第16話「崩壊へのカウントダウン」
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校舎の西側、夕日が傾き、長い影が床を舐めるように伸びる頃。
ほとんど誰もいない図書室の、その一角だけが密やかな緊張を帯びていた。
カーテン越しの埃っぽい光に照らされながら、柊沙都は分厚い歴史書のページをめくっていた。
けれど、その目は活字を追っていない。
彼女の視線の先にあるのは、学校の配布物ではない、一枚の紙資料だった。
《児童・生徒との不適切な関係に関する学校対応マニュアル(外部通報含む)》
都の教育委員会が出したその通知には、いくつかの項目に、まるで処刑宣告のように生々しい黄色のマーカーが引かれている。
・「生徒と教職員が私的に連絡を取り合う行為」
・「授業外での二人きりの会話が過剰に多い場合」
・「保護者、または生徒本人からの相談が起点となるケース」
彼女はそれらを、静かに眺めていた。
机の端に置かれたスマートフォンにそっと手を置く。画面には、既に入力済みのメールの下書き。あとは送信ボタンを押すだけ。
けれど、その指は動かなかった。
沙都は視線を窓の外に向ける。
放課後の校庭に、ひとり、真人がいた。ベンチに座り、黙って空を見上げている。
その儚げな横顔を見つめながら、彼女の瞳が少しだけ揺れた。
あの先生は、ほんとうに彼を守れるのだろうか、と。
彼女はスマホの画面を閉じ、バッグにしまった。
まだ、その時ではない。
けれど、一線のすぐ手前まで、彼女は確かに来ていた。
◇
終業前、わたしは机で指導要録の記入に追われていた。
いつもと同じ、紙の擦れる音と、遠くで聞こえる生徒たちの声。何も変わらないはずだった。
ただ、ひとつ。視線を感じた。
ふと顔を上げると、管理職席に座る水野教頭が、こちらを向いたまま、表情ひとつ変えずにいた。
目が合ったわけではない。けれど、間違いなくこちらを見ている。
その無言の視線が、数秒続いた。やがて彼は、小さくひとつ頷くと、何事もなかったかのようにすっと視線を書類に戻した。
呼び止められもしなかった。
けれど、それは猶予ではなかった。
見ている、という無言の合図。
わたしの背中を、冷たいものが走った。
その冷たさは、終業のチャイムが鳴り、生徒たちの喧騒が廊下に満ちても、消えることはなかった。
わたしは笑顔の仮面を貼り付けたまま残りの業務をこなし、誰とも目を合わせぬよう職員室を後にした。
帰りの電車も、駅からの道のりも、背中に突き刺さるあの無言の視線をずっと感じていた。
ようやく辿り着いた自室の扉だけが、わたしを世界から切り離してくれる唯一の境界線だった。
帰宅して、玄関の鍵を閉めた瞬間、わたしは深く息を吐いた。
今日も、なんとか「教師」でいられた。
そう思い込むことでしか、もう正気を保てなかった。
リビングに入ると、真人がソファに座っていた。
本を開いたまま、でもそのページはほとんど進んでいない。
「……ただいま」
わたしが言うと、彼は少しだけ顔を上げて「おかえり」と返した。
その声が、いつもより少しだけ硬かったのは、気のせいではない。
キッチンに立ち、夕食の準備を始めようとしたとき、真人が背後から言った。
「……先生」
振り返ると、彼は立ち上がってこちらを見ていた。
何かを言いたそうな、けれど言葉を見つけられない、そんな顔をしていた。
「……先生、俺……」
そのあとが、続かない。
言葉が、喉の奥でつかえてしまったかのような、重い沈黙。
わたしは、あえて何も言わずに、そのまま彼の視線を受け止めた。
「……ごはん、先に作るね」
そう言って、わたしは鍋に火をつけた。
彼の背中が、そっとソファに戻る音が聞こえる。
言わなかった。言えなかった。
でも、わたしたち二人とも、その言葉にされない言葉の重さだけを感じながら、その夜を過ごした。
崩壊は、もうすぐそこまで来ていた。