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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 三章 ひとひら、夜香る
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第16話「崩壊へのカウントダウン」

 ▼


 校舎の西側、夕日が傾き、長い影が床を舐めるように伸びる頃。

 ほとんど誰もいない図書室の、その一角だけが密やかな緊張を帯びていた。


 カーテン越しの埃っぽい光に照らされながら、柊沙都は分厚い歴史書のページをめくっていた。

 けれど、その目は活字を追っていない。

 彼女の視線の先にあるのは、学校の配布物ではない、一枚の紙資料だった。


 《児童・生徒との不適切な関係に関する学校対応マニュアル(外部通報含む)》


 都の教育委員会が出したその通知には、いくつかの項目に、まるで処刑宣告のように生々しい黄色のマーカーが引かれている。


 ・「生徒と教職員が私的に連絡を取り合う行為」

 ・「授業外での二人きりの会話が過剰に多い場合」

 ・「保護者、または生徒本人からの相談が起点となるケース」


 彼女はそれらを、静かに眺めていた。

 机の端に置かれたスマートフォンにそっと手を置く。画面には、既に入力済みのメールの下書き。あとは送信ボタンを押すだけ。


 けれど、その指は動かなかった。


 沙都は視線を窓の外に向ける。

 放課後の校庭に、ひとり、真人がいた。ベンチに座り、黙って空を見上げている。

 その儚げな横顔を見つめながら、彼女の瞳が少しだけ揺れた。


 あの先生は、ほんとうに彼を守れるのだろうか、と。

 彼女はスマホの画面を閉じ、バッグにしまった。

 まだ、その時ではない。


 けれど、一線のすぐ手前まで、彼女は確かに来ていた。


 ◇


 終業前、わたしは机で指導要録の記入に追われていた。

 いつもと同じ、紙の擦れる音と、遠くで聞こえる生徒たちの声。何も変わらないはずだった。


 ただ、ひとつ。視線を感じた。


 ふと顔を上げると、管理職席に座る水野教頭が、こちらを向いたまま、表情ひとつ変えずにいた。

 目が合ったわけではない。けれど、間違いなくこちらを見ている。

 その無言の視線が、数秒続いた。やがて彼は、小さくひとつ頷くと、何事もなかったかのようにすっと視線を書類に戻した。


 呼び止められもしなかった。

 けれど、それは猶予ではなかった。

 見ている、という無言の合図。


 わたしの背中を、冷たいものが走った。


 その冷たさは、終業のチャイムが鳴り、生徒たちの喧騒が廊下に満ちても、消えることはなかった。

 わたしは笑顔の仮面を貼り付けたまま残りの業務をこなし、誰とも目を合わせぬよう職員室を後にした。

 帰りの電車も、駅からの道のりも、背中に突き刺さるあの無言の視線をずっと感じていた。


 ようやく辿り着いた自室の扉だけが、わたしを世界から切り離してくれる唯一の境界線だった。

 帰宅して、玄関の鍵を閉めた瞬間、わたしは深く息を吐いた。

 今日も、なんとか「教師」でいられた。


 そう思い込むことでしか、もう正気を保てなかった。

 リビングに入ると、真人がソファに座っていた。

 本を開いたまま、でもそのページはほとんど進んでいない。


「……ただいま」


 わたしが言うと、彼は少しだけ顔を上げて「おかえり」と返した。

 その声が、いつもより少しだけ硬かったのは、気のせいではない。


 キッチンに立ち、夕食の準備を始めようとしたとき、真人が背後から言った。


「……先生」


 振り返ると、彼は立ち上がってこちらを見ていた。

 何かを言いたそうな、けれど言葉を見つけられない、そんな顔をしていた。


「……先生、俺……」


 そのあとが、続かない。

 言葉が、喉の奥でつかえてしまったかのような、重い沈黙。

 わたしは、あえて何も言わずに、そのまま彼の視線を受け止めた。


「……ごはん、先に作るね」


 そう言って、わたしは鍋に火をつけた。

 彼の背中が、そっとソファに戻る音が聞こえる。

 言わなかった。言えなかった。


 でも、わたしたち二人とも、その言葉にされない言葉の重さだけを感じながら、その夜を過ごした。


 崩壊は、もうすぐそこまで来ていた。

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