第22話「届かない声、遠ざかる背中」
午後の授業が終わり、職員室の窓のブラインドには、西日が斜めに差し込んでいた。
ざわついていた校内の音も今は落ち着き、その静けさがかえって耳に痛い。
わたしは自分の席に腰を下ろすと、机の上に置かれたまま冷え切ったコーヒーを、意味もなくひと口だけ飲んだ。苦味だけが、舌の上に残った。
何てことをしてしまったのだろう。
わたしは今日、教壇の上で、生徒ひとりに私情をぶつけてしまった。
真人の、淡々とした声――「先生、沙都さんがかわいそうですよ」
その言葉が、心に鋭く突き刺さって抜けない。
教師は生徒の上に立つ立場。
でも、大人がすべて正しいとは限らない。
わたしはそれを、今日はっきりと知らされた気がした。
そのとき、職員室の扉が控えめにノックされた。
「先生……」
振り向くと、そこには真人が立っていた。制服の襟元を少しだけ直しながら、いつもと同じ、静かな顔をしていた。
「そろそろ、行きましょうか」
その一言で、わたしの中のぐらついた感情が、少しだけ引き締まる。
わたしは残っていた冷たいコーヒーを飲み干し、音を立てずに席を立った。
真人と並んで歩く職員室の廊下は、いつもよりずっと長く感じられた。
放課後の喧騒、窓から差し込む西日、そのすべてが、まるで遠い世界の出来事のようだ。
わたしたちは言葉を交わすことなく校門を抜け、駅へと向かう。
警察署までの道のりは、夕暮れが街を静かに染めていた。傾いた西陽がマンションの外壁を金色に照らし、わたしと真人の影が、アスファルトの上に長く伸びていく。
「……先生」
ふと、真人が口を開いた。
「あれからちょっとだけ、調べてみたんだけど。村のこと」
わたしの足が、止まりそうになる。
「変な話に聞こえるかもしれないけど……昔から、俺たちの出身の九州地方の村には、なにかを捧げることで災いを避けてきたっていう伝承があるみたいで」
「“なにか”って?」
「そこまでは書いてなかった。でも、九州の山間部にあるいくつかの村で、“世界の安寧をご祈禱する”ってフレーズが重なるって話が出てきて……」
「ご祈禱……?」
「うん。例えば……蒙古襲来。あの元寇を暴風によって退けたのは、実は九州にあるいくつかの集落が事前に祈祷を行っていたから――っていう、まるで都市伝説みたいな話。信じてるわけじゃない。でも、その“元祈祷場”って呼ばれてた場所の一つが、うちの村の近くにあるって記述があった」
彼の声はどこか上ずっていた。
わたしは答えなかったが、忘れていたはずの子どもの頃の記憶――山の奥、提灯の灯り、そして誰かがいなくなったような、あの夜の気配が、ざわりと揺れた気がした。
「たぶん昔の人が、何かの自然災害とかを“防げた”って偶然を、大げさに伝承にしただけだと思うけど」
街灯がぽつりぽつりと灯りはじめた。
アスファルトの隙間に、冷えた風が吹き込んでくる。
「……その話、あとで詳しく聞かせてくれる?」
そう問いかけたわたしに、真人は少し驚いたように笑った。
「うん。もちろん」
◇
警察署での事情聴取は、思っていたよりも淡々と進んだ。
誘拐未遂という言葉は、形式上の記録には残らない。「不審者に追われた可能性がある」という、どこにでもある話として処理された。
ただ、警察は彼の自宅周辺の巡回を強化してくれることになった。
署の外に出ると、夜の気配が濃くなっていた。
「……とりあえず、ひと安心、ですかね」
真人が、曇り空を見上げながら言った。
「うん。あとは……しばらく、自分の家に戻れそう?」
「はい。……ようやく、って感じです。自分の部屋、まだ残ってるかな」
軽口のように言ったが、その笑顔には、ほんの少しだけ不安が混じっていた。
別れ際、駅のロータリーの灯りが、二人の立ち位置をわずかに照らし分ける。
あの共に過ごした狭い部屋の記憶が甦る。
でもそれはもう、過去のこと。わたしたちは、それぞれの場所へ戻っていく。
「じゃあ……また」
「……また、明日」
交わした言葉の温度が、少しだけずれていた。
けれど、それが今のわたしたちの距離感だった。
真人は夜の街へと歩き出す。制服の背中が、ひどく小さく見えた。
わたしはその姿が角を曲がって見えなくなるまで、ただ静かに、立ち尽くしていた。




