第25話「砕かれた日常」
'――まさか、また'
その考えが脳裏をよぎるたび、心臓が冷たい手で掴まれたかのように軋む。
あの夜、ネットカフェの片隅で怯えていた彼。
わたしの腕の中で、小動物のように震えていた彼の体温が、今も記憶に焼き付いて離れない。
この手で、確かに守ると決めたはずだった。
あの子は、たったひとりでこの大都会へやってきた。
わたしだけが、唯一の味方なのだと、そう自負していたのに。
住宅街を抜け、駅前の通りをひた走る。
登校時間をとうに過ぎた街は人通りもまばらで、その静けさがかえって不気味に感じられた。
やがて視界の先に真人の住むアパートが見えたとき、心臓が大きく跳ねた。
どうか、いてほしい。いや、いなければならない。
そんな祈りに似た思いを胸に、わたしは息を整える暇さえ惜しみ、足を止めずに階段を駆け上がった。
汗でじっとりと湿る指先でドアの前に立ち、チャイムに手を伸ばす。
その一瞬、なにも起きていませんようにと、まるでお呪いのように心の中で唱えた。
そっと、呼び鈴を押す。
返ってきたのは、沈黙だけだった。遠くを走る車のタイヤ音と、乾いた風の音がやけに耳につく。
もう一度、今度は少しだけ強く押した。指先に無意識の力がこもる。
「真人……っ」
思わず、声が漏れた。
ドアの奥からは、やはり何の気配も感じられない。
視界がぐらつき、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
わたしは鞄からスマートフォンを取り出し、震える手で彼の番号を呼び出した。
無機質な呼び出し音が、容赦なく鼓膜を打ち続ける。
出て、お願い。唇がかすかに震えた。
そのあと何度呼び鈴を鳴らしても、その音は静寂の中に吸い込まれて消えていくだけだった。
扉に耳を押し当ててみても、物音ひとつしない。テレビの音も、冷蔵庫の唸る音さえ聞こえない。
まるで、初めから誰も住んでいなかったかのような、がらんとした静けさ。
そんなはずはない。わたしは扉の前にしゃがみ込み、無意識に拳を握りしめた。
警察は、見回りを続けると、あのとき確かにそう言った。
あれは、ただの口約束だったというのだろうか。
彼が震える声で攫われそうになったと告げたあの晩。
わたしが学校を飛び出し、あの子を抱きしめた、あの夜。
警察署で交わした言葉が、脳裏に蘇る。
「しばらく警官が見回りをします」
「念のためパトロールを強化します」
「こちらで状況を把握します」
あれほど安心していいと言われたのに、今ここには誰もいない。アパートの敷地にも、周囲の通りにも、制服の姿は見当たらなかった。
「どうなってるのよ……」
喉の奥で、低い声が絞り出された。
そのときだった。ガチャリ、と乾いた音がして、隣の部屋のドアが不意に開いた。
びくりと肩を跳ねさせると、ドアに貼られた「管理人」の名札が目に入る。
中から現れた小柄な初老の男性が、訝しげな顔でこちらを見ていた。
「何かご用ですか?」
「すみません。この部屋の、真人くんのことで……」
わたしは立ち上がり、できるだけ冷静を装って言葉を続けた。
「今朝から連絡が取れなくて。彼が外に出る様子など、見ませんでしたか?」
管理人は小さく首をかしげた。
「いやあ、昨日の夜……日付が変わる前でしたかな。部屋の前で、何やら話し声が聞こえたような気もしますが……」
「話し声、ですか」
「ええ。はっきりとは聞き取れませんでしたがね。低い男の声がいくつかと、あとは……彼の声だったような、そうでもないような……」
背筋を、氷の針で刺されたような悪寒が走った。
「それで、それからは?」
「そのあとは静かでしたよ。特に通報が入ったわけでもありませんし……ああ、そういえば、昨日はパトロールの警官も見かけませんでしたな。いつもなら、この時間に一度は見かけるものですが」
「――それ、おかしくないですか」
自分の声が震えているのがわかった。
「警察には、見回りを頼んでいたんです。本人も、誘拐されかけたと言っているのに。それでも来ていなかったなんて……」
こみ上げてくる怒りと恐怖で、自分でも何を口走っているのか分からなくなっていた。
「彼は、まだ十六歳なんです。一人で東京に出てきて、親もいなくて……どうして……」
管理人は気まずそうに、わたしの言葉にただ小さく頭を下げた。
「す、すみません。そのような事情があったとは、こちらも何も知らされていなくて……」
「いえ、こちらこそ……少し、取り乱してしまいました」
わたしは頭を下げてその場を離れた。
もうこの部屋に、彼の気配はひとかけらも残っていない。
ドアの前で一度固く目を閉じる。
胸の中に巣くっていた不安は、もはや予感などという生易しいものではなく、冷たい確信へと変わり始めていた。
管理人の気遣わしげな声が、耳を通り抜けていく。
世界の輪郭が不意に滲み、思考が真っ白に染め上げられていくようだった。
これ以上、あの静まり返った扉の前に一秒たりとも立ってはいられない。
身体が、麻痺した心を置き去りにして勝手に動いた。
覚束ない足取りで階段を降り、外気に押し出される。
アパートの前の道を、ただ当てもなくさまよった。
どこへ行けばいいのか、何を手がかりにすればいいのか、皆目見当もつかない。
思考は渦を巻き、あの子の声、手の温もり、震えていた背中、そういった記憶の断片が、今はただひとつの「喪失感」という名の感情に塗り替えられていく。
こんなことになるなら、もっと早く――。
言葉にならない後悔が、喉の奥を焼いた。
そのときだった。視界の端を、黒と白のツートンカラーが滑り込んできた。
角を曲がったパトロールカーが、ゆっくりとこちらへ進んでくる。
わたしは反射的に走り出していた。
「すみませんっ」
大きく手を振りながら、車道にまで足を踏み出す。
車がキュッと短い音を立てて止まり、運転席から制服の警官が顔を出した。
「どうしましたか。危ないですよ」
「ふざけないで!」
怒鳴った自分の声に、自分でも驚いた。
「先日、そちらに相談したはずです。誘拐未遂の件で、真人という少年のことを覚えていますよね。パトロールを強化すると、見回りをすると、そう言いましたよね」
警官は一瞬、たじろいだように目を瞬かせた。
「真人……ああ、先週の……」
「先週じゃありません。昨日の夜も、今日の朝もです。彼は今、また姿を消したんです。部屋にはいないし、連絡もつかない。パトロールを強化すると言ったのに、誰も見ていなかったじゃありませんか」
堰を切ったように、怒りと焦りが言葉になって噴き出した。
警官は助手席の若い巡査と顔を見合わせ、曖昧な表情で答える。
「申し訳ありません。確かにそのように引き継がれていたはずですが、昨夜は別のエリアに重点を……」
「別のエリアですって? そんなものが、理由になるはずがないでしょう」
拳がわなわなと震えた。ここにいる誰のせいでもないと分かっていても、どこにもぶつけようのない怒りが、ようやく見つけた出口から溢れ出していく。
「十六歳の子なんです。家族もいない、逃げ場もない。なのに、重点を外した、なんて。そんなことで誰かが消えるかもしれないと、想像もできないんですか」
警官たちはようやく事態の深刻さに気づいたのか、車から降りてきて、真剣な面持ちでメモを取り始めた。
「お名前を教えてください。もう一度、詳細を……」
「神原です。神原恵美。あの子の担任です」
涙がじわりと滲んだ。
「彼がいなくなったのは、ただの事件じゃない。きっと……彼が育った『村』と関係がある。あの子はそれを感じていたし、わたしも、そう感じています」
警官はメモを取りながら、すぐに無線でどこかへ連絡を取り始めた。
その背中を見送りながら、わたしはほんの少しだけ息を吐いた。けれど、心のどこかで疼く不安は消えない。もう、間に合わないのではないか。そんな予感が、ずっと胸に突き刺さっていた。
わたしは、その背中を見つめていた。無線で情報をやり取りし、手元のメモに何かを書きつけている。
その一挙手一投足は、本来なら安堵すべきものなのだろう。
だが、今のわたしには、あまりに冷静で、事務的でさえあるように映った。
彼らにとってこれは数多ある「案件」の一つに過ぎないのかもしれない。
けれど、わたしにとっては、真人の命そのものが懸かっているのだ。
その埋めようもない温度差が、絶望的なまでに心を打ちのめした。
そんな、ぬるい速度では追いつけない。
わたしは踵を返し、再び真人のアパートへ向かって走っていた。もつれる足で風を切り、髪が顔に張り付くのも構わなかった。
アパートの管理人が住む部屋の前に立つと、息も整えぬまま、勢いよく扉を叩いた。
「すみませんっ」
中から、先ほどの管理人が驚いた顔で現れる。その気まずそうな表情を意にも介さず、わたしは一歩踏み込んだ。
「お願いです。真人くんの部屋の鍵を、スペアキーを貸してください」
「え……? いや、しかし、それは……」
管理人が一歩後ずさる。部外者に鍵を渡すなど、規則違反に決まっている。当然の反応だった。
「彼が、いなくなったんです。誘拐されかけて、それで今朝、またいない。警察にも伝えましたが、あの子のことを本気で探してくれる人なんて、いないかもしれない」
声が震えた。
「わたしが、探さなきゃいけないんです。あの子の担任ですが……それだけじゃない。わたしにとって、大切な子なんです」
管理人の表情がわずかに揺らいだが、それでも口は固く結ばれたままだ。
この人を動かせなければ、もう何も掴めない。
「あの子は、誰にも頼れないままこの街へ出てきたんです。たった十六歳で。夢を叶えるために、不安と隣り合わせで生きている。それを、誰かが利用しようとしているのかもしれない」
視界が滲む。それでも、わたしは彼の目から視線を逸らさなかった。
「お願いです。ほんの数分でいい。何か手がかりがあるかもしれない。もし問題になるなら、どんな処分でも受けます。でも、今、彼がどこかで泣いていたら、怯えていたら、助けを待っていたら……」
わたしは、管理人の前で深く、深く頭を下げた。
「お願いします。鍵を、貸してください」
しばしの沈黙の後、やがて管理人が無言で引き出しの鍵を開ける、小さな金属音が響いた。
「……時間は、あまり取れませんよ。住民に見られたら、私も何を言われるか分かりませんから」
その言葉に、わたしは顔を上げた。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
スペアキーを手に、わたしは再びあの部屋の前に立った。
カチャリ、と小さな音を立てて扉が開く。
室内は、昨日まで真人がここで暮らしていたことを証明するかのように、わずかに生活の匂いが残っていた。
部屋は、不気味なほど整っていた。
荒らされた様子も、明らかな異変もない。
そんなはずはない。
この静けさこそが、異常の証だった。
ふと、玄関の脇にある靴箱が目に入った。
いつか二人で荷物を整理したとき、結局捨てられなかったツーショットの写真を飾っていた、あの写真立て。
そのガラスが、割れていた。
近づいてしゃがみ込む。フレームが傾ぎ、薄いガラスに斜めにひびが入っている。指でそっと触れると、写真の中の、公園で肩を寄せ合うわたしたちの笑顔が歪んで見えた。
落ちただけ? そんな偶然が、よりによって、このタイミングで起こるものだろうか。
喉の奥が焼けるように痛い。
怒りか、悔しさか、それら全てが混ざり合った感情で、息がうまくできなかった。
「なんでよ……どうして、こんな……」
声が漏れた。わたしは拳を固く握りしめる。
「守るって……言ったのに」
額を膝に押し付けると、ぽたり、と涙が床に落ちた。
教師として、一人の人間として、彼を大切にしたかった。
それでも、守りきれなかった。
このどうしようもない気持ちを、何ひとつ言葉にできないまま、ただ割れた写真立てだけが、静かに全ての終わりを物語っていた。
真人、ごめん。
もう取り返せるかもしれないという希望の地点は、とっくに通り過ぎてしまっていたのかもしれない。
その絶望が、背骨を折るような重さでのしかかってくる。
わたしはひとり、床に膝をついたまま、もう声も出せずにいた。




