第13話「閉じた部屋の甘い罠」
夕食を終えたあとのリビングは、電子レンジの低い駆動音と、わたしの隣で真人がソファに沈み込む気配だけが満ちていた。
ようやく訪れた、ふたりきりの小さな静寂。
わたしはカップにお湯を注ぎ、彼の隣に腰を下ろす。
真人はブランケットを膝にかけ、スマホの画面を指でなぞっていた。
その動きが、ふと止まる。
「……あれ? またフォロワー増えてる」
「ん?」
「SNS。……文化祭のあと、ちょこちょこ増えてたんだけど、最近また知らない人からいっぱいフォロー来てる。たぶん他の学年とか、外部の人とか。“あなたのダンスすてきでした”ってDMも来てたし」
「……そうなんだ」
湯気の立つカップを口元に運びながら、わたしは平静を装った。
けれど、心のどこかで、何かがぴしりと音を立ててひび割れた。
「ちょっと怖いのもあるけど……まあ、ちょっと嬉しいっちゃ嬉しいかな」
「……嬉しいんだ」
自分でもわかるほど、声の温度がほんの少しだけ下がっていた。
この子は、なにも悪くない。でも、いまこの瞬間、どこの誰とも知れない無数の視線が、画面越しにこの子に向けられている。
その想像だけで、胸の奥がさざ波のようにざわついた。
「ねぇ、真人」
「ん?」
「SNS……あんまり、のめりこまないようにね。どんどん知らない人が入ってきたら……あなたの“大事なもの”が、見えなくなってしまうから」
わたしの声は、たぶん、それ以上でもそれ以下でもなかった。
けれど、胸の内では叫んでいた。
あなたの隣にいるのは、わたしなのだと。
真人は一瞬だけこちらを見て、少し驚いたように目を細めた。
そして、スマホを裏返してテーブルに置く。
「……うん。先生の言うこと、ちゃんと聞きます」
そう言って笑う彼の、あまりに無垢な表情が、皮肉にもわたしの不安を深くするのだった。
◇
土曜の昼下がり。
陽の当たるリビングで、わたしたちはソファに並んで座っていた。
「……ねえ先生、こういうの、信じる?」
真人が、ノートPCの画面をこちらに向けながらそうつぶやく。
そこには「日本の山村に残る“隠された儀式”――現代にも続く生贄文化」という、いかにもな見出しが躍っていた。画面をスクロールすると、実在するのかも定かでない村々の名と、“口減らし”や“神送り”といった言葉が、不鮮明な写真と共に並んでいる。
「……またよくこんなの見つけてきたね」
「掲示板経由で飛んでったら出てきた。“日本のヤバい村ランキング”とかあってさ」
わたしは思わず苦笑した。
でも、記事の中にあった「ある年齢の男女を選び、山奥の祠へ捧げる」という一文が、なぜか、心のどこかに冷たい棘のように引っかかった。
「でもうちらの村、そんなんじゃなかったよね?」
「うんうん。お祭りはあったけど、人さらって祠に捧げるとか、さすがに映画の話だよ」
わたしたちは声を出して笑った。
でも、その笑い声の裏で、わたしは胸の奥に冷たい感触が広がっていくのを感じていた。
あの村のこと、わたしは、どこまで覚えているのだろう。
「先生、意外と怖がりだね」
「怖がりじゃないけど……想像したら、なんか嫌になる。田舎の闇は深いって、よく言うけど」
思わず笑って、そばにあったクッションを真人の顔に押し当てる。
「わっ、やめろってばー。先生暴力!」
「うるさい」
ソファの上で、じゃれ合うように押し合いへし合い、気づけばわたしの身体は彼の腕の中に倒れ込んでいた。
近い。その距離に、はっとする。
でも、離れなかった。
彼も、離さなかった。
「……先生ってさ、こういうときは女の人なんだなって思う」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
教師じゃない、女。
誰にも見せてはいけないはずの顔を、彼の前では、もう何度も見せてしまっている。
「……おいで」
わたしは、ごく自然にそう言っていた。
真人が少しだけ目を見開いて、ゆっくりと、わたしの肩に額を預けてくる。その髪が触れたところから、熱がじんわりと広がっていく。
肌が重なるたび、これが日常なのだと錯覚しそうになる。
まるで、ここがわたしの本当の帰る場所であるかのように。
けれどわたしの中のどこかが、そっと警鐘を鳴らしていた。
この静けさは、ずっとは続かない。きっと、何かが壊れる日が来る。
それでも、腕は緩めなかった。
壊れることを恐れて手放すくらいなら、壊れると知っていても、この腕で抱きしめていたかった。
ノートPCの画面が、パソコンの自動スリープで静かに暗転していく。
そこに映っていた“村の儀式”という文字もまた、わたしたちの密やかな時間のなかに、ゆっくりと溶けて消えていった。