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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 四章 ほころび、忍び咲く
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第20話「忘却の夢と、空っぽな朝」

 毛布にくるまり、ソファの浅い硬さに身体を沈める。

 目を閉じてもしばらくは、眠気がこなかった。現実の痛みが遠ざかる代わりに、懐かしい風の匂いが、ふいに鼻先をかすめた。


 ――夢の中だった。

 あまりに鮮やかで、それが夢だと気づくのに時間がかかった。足元には、うすく水の張った石畳の道。夜祭の笛の音が遠くに聞こえる。


「恵美ちゃん」


 その声がした瞬間、胸がぎゅっと詰まった。

 振り返ると、そこに彼がいた。白い甚平。手には、リンゴ飴。懐かしくて、恋しくて、でもどうしても名前が思い出せない男の子。


「来ると思ってた」

 そう言って、彼はわたしの手を取る。指先が触れた瞬間、体温といっしょに、胸の奥に沈んでいた何かが揺れた。それは、紛れもない安心の形をしていた。


「忘れてたでしょ。おれのこと……」

「……うん。忘れたわけじゃないんよ。思い出そうとしても、いつも、指のすき間から零れるみたいで……」


 すると彼は、まっすぐこちらを見た。その目の奥にあるものを、わたしは今でも言葉にできない。それは優しさであり、悲しみであり――そして、果たされるべき約束のような色をしていた。


「また、来るから。ちゃんと思い出して。じゃないと……間に合わなくなる」


 その言葉の意味を問う前に、風が吹き、彼の姿は灯籠の光と共に闇へと溶けていった。


「……まって……」


 口が動く。手を伸ばす。


 でも、もうそこには何もなかった。

 掴んだ指先が空を切り、その空虚な感触が、沈みかけていた意識を無理やり現実へと引き上げる。

 闇に浮かんでいた彼の輪郭は、目の前の、見慣れた部屋の天井の木目に変わっていた。


 わたしは、夢から引き戻された。


 冷たい汗が背中を流れていた。

 夜明け前の部屋。外はまだ青く沈んでいる。

 眠った気はしないのに、夢の中の彼の面影だけが、どうしようもなく頭に張りついていた。


 なぜ、こんなときに。

 朝の光が冷たく感じられる。

 隣の部屋から、真人が身支度をする小さな音が聞こえた。その音を聞くだけで、息が詰まる。


 “そういう関係”は昨日で終わらせたはずなのに、身体の奥がまだ、愚かにも彼を覚えている。

 目を覚まして最初に思ったのは、夢の中の彼のこと。

 そして、その次に浮かんだのが、真人の寝顔だった。


 真人のことがまだ好きでたまらないのに、夢の中で手を取ってくれた彼のことも、知りたくてたまらない。

 吐き気を催すほどの自己嫌悪が、胃の底からせり上がってきた。


「……先生、おはよう」


 玄関の方から、真人の声がした。

 制服に着替えた彼は、ほんの少し大人びて見え、その姿が胸に刺さった。


「おはよう……」


 なんとか言葉を返したが、声は上ずっていた。


「……朝ごはん、俺が作ったけど、食べれそうにないなら無理しなくていいから」

「ありがと」


 もう、おはようのキスも、行ってきますの抱擁もない。

 ほんの短いやりとりを終え、彼の背中を見送った瞬間、胸がひゅっと縮んだ。

 態度では別れられた。言葉では終わらせた。


 でも、心だけが、まだこの部屋に置いてけぼりだった。


 玄関のドアが閉まり、カチャリと鍵のかかる音が遠くに響く。その音が消えると、部屋は嘘のように静まり返った。

 さっきまで彼がいたはずの空間が、今はがらんどうの空洞のように感じられる。


 その空虚さに耐えきれず、身体が勝手に動いていた。

 まるで、この部屋に残された心が、その温もりの中心だった場所へと、わたしを導くように。


 無意識のうちに寝室の扉へと手をかけていた。

 薄明かりのなか、彼が昨夜ひとりで眠ったベッドが見える。布団は少し乱れ、寝返りの跡がまだ柔らかく残っていた。

 わたしはそのシーツのしわに、そっと指先を沿わせる。


 彼の体温はもう抜けていた。

 でも、ほんのわずかに、彼の匂いが残っている。石鹸の香りと、まだ少年の輪郭を保った、けれどどこか男の匂い。

 その香りに、抗うように、けれど結局は負けるように、そっと顔を近づけていた。


 いけない。そう思うのに、指先がシーツを少しだけ握ってしまう。

 ふたりで眠ることが当たり前だった場所に、今はわたしひとり。

 その現実が、ようやく身体で理解できた。


 過去のぬくもりにすがるように、しばらくじっとしていたが、時間だけがわたしの背を押していく。

 わたしはゆっくりと顔を上げた。


 現実は、もうここに――戻っていた。

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