第19話「最後の夜、一枚の写真」
段ボールの底に、折り畳んだTシャツが重ねられていく。洗いざらしのタオル。折り畳み傘。
わたしは黙って、わたしたちの生活だったものを、ひとつひとつ「荷物」へと変えていた。
真人も、静かに鞄の中に本や充電器を収めている。
音がなかった。
テレビも、音楽も、何もつけていないこの部屋で、唯一響いていたのは、段ボールが擦れる音と、衣類が布の音を立てる気配だけだった。
「これ……どうする?」
真人の声が、ふと静寂に落ちた。
彼の手には、小さな白い封筒。
そこから少しだけ覗いていたのは、一枚の写真だった。
ふたりで出かけた日、誰もいない公園のベンチで撮った、唯一現像したツーショット。
スマホの中のデータじゃ、なんだか足りない気がする。そう言ったのは、わたしだった。
「……捨てよか」
口にした瞬間、自分の心臓が大きく打つ音を聞いた。
でも、言わなければならなかった。
こうでもしなければ、この気持ちを引き裂くことなどできなかった。
真人は黙ったまま写真を封筒から引き出し、わたしの方へそれを差し出す。
「……先生が、破る?」
その声は穏やかで、だからこそ刃物のように突き刺さった。わたしは写真を受け取る。
肩を寄せ合って、照れくさそうに笑う、かつてのわたしたち。
その思い出の紙片に、右手の指に力を入れようとした、そのとき。
「やめてよ!」
真人が、声を上げた。わたしの手を、強く掴む。
「なんでそこまでして捨てようとするの!? 忘れたいの? なかったことにしたいの?」
「ちがう! そげんことやなかと……!」
わたしの声も、震えていた。
「忘れたくなんかなかっちゃ、でも……これは忘れんといかんことっちゃもん……!」
「どうして? これ、俺にとって本物だった。先生が笑ってくれたのも、肩が触れたのも――ぜんぶ、本物だった!」
「真人……」
「俺だけが、忘れないまま残されるの、嫌だ」
その言葉に、わたしの指から力が抜けていく。
破ろうとした写真の端が、ゆっくりと離れていった。
「じゃあ……残しとこ」
わたしの声は、もう細くかすれていた。
「封筒に戻して、箱のいちばん底に入れよう。見えないとこに」
真人は何も言わず、封筒を受け取ると、静かに段ボールの底に収めた。その上に、柔らかいタオルを重ねるようにして。
言葉では何も整理できなかった。
でも、このどうしようもない痛みだけは、確かにふたりで分かち合えた気がした。
そのあと、わたしたちの間に言葉はなかった。
ただ、互いの痛みを尊重するように、静かに、残りのものを箱へと詰めていく。
彼の歯ブラシ、読みかけの文庫本、わたしが貸したままだった部屋着のTシャツ。
ひとつ、またひとつと、この部屋から彼の痕跡が消えていく。
最後に段ボールの蓋を閉め、テープで封をしたとき、わたしたちの短い生活が、本当に終わってしまったのだと悟った。
荷物を詰め終えた段ボールが、リビングの隅で黙って佇んでいる。
日付が変わる手前のこの部屋は、これまででいちばん静かだった。
「先生、そろそろ寝よっか」
背中越しにかけられた真人の声。
その、あまりに普段通りの響きに、わたしは一瞬、息を詰めた。
振り返ると、寝間着姿の彼が、ベッドへ向かう途中で当然のようにわたしを待っている。
その姿が、もう当たり前ではないことに、彼だけが気づいていない。
いや、きっと気づいている。気づいているけれど、信じたくないのだ。
「うちは……ソファで寝るから」
静かに言ったその声は、自分のものじゃないようだった。
真人の顔が、明らかに曇る。
「え……なんで?」
「今夜くらいは、ちゃんと分けよ」
「分けるって、何を」
「……すべてを、よ」
わたしは布巾を畳みながら、できるだけ視線を合わせなかった。
「もう……何もかも、“元には戻らん”って、真人にもわかってほしい」
真人は、何かを言いかけて口を閉じた。
その手が、ほんの少し伸びかけた気配があったが、何も触れずに、力なく下ろされる。
「……おやすみ」
かすれた声だった。
「……おやすみ」
そう応え、わたしはソファに毛布を持ち込む。
背もたれに身体を沈めると、張り詰めていた背筋が痛いほど重かった。
照明を落とすと、部屋は藍色の闇に沈む。
隣の部屋で、ベッドがわずかに軋む音が聞こえた。そのたびに胸が締めつけられる。
この夜だけは、わたしが、大人でいなければならなかった。
毛布を抱えて膝を引き寄せたとき、頬にぬるいものが、ひとすじ落ちた。
わたしたちの間にあった、あたたかな夜が、遠ざかっていく音がした。




