第17話「聴取室の沈黙」
わたしは朝、出勤してすぐに水野教頭から「時間を作ってくれ」と告げられた。
その口調は、昨日までのやんわりとした注意のそれではなかった。
会議室ではなく、管理職用の個室。学校で一番空気が薄い、わたしが教師になって以来、一度も入ったことのない部屋だった。
机越しに座る教頭の前のテーブルには、書類が二枚。
「聴取記録票」という無機質な文字が、わたしの呼吸を締めつける。
「まず最初に伝えておきます。本件は、匿名の通報に基づく正式な内部調査の一環として行われるものです」
静かに切り出されたその言葉に、わたしは何も言えなかった。
「内容は明言できませんが、いくつかの報告・証言・状況証拠により、現在あなたが一部の生徒と私的に不適切な関係を持っていた可能性があるという指摘を受けています。そのため、今回の聴取は“懲戒処分の判断を視野に入れた”段階であることを、先に確認させていただきます」
懲戒処分。
その言葉が口にされた瞬間、わたしの時間は静かに止まった。
頭の奥がしんとして、心臓の鼓動だけがやけにうるさく響く。
わたしが彼を守るために選んだ“突き放し”も、彼をただ傷つけただけだった。
そして、守れなかった。
教頭の問いかけは続いていたが、もうその声は耳に届かない。
テーブルの上に置かれた書類の黒い文字が、じわりと滲んでいく。視界が揺れていた。
それが涙のせいだと気づいたときには、もう遅かった。
熱い雫が頬を伝うのを、ただなすすべもなく感じていた。
教頭は、そんなわたしを無機質な目で見下ろしたまま、小さく息をつくと、「本日は以上です」とだけ告げた。
椅子を引く音も、お辞儀をする声も、自分のものとは思えなかった。
扉を開けて廊下に出るまでの一歩一歩が、まるで水の中を歩くように重い。
職員室から漏れる同僚たちの何気ない談笑の声が、今は鋭い刃となって突き刺さってくる。
事情聴取が終わっても、わたしは職員室に戻れなかった。身体が、机に戻ることを拒んでいた。
職員用女子トイレの冷たい個室に駆け込み、扉を閉めた瞬間、膝が崩れる。しゃがみ込んだまま頬を両手で押さえるが、こらえようとした涙は、胸の奥から嗚咽となって突き上げてきた。
なんで、あげんなことになってしもうたっちゃろ。
うちは、ただ、守りたかっただけやったとに。
言い訳も、正当化も、もう意味をなさない。守れなかった。救えなかった。
そしていま、わたしが救ってほしいと願っていること自体が、あまりに自己中心的で、浅ましかった。
「……ごめん……うちが、ほんとに……ごめんっちゃ……」
その謝罪が誰に向けたものだったのか、もうわたしにはわからなかった。
どれほどの時間、そうしていただろう。
やがて嗚咽は乾いた咳に変わり、涙も枯れ果て、残ったのは喉の痛みと、空っぽになった心だけだった。冷たいタイルの上で、わたしはゆっくりと顔を上げた。
絶望の底に沈みきったとき、不思議と、心は凪いでいた。
もう、どうなってもいい。そう思った。
化粧が落ちるのも、目が赤くなるのも、どうでもよかった。
水で顔を洗い、鏡に映る自分を見つめる。
目の縁はわずかに赤い。でも笑える。教師の顔くらい、まだ、取り繕える。
わたしは大丈夫なのだと自分に言い聞かせ、午後の教室へと向かった。
扉を開けた瞬間、視界の真ん中に、ふたりの姿があった。沙都と、真人。
沙都は椅子の背に腕をかけ、真人の机に上体を傾けるようにして話していた。
その手――真人の制服の袖口に、ふわりと触れている。
わたしの心が、わずかにきしむ音を立てた。
「先生、おかえりなさい」
沙都がこちらに気づき、ゆっくりと体を起こす。
その声は礼儀正しかったけれど、瞳には計算済みの、そして紛れもない勝者の余裕があった。
真人はただ、わたしと沙都を交互に見るだけで、この場の空気の本当の意味には気づいていない。
その無垢な横顔を見て、わたしは胸の奥に、ひどく冷たいものが流れ込むのを感じた。
大切な人が、わたし以外の誰かに触れられている。その現実。
プリントを配る手が、わずかに震えた。
教卓へ向かうわたしの背後で、沙都の声がまた、真人に優しく語りかけている。
その柔らかい声音が、まるで真人にふさわしいのは私なのだと語るように、わたしの鼓膜にゆっくりと沈んでいった。
自分を保つのに、いつもの三倍、力が必要だった。
その日の授業でわたしの書いた板書は、きっといつもより少しだけ、歪んでいたに違いない。