第21話「ほころび、忍び咲く」
教室の扉を開けた瞬間、そこにいてはいけない人が、わたしの教卓にいた。
教頭――水野だった。
白いワイシャツに、真っ直ぐな背筋。整えられた眼鏡の奥の瞳は、誰にも感情を読ませない。
担任であるわたしに代わって朝の会を進行しているその光景は、あまりに異様だった。
けれど、教室にいる誰も、そのことに触れようとはしない。
「神原先生、ご到着ですね。朝会、進めておきました」
その声はいつも通り丁寧で、だが、その下に薄氷のような拒絶が確かにあった。
わたしが軽く頭を下げると、背後からひとつの視線が突き刺さる。
沙都だった。
水野が静かにわたしの横を通り過ぎ、教室を出ていく。その背中を見送る沙都の顔に、微笑みが浮かんでいた。
ほんのわずか、刃のように細い弧を描くその笑みは、言葉はなくとも、これで終わりですね、先生、と雄弁に語っていた。
教頭が出ていったあとの静寂のなか、わたしは教卓へと歩く。
いつもの場所が、まるで異物のように感じられた。
「先生、おはようございます」
誰よりも早く挨拶を口にしたのは、やはり沙都だった。明るく、礼儀正しい、けれどどこかわざとらしいほどに整った声。
その瞬間に確信した。この少女が、すべての引き金を引いたのだと。
彼女の視線が、ちらりと真人のほうへ流れる。その一瞥で、点と点が線になった。
「今朝は大変でした?」
言葉は柔らかい。だが、その中にはすべてを知っている者の、残酷な安堵が滲んでいた。
この教室で、いちばん冷静で、いちばん無垢な顔をして真実を弄んでいるのは、わたしでも真人でもなく、この笑っている沙都なのだ。
その悟りは、まるで冷たい水を頭から浴びせられたかのように、わたしの思考をクリアにした。続く連絡事項を読み上げる自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
視線を上げれば、沙都は完璧な姿勢でこちらを見ている。
その裏に隠された意図を知ってしまった今、この教室のすべてが、薄っぺらな舞台装置のように見えた。
やがて、終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
朝の会が終わり、生徒たちがざわめき始める。
わたしは教卓の前に立ったまま、出席簿に視線を落とした。
「先生」
耳慣れた、けれど慎重に抑えられた声に顔を上げると、そこに沙都がいた。
彼女は静かに一礼し、まっすぐにこちらへ近づいてくる。
「授業の質問があるんです。少しだけ、お時間いただけますか?」
あくまで優等生らしい親しみを装った、巧妙な誘いだった。
わたしは断る理由を見つけられないまま、頷くしかなかった。
「今すぐ確認したくて……でもちょっと、見られたくない内容というか。教室の中だと話しにくくて。……少しだけ、お時間いただけますか?」
わたしは一瞬だけ、戸惑った。
次の授業の準備もあるし、“沙都と二人きり”というシチュエーションも――危うさを孕んでいる。
でも、彼女の言い方は巧妙だった。
あくまで授業に関する質問。しかも“繊細な内容”を“人目のつかない場所で”。
拒む理由をつけようとして、喉元まで言葉が上がったけれど、結局わたしはそれを飲み込んだ。
「……わかった。職員室前の廊下でいい?」
「はい」
沙都は素直にうなずいた。
けれどその目は――わずかに笑っていた。
それは、“思惑通り”という確信を隠しきれていない目だった。
早朝のホームルームが終わったばかりの時間帯に足音が二つ、廊下に並んで響いていく。
まだ空気は落ち着かず、教室の扉の向こうでは次の授業の支度が続いていた。
職員室の前。掲示板に貼られた連絡プリントの文字をぼんやりと視界にとらえながら、わたしは歩みを止め、振り返る。
「……で、質問って?」
「嘘です。質問なんて、本当はありません」
沙都は、悪びれもせずに軽やかに笑った。
「先生のことが……心配で。最近、お疲れのようですし」
その言葉の一つひとつが、わたしの神経を少しずつ削っていく。
「プライベートな話だから結構です」
冷たく、平坦に言い放つ。
一歩でも踏み込ませたら、この少女の思う壺だ。
沙都はほんの一拍、目を細めた。
「そうですか? でも……優等生って、内申点で評価されるじゃないですか」
「そういう言動も内申点に響くわよ。優等生なんだから分かるでしょう」
そう返したわたしの声は、我ながら静かに冷えていた。
明らかな牽制。
だが、それを受けた沙都の表情は少しも揺れない。
「そっくりそのままお返しします、先生」
笑みの形だけが唇に残り、声には硬さがにじんだ。
「大人として、教師として。正しい行動を、すべきだったんじゃないですか?」
その言葉の一撃は、何よりも鋭かった。
証拠はない、けれど確信だけがあるという、勝ち誇った目。
わたしは一瞬、言葉を失う。
「……それでも、生徒に指図される覚えはないわ」
最後にそれだけを返し、わたしは踵を返した。
ヒールが廊下に硬く響く。振り向きはしなかったが、背中越しに確かに感じた。
沙都が、小さく息を吐きながら、またあの笑みを浮かべたことを。
女と女。教師と生徒。どちらが先に折れるか、それだけの対決。
そして、今日はわたしが一歩引いた。
◇
五限目の現代文。胸の奥に、昼休みの一件が重く澱のように残っていた。
もっと冷静でいるべきだと頭ではわかっているのに、感情が言うことを聞かない。
「ではこの問題、誰か解いてみましょうか」
わたしは教科書に載っていた評論文を指し、静かにクラスを見渡した。
そして、沙都の席に視線を固定する。
「沙都さん、いける?」
指名する声に、自分でもわかるほど私情が混じっていた。
沙都はすっと顔を上げ、淀みなく答える。
「はい。……主体性とは、自分の選択が自分の言葉によって規定されるという意味であり、言語はその根幹を構築する媒体です。したがってこの筆者の主張は、自己の表現を通じて自己を再構築する……そういうことかと」
流れるような、完璧な回答だった。だが。
「……そうね。でも、惜しいかな」
思わず、そう返していた。
教室の空気が、すっと張り詰める。
「“再構築”ではなく、“創出”という語の意味を、筆者はあえて選んでいる。その違いは大きいわ。……そこに気づかないと、本質を見落とす」
わたしの声には、明確な敵意が滲んでいた。
沙都の表情がわずかに動く。それは、失笑だった。
まるで、そうなることを予期していたかのような落ち着き払った態度。
そのとき、別の席から静かな声が響いた。
「……先生、沙都さんが、ちょっとかわいそうですよ」
真人だった。
責めるでもなく、強く訴えるでもない。ただ、その目には明らかな戸惑いがあった。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
わたしが抑えたはずの感情の揺れを、教室の誰もが感じ取ってしまっていた。
「……そうね。ありがとう、真人くん。気をつけるわ」
そう返すのが、精一杯だった。沙都は再びノートに視線を落とし、何事もなかったようにペンを走らせる。
でもその口元には、ほんのわずかに、勝利の曲線が浮かんでいた。




