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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 五章 還らず、祈り芽吹く
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第23話「電話越しの約束」

 布団に身体を沈めても、眠気はやってこなかった。

 隣に彼の温もりがない。その事実だけが、部屋の空気をひどく冷たくさせていた。


 そのとき、枕元のスマートフォンが静かに震える。

 画面に表示されたのは――真人の名前。

 わたしは、胸が跳ねるのを抑えながら、そっと通話ボタンをスライドさせた。


「……もしもし。どうだった?無事に帰れた?」


《うん。大丈夫だったよ》


 電話の向こう、真人の声はかすかに熱を帯びていた。興奮でもなく、安心でもなく――どこか、名残惜しさのような。


《ちゃんとパトロールの人が一緒に来てくれて。部屋の中も異常なし。荷物もそのままだった》

「……よかった」


 思わず胸を撫で下ろす。

 彼の無事を確かめるたびに、わたしのなかの何かが、そっと戻ってきてくれる気がした。


《先生……》


 不意に、電話口から彼の声が柔らかく沈んだ。


《あの……今日、警察行く前に、実家と連絡とったんです。誘拐されかけたことも、今まで誰にも言えなかったことも――ぜんぶ話しました》

「……そっか」


《そしたら、“帰ってこい”って。“こっちは安全やから”って、何度も何度も》


 彼の口調が、少し遠くを見つめるように変わる。

 わたしの指先がかすかに震えた。言葉が心の奥に降りてくるたびに、かつての記憶の奥に眠る“何か”が、ざわめく。


《でもね……俺、帰る気はないんです。こっちで夢があるし……何より、先生に会えたから》


 その言い方がどこか子どもっぽくて、だけど、まっすぐだった。


「……偶然。たまたま、そうなっただけ」

《うん、たまたま……でも、それでも。俺にとっては、大きな意味だった。こんな都会で、同じ空気の匂いがする人に会えるなんて思わなかった。それが先生で、よかった》


 口元が、つい緩む。でもそれは、寂しさを覆い隠すための苦笑だった。

 電話の向こう、わずかにベッドがきしむ音。カーテンが風に揺れる音。隣にいるはずのない彼の生活音が、なぜかこんなにも胸を締めつけた。


「……真人」

《なに?》

「……ありがとう。でも、わたしは先生だから」


 しばらく、沈黙があった。

 何かを飲み込むような気配。

 言いたい言葉が喉元まできて、それでも口を閉じる静けさ。


《……そっか。わかってます》


 真人の声が、少しだけ低くなった。


《でも、先生がいてくれた時間は、ほんとに宝物でした》


「“でした”って言わないでも。まだ、消えたわけじゃないでしょ」


 言いながら、自分が何を守りたくて何を遠ざけているのか、わたしにはもう、わからなくなっていた。


《ちょっと……いいですか?》

「なに?」


《俺……アイドルになるって話、しましたよね?》

「うん。してた。……進路相談のときにも」


《あれ、本気なんです。本当に、なりたいんです》


 その声に、曇りはなかった。


「……なんで、なりたいの?」


《んー……たぶん、誰かに見てほしかったからかもしれない。俺って昔から……地味で。目立つタイプでもなかったし、うるさいのも苦手で》


 彼の声が、少しだけ笑う。


《でも、小さいころにたまたま見たステージがあって。テレビでやってたライブ。すごかった。ひとりの人が、何千人を“幸せにしてる”みたいで》


《それが……羨ましくて、憧れた》


 わたしは、スマホを持つ手に、そっと力を込める。

 彼の声の中の眩しさが、胸に刺さるようだった。


《俺も、あんなふうになりたいって思ったんです。誰かの記憶に、ずっと残るような人に》


「真人は、きっとなれるよ」

《……本気で、言ってます?》


「本気」


 スマホの向こうで、何かを考えているような間。


《……ファンクラブとか、できたら入ってくれますか?》

「え?」


《いや、笑わないでくださいよ。俺、ちゃんと“推し活”される側になれるかなって、ちょっと考えてて》

「それは……どうしよっかなあ」


 わたしは、からかうような口調を装いながらも、その問いがどこかくすぐったくて、頬がゆるんでいた。


《えー、冷たい。せっかくの第一号候補だったのに》


 スマホ越しの笑い声が、わたしの部屋の静けさをやさしく揺らす。


「うそ、入るよ。一番最初に」

《やったね》


 喜んでいる彼の声には、年相応の子供っぽさがあって微笑ましかった。


《俺ね――》


 スマホ越しの真人の声が、一拍おいて、静かに語り出す。


《初めてライブを観たの、中学生のときだったんです。村の外に出たくて、知り合いの人の車に乗って。東京じゃないけど、県外のホールでやってた、小さいライブ》


《知ってます?席って、一番うしろだと、ステージちっちゃくて豆粒みたいなんですよ》


 笑い混じりの声。でも、その記憶のひとつひとつを、彼は本当に大事にしてるのが伝わってきた。


《でもね、豆粒みたいなのに、すごかった。その人、最初の一曲で俺、涙出てたんです。意味もなく》


 わたしはスマホを耳に当てながら、息を止めるようにして聞いていた。鼓膜を揺らすその声の向こうに、見たことのないステージが浮かぶ。


《なんかこう……“ああ、この人がいてくれてよかった”って思ったんです。それだけで、生きてるの、ちょっとだけ肯定された感じがして》


《だから、俺も……そうなりたい。誰かにとって、“この人がいるから、もう少し頑張ってみようかな”って、そう思ってもらえる存在になりたい》


 わたしの胸に、ぎゅうっと何かが押し込まれる。

 息を吸うのも忘れそうだった。

 彼の夢が、ただの夢じゃないことが、痛いほどに伝わってくる。


《ファンの前で歌うときって、たぶん、自分ひとりで歌ってるわけじゃないんですよね。声も、表情も、ぜんぶ、届いてるかどうかなんてわからないけど――それでも誰かの“明日”に繋がるんだって信じて、やる》


《そんなふうに……なりたい。生きることに、理由を探してる人の、ちょっとした光になりたいんです》


 わたしは唇をきゅっと噛んだ。

 そんなこと、彼の歳で言えるなんて。たった十六歳の男の子が、こんなにもまっすぐに、誰かの生に責任を持とうとしてる。


 なのに、わたしは――そんな彼を、現実の重みに引きずり込もうとしてた。


《……ごめん、なんか、熱く語っちゃった》

「……ううん、いいよ」


 言葉が震えそうになるのをごまかすように、わたしはスマホをぎゅっと握りしめた。


「……真人の声、届いてるよ。ちゃんと」

《え?》


「うちに。……届いてる。すごく、強く」


 その瞬間、スマホ越しの空気が、ふっとやわらいだ。


《……よかった》


 わたしは黙って天井を見上げた。


 あのとき、文化祭で踊っていた姿。同じ教室のなかで、静かに光っていた笑顔。

 ぜんぶが、今ようやく“ひとつの夢”に繋がった気がした。

 だからこそ、わたしはこの子を、絶対に壊しちゃいけないと、心の底で、強く、強く思った。


《……先生、まだ起きてます?》


「起きてるよ。……真人こそ、明日学校だよ」


《先生、もう一回聞いてもいいですか?》

「……ん」


《……俺がさ、ちゃんと高校卒業して……大人になったら、また、向き合ってもらえることって、あるんですかね》


 あまりにもまっすぐで、あまりにも無垢な問いかけ。


「……その時、真人がまだうちのこと、好きだったらね」


 そう返すのが、精一杯だった。


《じゃあ、覚えておいて。俺のこと、ちゃんと》

「……なにそれ、どっかのドラマみたいなセリフ」


 わざと茶化した口ぶりにしたのは、そうでもしないと心が持たなかったから。


「さっきも言ったけど、真人くらいの歳なら彼女すぐできるよ。きっと学校でファンもたくさんいるでしょ?」

《え、それ……褒めてます? なんか、すっごい雑に褒められてる気がする》


「うちのことは一旦、忘れて」


 一瞬の沈黙。

 その先に、真人の声が少しだけ小さくなった。


《……それ、聞きたくなかったな》


 そのトーンの落差に、胸がきしむ。

 正しい言葉が、誰かの心を傷つけることもあると、わたしはよく知っていた。


「……もう寝よ。明日、遅刻するよ」

《……はい》


 しばらくして、真人が言った。


《先生、俺ほんとに、ちゃんと大人になりますから》


 その言葉を、わたしは肯定も否定もせず、ただ目を閉じて、静かに受け止めた。


「……おやすみ、真人」

《おやすみなさい》


 通話が切れたあと、わたしはスマホを伏せたまま、動けなくなった。


 ◇


 ひとけのない暗がりのなか、白く細い指が、わたしの袖を引いた。

 誰?と問おうとした瞬間、声ではなく“水音”のような気配が胸の奥を打った。

 まぶたの裏に、茜色の空が広がる。


 それは現実の夕暮れではなく、どこか――血のにじんだ光を孕んでいた。

 気づくと、わたしは“あの場所”に立っていた。

 しん、とした森の奥。夏の終わりの、土の匂い。


 風が止まり、虫の音もどこか遠く、ただ、木々のざわめきだけが生き物のように耳を撫でていく。

 周囲には誰もいない。

 けれど、わたしの小さな手には、朱に染まった“布”が握られていた。


(……何これ?)


 夢の中でさえ、声は出なかった。

 でも指先は覚えていた。


 この布を――誰かに渡したことがある、と。

 遠くで、太鼓の音が鳴った。

「どん」ではなく、「ど、どん……」と不規則な、まるで鼓動のような音だった。


 空気が震える。

 風の通らない山の中、その音だけが“生きて”いた。

 やがて、ゆらゆらと――提灯の灯りが現れる。


 それは列になって、山の小道を進んでいた。

 赤子を背負う母、顔を隠した巫女、頭巾を被った男たち。


 みな、口を閉ざし、足音さえ消していた。

 その中心に、“あの子”がいた。

 顔は見えない。


 けれど、彼の輪郭だけは、はっきりとわかる。

 白衣を着せられ、細い足でしずしずと歩いていた。

 その背中に、わたしの心が引き寄せられていく。


(だめ。行かないで)


 そう叫んだはずなのに、声は届かなかった。


 提灯の灯が、山の祠へ吸い込まれていく。

 音も、匂いも、記憶も――

 その背中とともに、すべて闇のなかへ沈んでいくようだった。


 わたしは走った。

 小さな足で、何かを止めようとしていた。

 でも足元の土が崩れ、視界が大きく傾く。


 そのとき、誰かがわたしの手を強く引いた。


 ――目が覚めた。


 冷たい汗が背中に流れていた。

 夜明け前の部屋。外はまだ青く沈み、カーテンの隙間から光は射していなかった。

 息が荒い。喉が、渇いていた。


(……あなたは、誰なの?)


 わたしは、ゆっくりと起き上がる。

 枕元には水の入ったグラス。手を伸ばして飲み干しながら、心の奥でずっと“あの子”の背中を追いかけていた。

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