第15話「忍び寄る影」
朝の光は、あまりにも穏やかで――だからこそ、胸の奥のざわめきが際立った。
洗面所の鏡に映った自分と、わたしはしばらくのあいだ、視線を交わしたまま動けなかった。
腫れぼったいまぶた、頬にかすかに残る涙の痕。
けれど、なによりも気になったのは、その目の奥に宿る、どこか緩んでしまった光だった。
教師という輪郭が、肌の内側から滲んでいくように形を変えていく。
それが崩壊なのか、それとも再生なのか、まだわたしにはわからなかった。
このままではいけない。職員室に入った瞬間、何かあったと気づかれてしまう。
わたしは慌てて顔を洗い、冷たい水を何度も手のひらですくってまぶたを押さえた。
教師としての顔に戻らなければ。泣いてなどいない。何もなかった。
わたしは、ただの担任なのだと、鏡の中の自分に必死で言い聞かせた。
「先生〜、お湯、わかしましたよ」
リビングから、真人の声がした。その「先生」という呼びかけに、胸がちくりと痛む。
あの夜を境に、その言葉はわたしを「かつてのわたし」に引き戻す楔のようにも、同時に、彼の隣という新しい居場所を示す証のようにもなった。
リビングへ出ると、真人はすでに制服のシャツを整えていた。
寝癖のついた髪でマグカップを片手に持つその姿は、昨日と何ひとつ変わらない日常の風景のはずなのに、彼のささやかな優しさのひとつひとつが、昨夜の出来事を思い出させ、胸を締め付ける。
わたしは彼の顔を盗み見る視線に気づかないふりをし、先に一人で学校へ向かうことにした。
「……帰ったら、今日の夜ごはん、俺が作るから」
玄関先でかけられたその声に、わたしは振り返らず、ただ「ありがとう」とだけ返してドアを開けた。
朝の光が、やけにまぶしかった。
◇
職員室の空気は、いつもと同じだった。
けれど、わたしだけが明らかに昨日とは違う。
「神原先生、昨日ちょっと疲れてました? 目のあたり……」
向かいの席の同僚が、何気ないふうを装い、けれど探るような目を向けてきた。
「……あ、ちょっと寝不足で。ドラマ見てたら止まらなくて」
嘘はすぐに出てきたが、その声が不自然に上ずったのを自分でも感じた。
話はすぐに流れたけれど、気づかれた、という確信だけが胸に冷たく残った。
授業中、背後の視線をより敏感に感じ取るようになった。
真人が、前よりも頻繁にこちらを見ている。
わたしが視線を返すと、彼は一瞬目を伏せ、また教科書に目を落とす。
そのわずか一秒のやりとりが、教室全体の空気を変えてしまうような錯覚。
そして、そのふたりを観察する、もうひとつの視線。
柊沙都が、興味と警戒の入り混じった目で、こちらを静かに見定めていた。
教師としての第六感が、背筋に冷たいものを這わせた。
その日の放課後だった。
「神原先生、少しお時間いいかな?」
声をかけてきたのは、教頭の水野だった。
穏やかな口調とは裏腹に、その目は決して感情を映さない。
職員室の奥、応接スペースへと促され、わたしは彼の前に立った。
「ところで――最近、先生方のあいだで、少し噂があるんだ」
来た。そう直感した。
血の気が引いていくのを感じながらも、顔には出さない。
「ひとりの生徒に、担任の先生が少し距離が近いんじゃないか、ってね。もちろん、君が悪いって話じゃない。ただ、ほんの些細な距離感のズレが、外から見ると誤解を招くこともある。そういう目で“見られている”ということ自体が、教師としてのリスクになるんだ。……わかるよね?」
その口調はあくまで優しかった。
けれど、それがかえって重く、わたしの中に沈んでいく。
「……気をつけます」
そう答える声が、少しだけ掠れた。
「信じてるよ。ただ、少しだけ意識してほしい。教師と生徒――その境界線は、思ってるよりも、見られているから」
水野教頭が静かに去ったあと、わたしはその場に数秒取り残された。
「見られている」。その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。
職員室の喧騒が、今はすべて、わたしを値踏みする視線と囁き声に聞こえた。
自席に戻り、机の上に置かれた赤ペンを手に取る。
その指先が、微かに震えていた。