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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 四章 ほころび、忍び咲く
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第19話「最後の夜、一枚の写真」

 段ボールの底に、折り畳んだTシャツが重ねられていく。洗いざらしのタオル。折り畳み傘。

 わたしは黙って、わたしたちの生活だったものを、ひとつひとつ「荷物」へと変えていた。

 真人も、静かに鞄の中に本や充電器を収めている。


 音がなかった。

 テレビも、音楽も、何もつけていないこの部屋で、唯一響いていたのは、段ボールが擦れる音と、衣類が布の音を立てる気配だけだった。


「これ……どうする?」


 真人の声が、ふと静寂に落ちた。


 彼の手には、小さな白い封筒。


 そこから少しだけ覗いていたのは、一枚の写真だった。

 ふたりで出かけた日、誰もいない公園のベンチで撮った、唯一現像したツーショット。

 スマホの中のデータじゃ、なんだか足りない気がする。そう言ったのは、わたしだった。


「……捨てよか」


 口にした瞬間、自分の心臓が大きく打つ音を聞いた。

 でも、言わなければならなかった。

 こうでもしなければ、この気持ちを引き裂くことなどできなかった。


 真人は黙ったまま写真を封筒から引き出し、わたしの方へそれを差し出す。


「……先生が、破る?」


 その声は穏やかで、だからこそ刃物のように突き刺さった。わたしは写真を受け取る。

 肩を寄せ合って、照れくさそうに笑う、かつてのわたしたち。

 その思い出の紙片に、右手の指に力を入れようとした、そのとき。


「やめてよ!」


 真人が、声を上げた。わたしの手を、強く掴む。


「なんでそこまでして捨てようとするの!? 忘れたいの? なかったことにしたいの?」

「ちがう! そげんことやなかと……!」


 わたしの声も、震えていた。


「忘れたくなんかなかっちゃ、でも……これは忘れんといかんことっちゃもん……!」

「どうして? これ、俺にとって本物だった。先生が笑ってくれたのも、肩が触れたのも――ぜんぶ、本物だった!」


「真人……」

「俺だけが、忘れないまま残されるの、嫌だ」


 その言葉に、わたしの指から力が抜けていく。

 破ろうとした写真の端が、ゆっくりと離れていった。


「じゃあ……残しとこ」


 わたしの声は、もう細くかすれていた。


「封筒に戻して、箱のいちばん底に入れよう。見えないとこに」


 真人は何も言わず、封筒を受け取ると、静かに段ボールの底に収めた。その上に、柔らかいタオルを重ねるようにして。

 言葉では何も整理できなかった。

 でも、このどうしようもない痛みだけは、確かにふたりで分かち合えた気がした。


 そのあと、わたしたちの間に言葉はなかった。

 ただ、互いの痛みを尊重するように、静かに、残りのものを箱へと詰めていく。

 彼の歯ブラシ、読みかけの文庫本、わたしが貸したままだった部屋着のTシャツ。


 ひとつ、またひとつと、この部屋から彼の痕跡が消えていく。

 最後に段ボールの蓋を閉め、テープで封をしたとき、わたしたちの短い生活が、本当に終わってしまったのだと悟った。


 荷物を詰め終えた段ボールが、リビングの隅で黙って佇んでいる。

 日付が変わる手前のこの部屋は、これまででいちばん静かだった。


「先生、そろそろ寝よっか」


 背中越しにかけられた真人の声。

 その、あまりに普段通りの響きに、わたしは一瞬、息を詰めた。

 振り返ると、寝間着姿の彼が、ベッドへ向かう途中で当然のようにわたしを待っている。


 その姿が、もう当たり前ではないことに、彼だけが気づいていない。

 いや、きっと気づいている。気づいているけれど、信じたくないのだ。


「うちは……ソファで寝るから」


 静かに言ったその声は、自分のものじゃないようだった。

 真人の顔が、明らかに曇る。


「え……なんで?」

「今夜くらいは、ちゃんと分けよ」


「分けるって、何を」

「……すべてを、よ」


 わたしは布巾を畳みながら、できるだけ視線を合わせなかった。


「もう……何もかも、“元には戻らん”って、真人にもわかってほしい」


 真人は、何かを言いかけて口を閉じた。

 その手が、ほんの少し伸びかけた気配があったが、何も触れずに、力なく下ろされる。


「……おやすみ」


 かすれた声だった。


「……おやすみ」


 そう応え、わたしはソファに毛布を持ち込む。

 背もたれに身体を沈めると、張り詰めていた背筋が痛いほど重かった。

 照明を落とすと、部屋は藍色の闇に沈む。

 隣の部屋で、ベッドがわずかに軋む音が聞こえた。そのたびに胸が締めつけられる。


 この夜だけは、わたしが、大人でいなければならなかった。

 毛布を抱えて膝を引き寄せたとき、頬にぬるいものが、ひとすじ落ちた。


 わたしたちの間にあった、あたたかな夜が、遠ざかっていく音がした。

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