第18話「さよならを言うために」
玄関のドアを閉めたとき、わたしは、壁にもたれたまま動けなくなった。
今日、あの部屋で言われた言葉が、まだ胸に重く居座っている。
「……懲戒処分も、ありえます」
水野教頭の、温度のない声。終わらせなければ。そう心の中で繰り返すうちに、キッチンから包丁の軽い音が聞こえてきた。
真人が、夕飯を作っている。
夕陽の残光に照らされたその横顔は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、それが、苦しかった。
「……ただいま」
声をかけると、真人が振り返って笑う。
「おかえりなさい。あと、10分くらいでできるよ。今日はちょっと頑張って煮込みハンバーグにしてみた」
その、あまりに無垢な優しさが、いちばん痛い。
わたしは彼の前に立ち、その笑顔が消えていくのを覚悟しながら、静かに口を開いた。
「真人。今日、学校で……教頭に呼び出された」
彼の笑みが、ゆっくりと消える。
「“また”……その話?」
「うん、“また”。でも、今度のは本気」
わたしは、言葉を続ける。今日の事情聴取のこと。Wi-Fiの履歴、防犯カメラ、彼らの目がもう、わたしたちの日常のすぐそばまで届いていること。
そして、この関係を終わらせなければ、わたしだけでなく、彼の未来さえも傷つけてしまうという、冷たい事実を。
「忘れるって言ったよね。なかったことにして、って。……そんな簡単にできるわけ、ないじゃんか」
彼の声が、少しずつ熱を帯びていく。
「俺さ……先生といた時間、全部ちゃんと覚えてるよ。初めて名前呼ばれたときも、夜中に一緒に映画見たときも、泣いてた先生を、どうしようもなく抱きしめたときも――」
彼の声が、震えはじめた。
「それ全部、なかったことにしろって? それ、俺が“間違ってる”ってこと? 先生と一緒にいたことが、俺の人生の中で一番ちゃんと“生きてた”時間だったのに?」
机を叩く音が、小さな部屋に響いた。
「守るために、突き放すの? じゃあ、俺はなに? 先生にとって“リスク”にしかなんなかった? そうなら……最初から、近づかないでほしかった!」
わたしは、何も言えなかった。否定する言葉も、肯定する覚悟も、どちらも持ち合わせていない。
彼は荒い呼吸のまま自室に入り、扉が乾いた音で閉ざされる。
わたしは、その場から一歩も動けなかった。
ピンポーン。
乾いたチャイムの音が、その沈黙を無遠慮に断ち切る。
モニターに映っていたのは、作業服を着た、愛想の良い男の姿だった。点検業者だというその男――古谷は、管理会社のロゴが入った名刺を差し出しながら、遅れたことをしきりに詫びていた。
わたしは警戒心を解いた。けれど、彼の視線が、ほんの一瞬だけ、室内を測るように横切ったのを、見逃しはしなかった。
「じゃあ、点検入りますね」
その動作は、業務的な確認作業にしか見えない。
「非常扉の開閉、問題なし……。んー、ここも油の散布は前回で十分だった感じですね」
古谷は、まるでチェックリストに沿って話すように、ひとつひとつ点検を進めていく。
作業用のタブレットに、項目をひとつずつ入力していく手つきも、慣れたものだった。
なんとなく目を離せずにいたけれど、変なところはなかった。
――そう思っていた。が、その手が何気なく腰ポーチに伸び、そこから取り出したのは細長い金属の棒。
「これ、室内の空間圧見とくセンサーなんですよ」
彼は軽く笑いながら、細長い金属の棒を扉の隙間へと差し込む。
そんな点検、今まであっただろうか。
その所作はあまりに手際よく、会話も気さくで、どこにも不穏さを感じさせない。
キッチンの奥で、真人がくしゃみをする。
古谷はそれに気づかぬふりをし、「これで大丈夫です」と言って扉を閉めた。
わたしはドアに鍵をかけ、額を冷たい金属に押し当てた。
普通。あまりにも普通だった。だからこそ、恐ろしかった。
わたしたちの世界は、もう、見つけられてしまったのだ。
あの男の視線が、部屋の間取りだけでなく、わたしたちの関係性そのものを測っていた気がしてならなかった。
もう、感傷に浸っている時間はない。甘えも、迷いも、この扉の外にいる“何か”の前では無意味だ。
わたしは顔を上げ、決意を固めてリビングへと向かった。
わたしは、再びリビングで背を向ける真人に声をかけた。
点検業者の訪問が、わたしの迷いを断ち切る最後のきっかけになった。
「真人。もう一度言うね。うちと、あなたの関係は……ここで終わらせないかん」
わたしはゆっくりと言葉を選びながら続けた。
「このまま、うちの部屋におるのは危険だよ。真人を守るために、うちは“正しいこと”を選ばないかん。……うちは真人のこと、ほんとに好きっちゃよ。どうしようもないくらい。でも、好きやけんこそ……ここで線ば引かんと、全部壊れてしまうっちゃ。真人の未来も、わたしの居場所も、ぜんぶ」
声が震える。長い沈黙のあと、彼は小さな声で返してきた。
「……わかった。でも、せめて――今日だけは、ここにいさせて」
その願いを、わたしは断れなかった。
息をついて、最後の言葉を告げる。
「……荷物、まとめて」
真人のまばたきが、一瞬遅れた。
「明日……放課後に警察に行こ。ちゃんと、誘拐されかけたこと届け出て、話そう」
「……でも俺……証拠とか、ないよ」
「それでも、ええの。届け出ることに意味がある。今は“記録”を残すほうが大事なんよ」
「……じゃあ、俺は……もう、ここに戻ってきたらだめなの?」
彼の声が、小さくなった。
わたしは、ゆっくりと頷いた。
「うん。……いかん」
その言葉は、自分の舌から出たとは思えないほど、冷たく響いた。