第23話「電話越しの約束」
布団に身体を沈めても、眠気はやってこなかった。
隣に彼の温もりがない。その事実だけが、部屋の空気をひどく冷たくさせていた。
そのとき、枕元のスマートフォンが静かに震える。
画面に表示されたのは――真人の名前。
わたしは、胸が跳ねるのを抑えながら、そっと通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし。どうだった?無事に帰れた?」
《うん。大丈夫だったよ》
電話の向こう、真人の声はかすかに熱を帯びていた。興奮でもなく、安心でもなく――どこか、名残惜しさのような。
《ちゃんとパトロールの人が一緒に来てくれて。部屋の中も異常なし。荷物もそのままだった》
「……よかった」
思わず胸を撫で下ろす。
彼の無事を確かめるたびに、わたしのなかの何かが、そっと戻ってきてくれる気がした。
《先生……》
不意に、電話口から彼の声が柔らかく沈んだ。
《あの……今日、警察行く前に、実家と連絡とったんです。誘拐されかけたことも、今まで誰にも言えなかったことも――ぜんぶ話しました》
「……そっか」
《そしたら、“帰ってこい”って。“こっちは安全やから”って、何度も何度も》
彼の口調が、少し遠くを見つめるように変わる。
わたしの指先がかすかに震えた。言葉が心の奥に降りてくるたびに、かつての記憶の奥に眠る“何か”が、ざわめく。
《でもね……俺、帰る気はないんです。こっちで夢があるし……何より、先生に会えたから》
その言い方がどこか子どもっぽくて、だけど、まっすぐだった。
「……偶然。たまたま、そうなっただけ」
《うん、たまたま……でも、それでも。俺にとっては、大きな意味だった。こんな都会で、同じ空気の匂いがする人に会えるなんて思わなかった。それが先生で、よかった》
口元が、つい緩む。でもそれは、寂しさを覆い隠すための苦笑だった。
電話の向こう、わずかにベッドがきしむ音。カーテンが風に揺れる音。隣にいるはずのない彼の生活音が、なぜかこんなにも胸を締めつけた。
「……真人」
《なに?》
「……ありがとう。でも、わたしは先生だから」
しばらく、沈黙があった。
何かを飲み込むような気配。
言いたい言葉が喉元まできて、それでも口を閉じる静けさ。
《……そっか。わかってます》
真人の声が、少しだけ低くなった。
《でも、先生がいてくれた時間は、ほんとに宝物でした》
「“でした”って言わないでも。まだ、消えたわけじゃないでしょ」
言いながら、自分が何を守りたくて何を遠ざけているのか、わたしにはもう、わからなくなっていた。
《ちょっと……いいですか?》
「なに?」
《俺……アイドルになるって話、しましたよね?》
「うん。してた。……進路相談のときにも」
《あれ、本気なんです。本当に、なりたいんです》
その声に、曇りはなかった。
「……なんで、なりたいの?」
《んー……たぶん、誰かに見てほしかったからかもしれない。俺って昔から……地味で。目立つタイプでもなかったし、うるさいのも苦手で》
彼の声が、少しだけ笑う。
《でも、小さいころにたまたま見たステージがあって。テレビでやってたライブ。すごかった。ひとりの人が、何千人を“幸せにしてる”みたいで》
《それが……羨ましくて、憧れた》
わたしは、スマホを持つ手に、そっと力を込める。
彼の声の中の眩しさが、胸に刺さるようだった。
《俺も、あんなふうになりたいって思ったんです。誰かの記憶に、ずっと残るような人に》
「真人は、きっとなれるよ」
《……本気で、言ってます?》
「本気」
スマホの向こうで、何かを考えているような間。
《……ファンクラブとか、できたら入ってくれますか?》
「え?」
《いや、笑わないでくださいよ。俺、ちゃんと“推し活”される側になれるかなって、ちょっと考えてて》
「それは……どうしよっかなあ」
わたしは、からかうような口調を装いながらも、その問いがどこかくすぐったくて、頬がゆるんでいた。
《えー、冷たい。せっかくの第一号候補だったのに》
スマホ越しの笑い声が、わたしの部屋の静けさをやさしく揺らす。
「うそ、入るよ。一番最初に」
《やったね》
喜んでいる彼の声には、年相応の子供っぽさがあって微笑ましかった。
《俺ね――》
スマホ越しの真人の声が、一拍おいて、静かに語り出す。
《初めてライブを観たの、中学生のときだったんです。村の外に出たくて、知り合いの人の車に乗って。東京じゃないけど、県外のホールでやってた、小さいライブ》
《知ってます?席って、一番うしろだと、ステージちっちゃくて豆粒みたいなんですよ》
笑い混じりの声。でも、その記憶のひとつひとつを、彼は本当に大事にしてるのが伝わってきた。
《でもね、豆粒みたいなのに、すごかった。その人、最初の一曲で俺、涙出てたんです。意味もなく》
わたしはスマホを耳に当てながら、息を止めるようにして聞いていた。鼓膜を揺らすその声の向こうに、見たことのないステージが浮かぶ。
《なんかこう……“ああ、この人がいてくれてよかった”って思ったんです。それだけで、生きてるの、ちょっとだけ肯定された感じがして》
《だから、俺も……そうなりたい。誰かにとって、“この人がいるから、もう少し頑張ってみようかな”って、そう思ってもらえる存在になりたい》
わたしの胸に、ぎゅうっと何かが押し込まれる。
息を吸うのも忘れそうだった。
彼の夢が、ただの夢じゃないことが、痛いほどに伝わってくる。
《ファンの前で歌うときって、たぶん、自分ひとりで歌ってるわけじゃないんですよね。声も、表情も、ぜんぶ、届いてるかどうかなんてわからないけど――それでも誰かの“明日”に繋がるんだって信じて、やる》
《そんなふうに……なりたい。生きることに、理由を探してる人の、ちょっとした光になりたいんです》
わたしは唇をきゅっと噛んだ。
そんなこと、彼の歳で言えるなんて。たった十六歳の男の子が、こんなにもまっすぐに、誰かの生に責任を持とうとしてる。
なのに、わたしは――そんな彼を、現実の重みに引きずり込もうとしてた。
《……ごめん、なんか、熱く語っちゃった》
「……ううん、いいよ」
言葉が震えそうになるのをごまかすように、わたしはスマホをぎゅっと握りしめた。
「……真人の声、届いてるよ。ちゃんと」
《え?》
「うちに。……届いてる。すごく、強く」
その瞬間、スマホ越しの空気が、ふっとやわらいだ。
《……よかった》
わたしは黙って天井を見上げた。
あのとき、文化祭で踊っていた姿。同じ教室のなかで、静かに光っていた笑顔。
ぜんぶが、今ようやく“ひとつの夢”に繋がった気がした。
だからこそ、わたしはこの子を、絶対に壊しちゃいけないと、心の底で、強く、強く思った。
《……先生、まだ起きてます?》
「起きてるよ。……真人こそ、明日学校だよ」
《先生、もう一回聞いてもいいですか?》
「……ん」
《……俺がさ、ちゃんと高校卒業して……大人になったら、また、向き合ってもらえることって、あるんですかね》
あまりにもまっすぐで、あまりにも無垢な問いかけ。
「……その時、真人がまだうちのこと、好きだったらね」
そう返すのが、精一杯だった。
《じゃあ、覚えておいて。俺のこと、ちゃんと》
「……なにそれ、どっかのドラマみたいなセリフ」
わざと茶化した口ぶりにしたのは、そうでもしないと心が持たなかったから。
「さっきも言ったけど、真人くらいの歳なら彼女すぐできるよ。きっと学校でファンもたくさんいるでしょ?」
《え、それ……褒めてます? なんか、すっごい雑に褒められてる気がする》
「うちのことは一旦、忘れて」
一瞬の沈黙。
その先に、真人の声が少しだけ小さくなった。
《……それ、聞きたくなかったな》
そのトーンの落差に、胸がきしむ。
正しい言葉が、誰かの心を傷つけることもあると、わたしはよく知っていた。
「……もう寝よ。明日、遅刻するよ」
《……はい》
しばらくして、真人が言った。
《先生、俺ほんとに、ちゃんと大人になりますから》
その言葉を、わたしは肯定も否定もせず、ただ目を閉じて、静かに受け止めた。
「……おやすみ、真人」
《おやすみなさい》
通話が切れたあと、わたしはスマホを伏せたまま、動けなくなった。
◇
ひとけのない暗がりのなか、白く細い指が、わたしの袖を引いた。
誰?と問おうとした瞬間、声ではなく“水音”のような気配が胸の奥を打った。
まぶたの裏に、茜色の空が広がる。
それは現実の夕暮れではなく、どこか――血のにじんだ光を孕んでいた。
気づくと、わたしは“あの場所”に立っていた。
しん、とした森の奥。夏の終わりの、土の匂い。
風が止まり、虫の音もどこか遠く、ただ、木々のざわめきだけが生き物のように耳を撫でていく。
周囲には誰もいない。
けれど、わたしの小さな手には、朱に染まった“布”が握られていた。
(……何これ?)
夢の中でさえ、声は出なかった。
でも指先は覚えていた。
この布を――誰かに渡したことがある、と。
遠くで、太鼓の音が鳴った。
「どん」ではなく、「ど、どん……」と不規則な、まるで鼓動のような音だった。
空気が震える。
風の通らない山の中、その音だけが“生きて”いた。
やがて、ゆらゆらと――提灯の灯りが現れる。
それは列になって、山の小道を進んでいた。
赤子を背負う母、顔を隠した巫女、頭巾を被った男たち。
みな、口を閉ざし、足音さえ消していた。
その中心に、“あの子”がいた。
顔は見えない。
けれど、彼の輪郭だけは、はっきりとわかる。
白衣を着せられ、細い足でしずしずと歩いていた。
その背中に、わたしの心が引き寄せられていく。
(だめ。行かないで)
そう叫んだはずなのに、声は届かなかった。
提灯の灯が、山の祠へ吸い込まれていく。
音も、匂いも、記憶も――
その背中とともに、すべて闇のなかへ沈んでいくようだった。
わたしは走った。
小さな足で、何かを止めようとしていた。
でも足元の土が崩れ、視界が大きく傾く。
そのとき、誰かがわたしの手を強く引いた。
――目が覚めた。
冷たい汗が背中に流れていた。
夜明け前の部屋。外はまだ青く沈み、カーテンの隙間から光は射していなかった。
息が荒い。喉が、渇いていた。
(……あなたは、誰なの?)
わたしは、ゆっくりと起き上がる。
枕元には水の入ったグラス。手を伸ばして飲み干しながら、心の奥でずっと“あの子”の背中を追いかけていた。




