第20話「忘却の夢と、空っぽな朝」
毛布にくるまり、ソファの浅い硬さに身体を沈める。
目を閉じてもしばらくは、眠気がこなかった。現実の痛みが遠ざかる代わりに、懐かしい風の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。
――夢の中だった。
あまりに鮮やかで、それが夢だと気づくのに時間がかかった。足元には、うすく水の張った石畳の道。夜祭の笛の音が遠くに聞こえる。
「恵美ちゃん」
その声がした瞬間、胸がぎゅっと詰まった。
振り返ると、そこに彼がいた。白い甚平。手には、リンゴ飴。懐かしくて、恋しくて、でもどうしても名前が思い出せない男の子。
「来ると思ってた」
そう言って、彼はわたしの手を取る。指先が触れた瞬間、体温といっしょに、胸の奥に沈んでいた何かが揺れた。それは、紛れもない安心の形をしていた。
「忘れてたでしょ。おれのこと……」
「……うん。忘れたわけじゃないんよ。思い出そうとしても、いつも、指のすき間から零れるみたいで……」
すると彼は、まっすぐこちらを見た。その目の奥にあるものを、わたしは今でも言葉にできない。それは優しさであり、悲しみであり――そして、果たされるべき約束のような色をしていた。
「また、来るから。ちゃんと思い出して。じゃないと……間に合わなくなる」
その言葉の意味を問う前に、風が吹き、彼の姿は灯籠の光と共に闇へと溶けていった。
「……まって……」
口が動く。手を伸ばす。
でも、もうそこには何もなかった。
掴んだ指先が空を切り、その空虚な感触が、沈みかけていた意識を無理やり現実へと引き上げる。
闇に浮かんでいた彼の輪郭は、目の前の、見慣れた部屋の天井の木目に変わっていた。
わたしは、夢から引き戻された。
冷たい汗が背中を流れていた。
夜明け前の部屋。外はまだ青く沈んでいる。
眠った気はしないのに、夢の中の彼の面影だけが、どうしようもなく頭に張りついていた。
なぜ、こんなときに。
朝の光が冷たく感じられる。
隣の部屋から、真人が身支度をする小さな音が聞こえた。その音を聞くだけで、息が詰まる。
“そういう関係”は昨日で終わらせたはずなのに、身体の奥がまだ、愚かにも彼を覚えている。
目を覚まして最初に思ったのは、夢の中の彼のこと。
そして、その次に浮かんだのが、真人の寝顔だった。
真人のことがまだ好きでたまらないのに、夢の中で手を取ってくれた彼のことも、知りたくてたまらない。
吐き気を催すほどの自己嫌悪が、胃の底からせり上がってきた。
「……先生、おはよう」
玄関の方から、真人の声がした。
制服に着替えた彼は、ほんの少し大人びて見え、その姿が胸に刺さった。
「おはよう……」
なんとか言葉を返したが、声は上ずっていた。
「……朝ごはん、俺が作ったけど、食べれそうにないなら無理しなくていいから」
「ありがと」
もう、おはようのキスも、行ってきますの抱擁もない。
ほんの短いやりとりを終え、彼の背中を見送った瞬間、胸がひゅっと縮んだ。
態度では別れられた。言葉では終わらせた。
でも、心だけが、まだこの部屋に置いてけぼりだった。
玄関のドアが閉まり、カチャリと鍵のかかる音が遠くに響く。その音が消えると、部屋は嘘のように静まり返った。
さっきまで彼がいたはずの空間が、今はがらんどうの空洞のように感じられる。
その空虚さに耐えきれず、身体が勝手に動いていた。
まるで、この部屋に残された心が、その温もりの中心だった場所へと、わたしを導くように。
無意識のうちに寝室の扉へと手をかけていた。
薄明かりのなか、彼が昨夜ひとりで眠ったベッドが見える。布団は少し乱れ、寝返りの跡がまだ柔らかく残っていた。
わたしはそのシーツのしわに、そっと指先を沿わせる。
彼の体温はもう抜けていた。
でも、ほんのわずかに、彼の匂いが残っている。石鹸の香りと、まだ少年の輪郭を保った、けれどどこか男の匂い。
その香りに、抗うように、けれど結局は負けるように、そっと顔を近づけていた。
いけない。そう思うのに、指先がシーツを少しだけ握ってしまう。
ふたりで眠ることが当たり前だった場所に、今はわたしひとり。
その現実が、ようやく身体で理解できた。
過去のぬくもりにすがるように、しばらくじっとしていたが、時間だけがわたしの背を押していく。
わたしはゆっくりと顔を上げた。
現実は、もうここに――戻っていた。




