第24話「胸騒ぎ」
梅雨入りが遅れているらしく、朝の空はどこかもやがかかったような淡い色をしていた。
職員室の窓から差し込む光も、湿気を含んで肌にねっとりとまとわりつく。
いつも通りの日常。
そのはずだった。
教室のドアを開け、教壇の前に立ち、出席簿を開く。
そのページの手触りが、今朝はやけに重く感じられた。
ひとり、またひとりと名前を読み上げていく。
手元の名簿が、その名に近づいていくたびに、喉の奥がきゅっと締まる。
「……真人くん」
呼んだ瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
しん、と静まり返る教室。
生徒たちが一斉に、気まずそうに顔を見合わせている。
彼の席は、ぽっかりと空いたままだった。
わたしの視線は無意識のうちにスマートフォンへと滑ったが、通知はない。
生徒たちの「休みですか?」「体調悪いのかな?」という囁き声が、波のように押し寄せてくる。
「……わからない」
かろうじてそう口にしたけれど、唇はもう乾ききっていた。
足元がふわりと浮いたような感覚。
息が詰まる。
どうしよう。何かが、本当に「起きて」しまった。
昨日までの会話を何度思い出しても、違和感なんてなかった。
だからこそ、怖かった。
わたしが見落としていた「兆し」が、どこかにあったのではないかという恐怖。
「……すみません、少しだけ職員室に行ってきます」
出席簿を閉じると同時に、わたしは立ち上がった。
それ以上、教室にいるのが耐えられなかったからだ。
背中越しに「先生?」「どうしたの?」という生徒たちの声が聞こえたけれど、わたしは振り返らなかった。
答えるべき言葉を、何ひとつ持っていなかった。
廊下に出た瞬間、わたしは走り出していた。
この胸騒ぎが、ただの杞憂であってほしいと願いながら、その予感を振り切るように。
呼吸が浅い。脚が重い。
けれど、止まるわけにはいかなかった。
「――先生!」
その声が、背中を撃ち抜いた。
振り返ると、そこには沙都がいた。制服の襟元を押さえ、肩で息をしながら。
けれど、その表情にいつもの棘はなく、驚くほどまっすぐに、わたしを見つめていた。
「……やっぱり、何かあったんですね」
その言葉に、わたしは眉を寄せる。
「教室での先生の様子、あんなの、初めてでした。真人くんが欠席した瞬間に、顔が真っ青になって、出ていくなんて……。心配にならないほうが無理です」
彼女の声は静かだった。
けれど、芯があった。嫉妬とか、敵意とか、そんなものではない。
沙都はただ、真人のことを――本当に、大事に思っているのだ。
その想いが、わたしには痛いほど伝わった。
でも、すべてを話すことはできない。
「……ごめんなさい。理由は言えない。でも――あなたに、お願いがあるの」
「……お願い?」
「わたしが今から、どうしても行かなきゃいけない場所があるの。だから――代わりに教室を、お願いできない?」
「……先生の代わりに、ってこと?」
「うん。あなたなら、できると思ったから。みんなを落ち着かせてくれるって」
沈黙。一瞬、沙都の表情が揺れた。
けれど、すぐに口を結んで、うなずく。
「……わかりました。行ってきてください、先生」
その目には、もう挑戦的な光はなかった。
ただ、静かに、真人の安否を気にかける少女のまなざしだけがあった。
「ありがとう」
そう言うと、わたしは校舎の階段を駆け下り、外に飛び出した。
空はどこか色を失い、厚い雲が太陽の輪郭をぼやかしている。湿った風が肌を撫でた。
お願い、無事でいて。
心のなかで何度もそう唱えながら、わたしは走り出した。
ただ胸騒ぎだけが、全身の神経を尖らせていた。




