第14話「嫉妬は夜に燃える」
昼休み、教室に立ち寄ると、そこには沙都と真人がいた。
ふたりは並んで一冊のノートを覗き込み、親密な空気を漂わせている。
「先生、お疲れさまです。真人くんがノートを貸してくれたんです」
快活な笑みで、沙都が言う。
その完璧な優等生の仮面の下に、鋭い棘が隠されているのをわたしは知っていた。
「字も読みやすいし……あと、図とかも丁寧で。こういうところ、几帳面ですよね」
彼女の言葉は柔らかい。けれどその最後の一言には、わたしはあなたの知らない一面に気づいている、という印が確かについていた。
「沙都さんは、ちゃんと見てるんだねぇ」
「いえ、先生だって毎日見てるじゃないですか? 提出物、誰よりも早くチェックしてくださるし」
「そうかな?」
「はい。真人くんのだけ赤ペンのコメント多いなって、ちょっと思ってました」
沙都は笑っていた。
その礼儀正しい微笑みのなかに紛れた、女の勝負の目を、わたしはただ笑みで受け流す。
「……気のせいだと思うけど。真人くん、目立つからかな? 文化祭以来、クラスでも人気だし。沙都ちゃんもよく一緒にいるし、気になっちゃうもんね?」
「……まぁ、気になりますけど」
沙都はわずかに瞬きして、それから首をかしげた。
「先生がいちばん、詳しいんじゃないかなって。……いろんな意味で」
その言葉が、わたしの胸に静かに突き刺さった。
彼女が真人に身を寄せるたび、わたしの奥で何かが軋む音がする。
わたしはプリントを差し出しながら、笑顔の裏で、深く、静かに嘆息した。
◇
部屋の灯りを点けた瞬間、玄関先から漂ってきた香ばしい匂いに、わたしは足を止めた。
キッチンの隅で、エプロン姿の真人が菜箸を握っていた。学校では誰よりも遠くに感じた彼が、この部屋に戻ってきた途端、すっかりわたしの内側にいる人間になっている。
そのねじれた現実に、胸が締め付けられた。
食卓で、わたしは何気ないふうを装って話しかける。
「今日は……授業中、沙都さんとすごい盛り上がってたね」
すると真人は、少し照れたように笑って――あっさりと、言った。
「はい。……沙都さん、いい子ですね」
その一言が、予想以上に深く、静かに、わたしの中に突き刺さった。
「ちゃんとしてて、頭も良くて、礼儀正しくて……先生にちょっと似てますよね」
彼の無邪気な賞賛が、毒のように全身に回っていく。
わたしは、味噌汁の椀をゆっくりと置いた。
「……ごちそうさま」
「えっ、もう? 口に合いませんでした?」
「……違う、ちょっと眠たくなっただけ」
嘘だった。
身体は空腹なのに、心がいっぱいで、もう何も受け付けなかった。
リビングの空気が、わずかに凍てつく。
これは、ただの嫉妬だ。教師として、女として、なにひとつ正当化できない感情。
けれど、もう抑えきれなかった。
食卓は、まるで凍りついた湖のようだった。
食器が触れ合う音だけが、重たい沈黙の表面を虚しく滑っていく。
わたしたちは言葉を交わすことなく、互いの視線を避けるようにして、ただ黙々と片付けを終えた。
先に布団に入ったわたしは、すぐに彼に背を向け、壁の一点を見つめた。
やがて、隣のスペースがわずかに沈み、彼の気配が空気を満たす。
布団の中。背中に、彼の体温を感じていた。
「……先生?」
真人の声が、すぐ後ろからする。
「どうしたの? さっきから、なんか変だよ」
わかっている。
態度に出ていたのだろう。
わたしは背を向けたまま、言葉を続けた。
「……沙都さんのこと、ほんとに“いい子”って思ってるんだね」
「……うん。優しいし、頭もいいし、頼りになるし」
「……そういうとこ」
声が震える。今日一日、胸のなかで渦巻いていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
「うち、今日ずっと胸がもやもやしとって……真人が笑いよるの、見るたびに……苦しゅうて、たまらんかったっちゃ……!」
初めて、彼に声を荒げた。
それは、彼に対してというより、自分自身に対してだった。
「……うち……ほんとは、ずっと怖かったとよ……“うちのもん”って、思いたかったっちゃけど……それば言うたら、あんたが……離れていきそうで……」
涙は出ない。代わりに、呼吸だけが浅くなっていく。
そのときだった。真人の腕が、そっとわたしの背中に回った。静かに、ためらいなく、まるでそれが当然であるかのように、抱きしめられる。
「……俺、恵美しか見てないよ」
低く、でもはっきりとした声が、耳元で囁かれる。
「他の誰でもない。沙都さんでも、誰でもなくて……俺が好きなのは、“恵美”なんだよ」
その声に、心がゆっくりとほどけていく。
「ほかの子に、あんたが見られるたびに……うちは、思うっちゃ……“うちのもんや”って……堂々と言える立場やなかとに……そう思う自分がおるっちゃ……いやになる……」
「……言っていいよ」
真人の手が、わたしの背中をなぞる。
「“わたしのもの”って。俺は恵美だけだから」
その一言が、決定打だった。
唇が重なったとき、わたしの中の理性という名の壁は、音もなく崩れた。
肌が触れるたび、「先生」と呼ばれていた名前が遠ざかっていく。
「恵美」
真人の声がそう呼んだとき――わたしは確かに、自分が彼のもの”であり、彼がわたしのものだと、認めてしまったのだった。
カーテンの向こうで、夜がまだ静かに続いていた。
誰にも見つからないように、誰にも壊されないように。
この世界のどこにも属さない場所で、わたしたちはただ、ふたりきりの輪郭をなぞり続けていた。