第27話「還らず、祈り芽吹く」
都内某所、ターミナル駅。
朝の喧騒がようやく和らぎ始めた時間帯だというのに、駅構内は絶えず人の波がうねり、流れていた。
スーツ姿で足早に行き交う会社員たち。
スマートフォンの画面に視線を落としたまま歩く学生。そして、軽快な音を立ててキャリーケースを引く旅行者。
コーヒーショップのカウンターからは、バリスタの張りのある声と共に、ミルクが泡立つ小気味よい音が漏れ聞こえてくる。
その日常の風景の中に――明らかに浮いている存在が、ひとり。
わたしだった。
ランニングジャケットにショートパンツ、ごつごつとしたトレイルラン用のシューズ。
膝には物々しいサポーターまで巻いている。
早朝のランニング帰りと言えなくもない格好だが、今のわたしから滲み出る空気は、爽やかな汗とはおよそ無縁のものだろう。
失った何かを取り戻すため、今にも駆け出しそうな、焼き切れるほどに強い焦燥と緊張が、身体の奥から溢れ出している自覚があった。
すれ違う人々が、一瞬だけ眉をひそめる。振り返り、囁き合う声が聞こえた。
「ねえ、あの人……」
「あの格好でどこ行くんだろ」
そんな視線など、もはやどうでもよかった。
聞こえないふりをして、わたしは新幹線の改札へと足を速める。
ただ、早く。一分一秒でも早く、あの村へ辿り着くこと。
それだけが、今のわたしの全てだった。
手配済みのチケットで改札を抜けると、ホームに吹き込む風が、身体に密着した機能性ジャケットの裾をわずかになびかせた。
金曜の午前、空いている窓側の席に深く身を沈めた瞬間、ようやく張り詰めていた糸がほんの少しだけ緩む。
ポーチから水を取り出して一口含むと、冷たい液体が喉を伝い、熱に浮かされたような思考をわずかに鎮めてくれた。
スマートフォンを開く。電源はずっと入れたままだったが、真人からの連絡はない。
その冷たい事実が、また鋭く胸を刺した。
通知欄のサムネイルに、彼がステージの上で輝いていた、あの日の写真が一瞬映る。
消そうとして、指が止まった。
窓の外を、巨大なビル群が滑るように流れていく。
だがこの無機質な景色も、やがて緑深い山へ、穏やかな川へ、そして霧に沈む山間の道へと変わっていくのだ。
わたしが向かうのは、忘れていたはずの場所。
思い出せない記憶が眠る“村”。バッグの中から折り畳んだ地図を取り出すと、その端に記された故郷の名を、わたしは指先で確かめるように、そっと触れた。
『久邑』
その地名を睨みつけるように見つめながら、わたしは唇を固く結んだ。
◇
ローカル線に乗り継いだのは、昼を少し過ぎた頃だった。
一日に数本しか走らない、小さな路線。
ホームには地元の高校生らしき制服姿と、農作業の帰りだろうか、日に焼けた男女がぽつりぽつりと座っている。
その中にあって、わたしはやはり異物だった。
ジャケットの前を閉じ、キャップを目深に被っても、この場に馴染むことのできない空気は隠しようもない。
機能性に徹した装備と、張り詰めた気配が、ただの旅行者ではないことを雄弁に物語っていた。
電車の車輪が鈍く軋みながら動き出す。
わたしはスマートフォンを取り出した。連絡するつもりはなかった。正確に言えば、できなかった。
それでも、どうしても確認しておかなければならないことがあった。
村に住む、父と母のこと。あの場所に“いま”、本当に彼らがいるのかを。
真人を攫ったのが村の手の者だとすれば、両親が無事である保証など、どこにもないのかもしれない。
連絡帳をスクロールする指先が、かすかに震える。
「母」という二文字をタップした。
耳に響くのは、無機質な呼び出し音だけ。ワン、ツー、スリー――。何度目かのコールの後、自動音声が冷たく応えた。
『この電話は現在、出ることができません』
わたしは通話を切った。心臓が、嫌な音を立てる。
もう一度、今度は父の番号を押した。
『現在、電波の届かない場所に――』
思わず、唇を強く噛んだ。
父は山の中で作業をしているのかもしれない。
母は買い物か、あるいは誰かと話し込んでいるだけかもしれない。
偶然。そう、ただの偶然である可能性の方が高い。
けれど、“もしも”という最悪の仮定が、喉元にこびりついて離れなかった。
車窓の向こうで、青く沈んだ山の稜線がゆっくりと動いている。
高く、高く聳える山並みは、まるで村を守るための巨大な壁のようであり、あるいは、村をこの世から隔絶し、閉じ込めるための檻のようにも見えた。
もう誰も、助けには来てくれない。わたしは膝の上に置いた手を、関節が白く浮き出るほど強く握りしめた。
自分で選び、自分で守り、自分で責任を取るのだ。
窓の外に、見覚えのある駅名が流れていく。
あと三つ。そこからさらにバスを乗り継いで、ようやく――久邑へ。
わたしはスマートフォンの画面を伏せ、胸の奥で、静かに決意の炎を燃やした。
◇
バスの窓際に座り、左肘を窓の縁にかける。
流れていく景色を、わたしはぼんやりと目で追っていた。
ローカル線を降り、次の便まで一時間も待たされたバス停には、錆びたベンチと自動販売機、そして誰が書いたのか「熊出没注意」の張り紙があるだけだった。
昔は、こんな何もない場所に何の疑問も抱かずに暮らしていた。
その事実が、今となっては信じられない。
バスは山道に入るたび、エンジンを唸らせてギアを切り替える。
くねるカーブ、道にせり出す斜面、不意に姿を現す谷川。
どこもかしこも、記憶の片隅にうっすらと残っている風景だった。
だが、そこに重なるように浮かぶ“違和感”の正体は、きっと、あの頃のわたしには見えていなかったものなのだろう。
目を閉じると、真人の顔が浮かんだ。笑っていた、あの日の彼が。わたしに未来を語っていた、希望に満ちた彼が。
それが今、どこか暗く湿った場所で、何をされているのかすら分からない。
間に合わないかもしれない。その言葉が、鉛のように重く喉の奥で膨らんでは、かろうじて飲み込まれていく。
それでも、行かなければならない。たとえこの先に、何が待ち受けていようとも。
バスの中には、他に数人の乗客がいるだけだった。
農作業帰りらしい老人たちが、互いに言葉も交わさず、ただ揺れに身を任せている。
その中で、わたしの服装も、鞄も、そして何よりわたし自身が放つ切迫した空気も、全てが浮いていた。
あの子を救い出したい。
ただそれだけの、あまりにも純粋な願いが、なぜこれほど重く、孤独なものなのか。
ふと、前方に分かれ道の標識が見えた。
「久邑 3km」
まるでその標識に呼び寄せられるように、山の緑が急に深くなる。
光さえ届かないような影が落ち、木々の間から射す斜光が、うっすらと立ち込める霧を照らし出していた。
異界へと踏み込むための儀式のように、わたしは、かつての“自分”がいた場所へ、そして“まだ見ぬ闇”の中へと向かっていた。
バスは山道を抜け、谷あいへと降りるように速度を落とす。
あたりの風景が、確実に変わっていた。
それは“時代”ではなく、“空気そのもの”が違っているような感覚だった。
舗装された道路は苔と泥に縁取られ、民家のほとんどはシャッターを下ろしているか、伸び放題の草に埋もれている。
電柱の間隔はやけに広く、頼りなげに電線が垂れていた。
喧騒も、光も、人の気配すらない。
あるのは、音のない緑と、時折響く鳥の声だけ。
そんな風景の中にぽつんと置かれていることに、わたしは急激な不安を覚えた。
本当に、ここに来てよかったのか。
心の内に芽生え始めた問いを、かき消すように目を閉じる。
いいえ、そんなことを言っている場合ではない。
真人がいるかもしれないのだ。この山の奥の、どこかに。
再び目を開けたとき、視界の先に――それはあった。
山の木々がふっと割れ、橋と、苔むした石碑が見える。
《久邑村 ようこそ》
かすれた白いペンキで書かれた看板が、斜めに傾いて吊るされていた。その光景を目にした瞬間、喉がひゅっと鳴り、息を呑む。
足先から頭のてっぺんまで、冷たい液体を浴びせられたように、全身が硬直した。
わたしは、いま、戻ってきたのだ。
バスはゆっくりと停車する。
体が勝手に動き、わたしは立ち上がった。
ドアが開き、ひんやりとした外気が流れ込む。
土の匂い。緑の匂い。
そして、かすかに――血のような、鉄のような、嗅ぎ慣れない匂い。
わたしは、そんな世界へ、いま、自分の足で入っていこうとしている。
真人を、取り戻すために。
橋の袂に、わたしは立ち尽くしていた。
目の前には、村へと続く一本の、長く、異様に静かな橋。
コンクリート製の古い欄干には苔が生え、全長はせいぜい数十メートルのはずなのに、向こう岸が地平線の果てまで続いているように思える。
風が、どこか生ぬるく、湿っていた。橋の下の川は、濁ってはいない。けれど、透き通ってもいない。
まるで底そのものが存在しないかのように、深く、黒く、ただ流れている。
靴の底が、コンクリートを踏む。わずかな音が、やけに大きく響いた。
一歩。そして、もう一歩。
橋を渡り始めたその瞬間から、世界の音が遠のいていく。
風の音すら、もう耳には届かない。
背中に貼りつく汗が、冷たさではなく熱を帯びていた。
鼓動だけが、異常な速さで胸を打つ。それでも、足は止まらない。
真人。その顔だけが、唯一の支えだった。
橋の中央に差しかかり、振り返ってはいけない、と直感が告げる。
もし今ここで後ろを向けば、自分の全てが壊れてしまいそうだった。
視線をまっすぐ前に固定し、最後の一歩を踏み出す。
橋の向こう側。そこには、静まり返った森のような道と、見慣れているはずなのにどこか様子の違う、“わたしの村”が、ぽつりと存在していた。
名前を心の中で繰り返したその瞬間、背後でふいに、風が止んだ。
あたりの音が、すべて途絶えた。
わたしは、橋を――渡ってしまったのだ。
ここは、本当に、わたしの“故郷”だったのだろうか。
その問いの答えを知ることを恐れるように、わたしは傾いだ看板に背を向け、村の喉元へ、戻る保証のない場所へと、深く踏み込んでいった。




