速さで胸を打つ。それでも、足は止まらない。

 真人。その顔だけが、唯一の支えだった。


 橋の中央に差しかかり、振り返ってはいけない、と直感が告げる。

 もし今ここで後ろを向けば、自分の全てが壊れてしまいそうだった。

 視線をまっすぐ前に固定し、最後の一歩を踏み出す。


 橋の向こう側。そこには、静まり返った森のような道と、見慣れているはずなのにどこか様子の違う、“わたしの村”が、ぽつりと存在していた。


 名前を心の中で繰り返したその瞬間、背後でふいに、風が止んだ。

 あたりの音が、すべて途絶えた。

 わたしは、橋を――渡ってしまったのだ。


 ここは、本当に、わたしの“故郷”だったのだろうか。

 その問いの答えを知ることを恐れるように、わたしは傾いだ看板に背を向け、村の喉元へ、戻る保証のない場所へと、深く踏み込んでいった。

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