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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 三章 ひとひら、夜香る
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第12話「疑惑の視線」

 授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る直前。

 教室の空気が少しだけ緩んだその隙間を、柊沙都は滑るように移動した。

 彼女は、学年でも指折りの優等生。


 その非の打ちどころのない正しさが、今のわたしには少しだけ、目障りだった。


「真人くん、今日って委員会の掲示物手伝える?」

「えっと……まだ予定入ってないから、いけると思う」

「よかった。私ひとりだと重くてさ。男子の力、必要だったんだ〜」


 沙都は照れたように笑い、真人も軽く肩をすくめて応じる。そのあまりに自然で、健全なやりとり。

 教卓の片づけをするわたしの手が、無意識に止まっていた。


 今朝、わたしたちは重なり合った。それが、まるで日常の一部であるかのように。

 彼の肌の温度も、乱れた声も、わたしだけが知っている。わたしだけのものだと思っていた。


 それなのに、今ここで見ている彼は、何もなかったかのように、あの模範的な少女と並んで教室を出ていく。


 沙都は悪くない。わかっている。

 けれど、彼女の、真人を映すその瞳。

 あれはもう、ただのクラスメイトに向ける眼差しではなかった。


 わたしは静かに振り返り、誰にも気づかれないようにその二人の背中を見送った。

 呼吸が浅くなる。脈打つ鼓動が首筋を熱くする。

 教室に残されたチョークの粉の匂いが、やけに遠くに感じられた。


 まるで、わたしだけがこの場所に置き去りにされたような、そんな錯覚。

 指先に爪を立てていたことに気づいたのは、二人の姿が廊下の角に消えたあとだった。


 わたしはゆっくりと拳を開く。手のひらには、くっきりと爪の跡が三日月のように刻まれていた。

 その鈍い痛みが、心の疼きをわずかに紛らわせてくれる。

 けれど、彼らの笑い声の残響が、静まり返った教室のなかで反響して、わたしを苛んだ。


 ここにいてはいけない。

 そう思うと、わたしはほとんど衝動的に席を立った。職員室の自席にプリントの束を置いたあと、わたしは何の気なしに校内を歩き始めた。


 理由のない散歩だった。

 用事もないのに、掲示板の前で立ち止まるふりをして、視線だけが廊下の奥を探していた。

 三階の印刷室。沙都が言っていた場所だ。


 階段を上る足音が、いつもより少しゆっくりだったのは、何かを見てしまう自分を、まだ止めたいという気持ちが残っていたからかもしれない。

 でも、視界に入ってきた二人の姿は、思っていたよりもずっと近くにあった。

 渡り廊下の手前、折りたたみ机の上に色とりどりの用紙を広げ、沙都が真人に指示を出している。


「ね、この位置ずれてない? 見て、ここ、端と揃ってないよ」

「あ、ほんとだ……ごめん」


「べつに怒ってないし、でも几帳面に見えて意外と雑だね」

「うわ、それ俺のことちゃんと見てた人しか言わないやつ」

「そりゃ、見てるし。クラスメイトだもん」


 ふたりの弾むような笑い声が、ふわりと宙を舞った。


 わたしは――足を止めた。そして、動けなくなった。

 肩が自然と寄っていく距離。ためらいもなく交わされる視線。

 わたしには決して見せない、軽やかな彼の表情。


 そのすべてが、わたしをこの場に縫い付け、押し潰すには十分だった。


 心の中で違う、違うと何度唱えても、足は勝手に踵を返していた。

 何も見なかったふりをして、静かに階段を下りる。

 わたしの中でまた何かが崩れていく音に、気づかないふりをして。


 夕暮れの西日が差し込む廊下の先で、ふたりの笑い声が、なおも小さく続いていた。

 わたしだけが、独りになっていく。そう思ってしまった自分を、誰よりも許せなかった。


 ◇


 放課後。

 誰も居なくなった教室の戸締りをしているわたしの背後で、やわらかな声がした。


「先生、ちょっといいですか?」


 振り向くと、沙都が立っていた。髪をまとめ、制服の襟元もきっちり整えた、いつもの優等生の顔。

 少しだけ声のトーンを下げながら、彼女は机の端に手を添え、距離を詰めてきた。


「真人くんにだけ、ちょっと贔屓してませんか?先生」


 言葉の端に、やわらかな毒が混じる。

 わたしは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、笑顔を崩さずに返した。


「えぇ?そう見えた?そんなつもりは全然……」


「ふふ、そうですよね。……気のせいかもです」


 沙都は一歩引いた。けれど、その目は笑っていなかった。


「でも、真人くんって……カッコイイですもんね」

「文化祭のときなんて、アイドルみたいでした。先生、気づいてました?文化祭以降……他クラスの子や、別の学年の女の子たちも、“真人くんのファン”って言ってるらしいですよ」


「私は……クラス替えのときから、気づいてましたけどね」


 沙都は言った。控えめな口調のまま、しかし明確に“優位”をアピールする声音で。

 そして、わざとらしく小首をかしげる。


「……先生は、真人くんのこと、どう思ってるんですか?」


 その瞬間、わたしの心臓が一拍、跳ねた。

 目の前の沙都は、笑っている。けれどその瞳の奥は、鋭くこちらを“測っていた”。

 わたしは、瞬きを一つ挟んでから――あくまで“教師”としての顔を被る。


「……生徒としては、まぁ。顔立ちは整ってるように見えるけど」

「ただ、わたしにとってはあくまで“生徒”。他の子と同じように接してるつもり」


 沙都は数秒、無言だった。それからふっと笑った。


「……ですよね。先生そういうとこ、ちゃんとしてますもんね」


 そう言いながら、机の端を指でなぞる。その指の動きは――まるでわたしの“本音”を撫でて探ろうとするかのようだった。

 わたしは、静かに息を吐いた。


 あの子は、“気づいている”かもしれない。そう思わせるには、十分な会話だった。


 ◇


 夕方、帰宅の電車を一本ずらして職員室を出たわたしは、駅までの道を真人と肩を並べて歩いていた。

 並んで歩くだけなら、誰にも咎められない。教師と生徒が偶然、帰り道が同じだっただけ。

 でも、その“偶然”が重なる日々の中で、わたしたちは誰にも言えない関係になっていた。


「……沙都さん、さっき先生と話してましたよね」

「……ちょっとだけ、ね」

「俺のこと、なんか言ってました?」


 その言い方が、あまりに無邪気で――少しだけ、胸が軋んだ。


「どんな話をしてたかは……話さないでおく」

「沙都さん、優しいですよ。今日も“また何かあったら手伝うから”って言われて……」


 そう言って真人は、少し照れたように肩をすくめる。

 わたしは、笑顔のまま――黙っていた。

 その沈黙に、真人も気づいたのか、ふと、わたしの顔を覗きこむ。


「……先生、怒ってます?」

「……怒ってないよ」


「なんか、急に静かになったから」

「静かに聞いてただけ。真人くんが、どんな子と、どう接してるかって」


 言い終えてから、自分でもその語尾に棘があったことに気づいた。

 真人は一瞬、目を瞬いた。


「……真人くん」


 ふいに、名前を呼んだ自分に驚いた。

 それは“先生”でも、“大人”でもなくて――ただの、一人の女の声だった。


「うち、ちょっと……気持ちが揺れとるだけ。なんも、責めよるわけじゃなかけんね」


 そう言ったあとで、真人の手が、そっとわたしの指先に触れた。

 駅へと向かう人波のなか。その触れ方は、とても静かで優しかった。


「……俺、ちゃんと先生を見てますよ」

「……ほんとに、そうと?」

「うん。俺の目に映ってるのは、先生だけです」


 その言葉に救われそうになった自分を、ほんの少しだけ、苦々しく思った。

 けれど、すぐにその不安も胸の底に沈んでいった。


 なぜなら――この関係が、崩れていくとしたら、それはきっと、わたしの側からだとわかっていたから。

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