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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 五章 還らず、祈り芽吹く
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第24話「胸騒ぎ」

 梅雨入りが遅れているらしく、朝の空はどこかもやがかかったような淡い色をしていた。

 職員室の窓から差し込む光も、湿気を含んで肌にねっとりとまとわりつく。

 いつも通りの日常。


 そのはずだった。


 教室のドアを開け、教壇の前に立ち、出席簿を開く。

 そのページの手触りが、今朝はやけに重く感じられた。

 ひとり、またひとりと名前を読み上げていく。


 手元の名簿が、その名に近づいていくたびに、喉の奥がきゅっと締まる。


「……真人くん」


 呼んだ瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

 しん、と静まり返る教室。

 生徒たちが一斉に、気まずそうに顔を見合わせている。


 彼の席は、ぽっかりと空いたままだった。


 わたしの視線は無意識のうちにスマートフォンへと滑ったが、通知はない。

 生徒たちの「休みですか?」「体調悪いのかな?」という囁き声が、波のように押し寄せてくる。


「……わからない」


 かろうじてそう口にしたけれど、唇はもう乾ききっていた。

 足元がふわりと浮いたような感覚。

 息が詰まる。


 どうしよう。何かが、本当に「起きて」しまった。

 昨日までの会話を何度思い出しても、違和感なんてなかった。

 だからこそ、怖かった。


 わたしが見落としていた「兆し」が、どこかにあったのではないかという恐怖。


「……すみません、少しだけ職員室に行ってきます」


 出席簿を閉じると同時に、わたしは立ち上がった。

 それ以上、教室にいるのが耐えられなかったからだ。


 背中越しに「先生?」「どうしたの?」という生徒たちの声が聞こえたけれど、わたしは振り返らなかった。

 答えるべき言葉を、何ひとつ持っていなかった。


 廊下に出た瞬間、わたしは走り出していた。

 この胸騒ぎが、ただの杞憂であってほしいと願いながら、その予感を振り切るように。


 呼吸が浅い。脚が重い。

 けれど、止まるわけにはいかなかった。


「――先生!」


 その声が、背中を撃ち抜いた。

 振り返ると、そこには沙都がいた。制服の襟元を押さえ、肩で息をしながら。

 けれど、その表情にいつもの棘はなく、驚くほどまっすぐに、わたしを見つめていた。


「……やっぱり、何かあったんですね」


 その言葉に、わたしは眉を寄せる。


「教室での先生の様子、あんなの、初めてでした。真人くんが欠席した瞬間に、顔が真っ青になって、出ていくなんて……。心配にならないほうが無理です」


 彼女の声は静かだった。

 けれど、芯があった。嫉妬とか、敵意とか、そんなものではない。


 沙都はただ、真人のことを――本当に、大事に思っているのだ。

 その想いが、わたしには痛いほど伝わった。


 でも、すべてを話すことはできない。


「……ごめんなさい。理由は言えない。でも――あなたに、お願いがあるの」

「……お願い?」


「わたしが今から、どうしても行かなきゃいけない場所があるの。だから――代わりに教室を、お願いできない?」


「……先生の代わりに、ってこと?」


「うん。あなたなら、できると思ったから。みんなを落ち着かせてくれるって」


 沈黙。一瞬、沙都の表情が揺れた。

 けれど、すぐに口を結んで、うなずく。


「……わかりました。行ってきてください、先生」


 その目には、もう挑戦的な光はなかった。

 ただ、静かに、真人の安否を気にかける少女のまなざしだけがあった。


「ありがとう」


 そう言うと、わたしは校舎の階段を駆け下り、外に飛び出した。

 空はどこか色を失い、厚い雲が太陽の輪郭をぼやかしている。湿った風が肌を撫でた。


 お願い、無事でいて。

 心のなかで何度もそう唱えながら、わたしは走り出した。


 ただ胸騒ぎだけが、全身の神経を尖らせていた。

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