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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 一章 誰にも知られずに咲く
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第1話「誰にも知られずに咲く」

 春の終わりと夏の始まりが、ぬるい水のように曖昧に溶け合う季節だった。

 職員室の窓から見える校庭では、半袖シャツの生徒たちがちらほらと動いている。

 もう六月になろうとしている。


 じめついた空気に梅雨の気配を感じながら、わたし、はひとつ深く息を吐いた。

 二十七歳、国語科教員。この春から初めて任されたクラス担任という響きには、まだ慣れない緊張がこびりついている。


「おはようございます」


 小さな声で挨拶をして職員室に入り、隅にある姿見の前で立ち止まる。それは毎朝の儀式のようなものだった。

 どこか疲れた顔の女。少し垂れ気味の目尻と、感情の読みにくい黒い瞳。

 その奥に昨夜の夢の残滓が揺れていた。


 切りそろえた黒髪は、朝の光を受けて、わずかに茶色がかって見える。

 生徒たちはそれを「大人っぽい」と口にするけれど、わたし自身には、ただの地味な色としか思えない。

 ベージュのジャケット、タイトスカート、白いブラウス。そのどれもが、教師らしい「正しさ」を意識して選んだ鎧のようなものだ。


 ふと、もう三十路も近い自分の歳を思うと、婚活に割く時間などどこにもない、という焦りが故郷の訛りを伴って胸をよぎった。

「先生」と呼ばれる日々のなかで、自分が女であるという感覚はゆっくりと摩耗し、恋をすることも、誰かに触れられることも、ずいぶん遠い世界の出来事になってしまった。


 それでも、だ。


 ふとした視線や、名前を呼ばれた声のトーンに、身体の奥が微熱を帯びて疼くことがある。

 誰かに見られていたい。けれど、決して見られてはいけない。その矛盾した願いの境界で、今日もまたわたしの内側だけが、じっと音を立てて揺れている。


 わたしはそっと、頬にかかる髪を耳にかけ、その揺らぎに蓋をした。


 ◇


 ホームルームを終え、昼休みまでの合間に進路相談の時間が設けられていた。手元の資料で次の生徒の名前を確認する。


 ――真人。


 物静かで、いつも教室の隅で文庫本を開いている生徒。誰とも深く交わらず、だからこそ、たぶん誰よりも周囲をよく見ている。


「真人くん。次、お願いできますか?」


 呼びかけると、彼は静かに立ち上がり、すっと視線をわたしに向けた。その黒目がちな瞳には、無垢とも陰とも違う、どこかこの社会に馴染みきれていない色が浮かんでいる。


 職員室の隅に設けられた、小さなテーブルと二つの椅子。

 真人が椅子に腰掛けると、その近さにふっと空気が変わる。

 わたしの手と彼の手が触れてしまいそうな、危ういほどの距離。


 ごくり、と喉が鳴ったのは無意識だった。


「……えっと、将来のことで、気になってる進路とか、ある?」


 努めて教師らしい、硬い口調で切り出す。

 真人は小さく頷いた。


「芸能関係……っていうか、アイドル、みたいな。夢物語だって分かってますけど」


 その言葉の選び方は、どこか大人びていて、諦念を滲ませていた。

 わたしは思わず、彼の顔を見つめてしまう。通った鼻筋、細い顎のライン。女子生徒の間で人気があるというのも頷ける、


 儚げな造形。その奥にある、まだ何色にも染まっていない純粋な光に、目を奪われた。


「ううん。夢を持つのは、すごくいいことだと思うよ」


 微笑みかけると、真人は照れたように視線を逸らす。

 その仕草が、なぜか胸の奥に引っかかった。


「親に言ったら、笑われました。そんなの村出身じゃ無理だって」

「村……?それって、どこの?」


 何気なく尋ねたその瞬間、真人がふと、わたしを見た。


「……久邑くむらってところです。先生、知ってます?」


 久邑。

 その二文字が耳に届いた瞬間、思考が止まった。呼吸が止まった。

 世界の音がすべて遠のき、ただその響きだけが、錆びついた記憶の扉をこじ開けようとする。


「――うちも、そこ出身よ」


 気づけば、唇から懐かしい訛りが滑り落ちていた。

 真人の目が、ほんのわずかに見開かれる。

 そこからの数分間は、まるで熱に浮かされたようだった。


 村の話。どこに住んでいたのか、共通の地名、あの坂道、あの神社。忘れていたはずの風景が、彼の言葉をきっかけに、色を持って蘇っていく。

 この東京の無機質な一角で、わたしたち二人だけが共有できる、秘密の地図を広げているような、そんな錯覚。


「あ、ごめん、もう時間だ……ありがとう、真人くん」


「……先生、また、話してもいいですか?」


 その一言に、心臓が跳ねた。

 もう彼をただの「生徒」として見ていない自分を、はっきりと自覚する。


「うん。私も……また、話したい」


 まだこれは、禁じられた一線ではない。

 ただ、故郷を同じくする者同士の、ささやかな郷愁に過ぎないのだと。

 わたしは、そう自分に言い聞かせた。


 けれど、この小さな肯定こそが、すべての始まりだったということを、このときのわたしはまだ知らなかった。

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