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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 四章 ほころび、忍び咲く
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第18話「さよならを言うために」

 玄関のドアを閉めたとき、わたしは、壁にもたれたまま動けなくなった。

 今日、あの部屋で言われた言葉が、まだ胸に重く居座っている。


「……懲戒処分も、ありえます」


 水野教頭の、温度のない声。終わらせなければ。そう心の中で繰り返すうちに、キッチンから包丁の軽い音が聞こえてきた。

 真人が、夕飯を作っている。

 夕陽の残光に照らされたその横顔は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、それが、苦しかった。


「……ただいま」


 声をかけると、真人が振り返って笑う。


「おかえりなさい。あと、10分くらいでできるよ。今日はちょっと頑張って煮込みハンバーグにしてみた」


 その、あまりに無垢な優しさが、いちばん痛い。

 わたしは彼の前に立ち、その笑顔が消えていくのを覚悟しながら、静かに口を開いた。


「真人。今日、学校で……教頭に呼び出された」


 彼の笑みが、ゆっくりと消える。


「“また”……その話?」

「うん、“また”。でも、今度のは本気」


 わたしは、言葉を続ける。今日の事情聴取のこと。Wi-Fiの履歴、防犯カメラ、彼らの目がもう、わたしたちの日常のすぐそばまで届いていること。

 そして、この関係を終わらせなければ、わたしだけでなく、彼の未来さえも傷つけてしまうという、冷たい事実を。


「忘れるって言ったよね。なかったことにして、って。……そんな簡単にできるわけ、ないじゃんか」


 彼の声が、少しずつ熱を帯びていく。


「俺さ……先生といた時間、全部ちゃんと覚えてるよ。初めて名前呼ばれたときも、夜中に一緒に映画見たときも、泣いてた先生を、どうしようもなく抱きしめたときも――」


 彼の声が、震えはじめた。


「それ全部、なかったことにしろって? それ、俺が“間違ってる”ってこと? 先生と一緒にいたことが、俺の人生の中で一番ちゃんと“生きてた”時間だったのに?」


 机を叩く音が、小さな部屋に響いた。


「守るために、突き放すの? じゃあ、俺はなに? 先生にとって“リスク”にしかなんなかった? そうなら……最初から、近づかないでほしかった!」


 わたしは、何も言えなかった。否定する言葉も、肯定する覚悟も、どちらも持ち合わせていない。

 彼は荒い呼吸のまま自室に入り、扉が乾いた音で閉ざされる。

 わたしは、その場から一歩も動けなかった。


 ピンポーン。


 乾いたチャイムの音が、その沈黙を無遠慮に断ち切る。

 モニターに映っていたのは、作業服を着た、愛想の良い男の姿だった。点検業者だというその男――古谷は、管理会社のロゴが入った名刺を差し出しながら、遅れたことをしきりに詫びていた。


 わたしは警戒心を解いた。けれど、彼の視線が、ほんの一瞬だけ、室内を測るように横切ったのを、見逃しはしなかった。


「じゃあ、点検入りますね」


 その動作は、業務的な確認作業にしか見えない。


「非常扉の開閉、問題なし……。んー、ここも油の散布は前回で十分だった感じですね」


 古谷は、まるでチェックリストに沿って話すように、ひとつひとつ点検を進めていく。

 作業用のタブレットに、項目をひとつずつ入力していく手つきも、慣れたものだった。

 なんとなく目を離せずにいたけれど、変なところはなかった。


 ――そう思っていた。が、その手が何気なく腰ポーチに伸び、そこから取り出したのは細長い金属の棒。


「これ、室内の空間圧見とくセンサーなんですよ」


 彼は軽く笑いながら、細長い金属の棒を扉の隙間へと差し込む。

 そんな点検、今まであっただろうか。

 その所作はあまりに手際よく、会話も気さくで、どこにも不穏さを感じさせない。


 キッチンの奥で、真人がくしゃみをする。

 古谷はそれに気づかぬふりをし、「これで大丈夫です」と言って扉を閉めた。


 わたしはドアに鍵をかけ、額を冷たい金属に押し当てた。

 普通。あまりにも普通だった。だからこそ、恐ろしかった。

 わたしたちの世界は、もう、見つけられてしまったのだ。


 あの男の視線が、部屋の間取りだけでなく、わたしたちの関係性そのものを測っていた気がしてならなかった。

 もう、感傷に浸っている時間はない。甘えも、迷いも、この扉の外にいる“何か”の前では無意味だ。

 わたしは顔を上げ、決意を固めてリビングへと向かった。


 わたしは、再びリビングで背を向ける真人に声をかけた。

 点検業者の訪問が、わたしの迷いを断ち切る最後のきっかけになった。


「真人。もう一度言うね。うちと、あなたの関係は……ここで終わらせないかん」


 わたしはゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「このまま、うちの部屋におるのは危険だよ。真人を守るために、うちは“正しいこと”を選ばないかん。……うちは真人のこと、ほんとに好きっちゃよ。どうしようもないくらい。でも、好きやけんこそ……ここで線ば引かんと、全部壊れてしまうっちゃ。真人の未来も、わたしの居場所も、ぜんぶ」


 声が震える。長い沈黙のあと、彼は小さな声で返してきた。


「……わかった。でも、せめて――今日だけは、ここにいさせて」


 その願いを、わたしは断れなかった。

 息をついて、最後の言葉を告げる。


「……荷物、まとめて」


 真人のまばたきが、一瞬遅れた。


「明日……放課後に警察に行こ。ちゃんと、誘拐されかけたこと届け出て、話そう」

「……でも俺……証拠とか、ないよ」


「それでも、ええの。届け出ることに意味がある。今は“記録”を残すほうが大事なんよ」

「……じゃあ、俺は……もう、ここに戻ってきたらだめなの?」


 彼の声が、小さくなった。

 わたしは、ゆっくりと頷いた。


「うん。……いかん」


 その言葉は、自分の舌から出たとは思えないほど、冷たく響いた。

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