第12話「疑惑の視線」
授業が終わり、放課後のチャイムが鳴る直前。
教室の空気が少しだけ緩んだその隙間を、柊沙都は滑るように移動した。
彼女は、学年でも指折りの優等生。
その非の打ちどころのない正しさが、今のわたしには少しだけ、目障りだった。
「真人くん、今日って委員会の掲示物手伝える?」
「えっと……まだ予定入ってないから、いけると思う」
「よかった。私ひとりだと重くてさ。男子の力、必要だったんだ〜」
沙都は照れたように笑い、真人も軽く肩をすくめて応じる。そのあまりに自然で、健全なやりとり。
教卓の片づけをするわたしの手が、無意識に止まっていた。
今朝、わたしたちは重なり合った。それが、まるで日常の一部であるかのように。
彼の肌の温度も、乱れた声も、わたしだけが知っている。わたしだけのものだと思っていた。
それなのに、今ここで見ている彼は、何もなかったかのように、あの模範的な少女と並んで教室を出ていく。
沙都は悪くない。わかっている。
けれど、彼女の、真人を映すその瞳。
あれはもう、ただのクラスメイトに向ける眼差しではなかった。
わたしは静かに振り返り、誰にも気づかれないようにその二人の背中を見送った。
呼吸が浅くなる。脈打つ鼓動が首筋を熱くする。
教室に残されたチョークの粉の匂いが、やけに遠くに感じられた。
まるで、わたしだけがこの場所に置き去りにされたような、そんな錯覚。
指先に爪を立てていたことに気づいたのは、二人の姿が廊下の角に消えたあとだった。
わたしはゆっくりと拳を開く。手のひらには、くっきりと爪の跡が三日月のように刻まれていた。
その鈍い痛みが、心の疼きをわずかに紛らわせてくれる。
けれど、彼らの笑い声の残響が、静まり返った教室のなかで反響して、わたしを苛んだ。
ここにいてはいけない。
そう思うと、わたしはほとんど衝動的に席を立った。職員室の自席にプリントの束を置いたあと、わたしは何の気なしに校内を歩き始めた。
理由のない散歩だった。
用事もないのに、掲示板の前で立ち止まるふりをして、視線だけが廊下の奥を探していた。
三階の印刷室。沙都が言っていた場所だ。
階段を上る足音が、いつもより少しゆっくりだったのは、何かを見てしまう自分を、まだ止めたいという気持ちが残っていたからかもしれない。
でも、視界に入ってきた二人の姿は、思っていたよりもずっと近くにあった。
渡り廊下の手前、折りたたみ机の上に色とりどりの用紙を広げ、沙都が真人に指示を出している。
「ね、この位置ずれてない? 見て、ここ、端と揃ってないよ」
「あ、ほんとだ……ごめん」
「べつに怒ってないし、でも几帳面に見えて意外と雑だね」
「うわ、それ俺のことちゃんと見てた人しか言わないやつ」
「そりゃ、見てるし。クラスメイトだもん」
ふたりの弾むような笑い声が、ふわりと宙を舞った。
わたしは――足を止めた。そして、動けなくなった。
肩が自然と寄っていく距離。ためらいもなく交わされる視線。
わたしには決して見せない、軽やかな彼の表情。
そのすべてが、わたしをこの場に縫い付け、押し潰すには十分だった。
心の中で違う、違うと何度唱えても、足は勝手に踵を返していた。
何も見なかったふりをして、静かに階段を下りる。
わたしの中でまた何かが崩れていく音に、気づかないふりをして。
夕暮れの西日が差し込む廊下の先で、ふたりの笑い声が、なおも小さく続いていた。
わたしだけが、独りになっていく。そう思ってしまった自分を、誰よりも許せなかった。
◇
放課後。
誰も居なくなった教室の戸締りをしているわたしの背後で、やわらかな声がした。
「先生、ちょっといいですか?」
振り向くと、沙都が立っていた。髪をまとめ、制服の襟元もきっちり整えた、いつもの優等生の顔。
少しだけ声のトーンを下げながら、彼女は机の端に手を添え、距離を詰めてきた。
「真人くんにだけ、ちょっと贔屓してませんか?先生」
言葉の端に、やわらかな毒が混じる。
わたしは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、笑顔を崩さずに返した。
「えぇ?そう見えた?そんなつもりは全然……」
「ふふ、そうですよね。……気のせいかもです」
沙都は一歩引いた。けれど、その目は笑っていなかった。
「でも、真人くんって……カッコイイですもんね」
「文化祭のときなんて、アイドルみたいでした。先生、気づいてました?文化祭以降……他クラスの子や、別の学年の女の子たちも、“真人くんのファン”って言ってるらしいですよ」
「私は……クラス替えのときから、気づいてましたけどね」
沙都は言った。控えめな口調のまま、しかし明確に“優位”をアピールする声音で。
そして、わざとらしく小首をかしげる。
「……先生は、真人くんのこと、どう思ってるんですか?」
その瞬間、わたしの心臓が一拍、跳ねた。
目の前の沙都は、笑っている。けれどその瞳の奥は、鋭くこちらを“測っていた”。
わたしは、瞬きを一つ挟んでから――あくまで“教師”としての顔を被る。
「……生徒としては、まぁ。顔立ちは整ってるように見えるけど」
「ただ、わたしにとってはあくまで“生徒”。他の子と同じように接してるつもり」
沙都は数秒、無言だった。それからふっと笑った。
「……ですよね。先生そういうとこ、ちゃんとしてますもんね」
そう言いながら、机の端を指でなぞる。その指の動きは――まるでわたしの“本音”を撫でて探ろうとするかのようだった。
わたしは、静かに息を吐いた。
あの子は、“気づいている”かもしれない。そう思わせるには、十分な会話だった。
◇
夕方、帰宅の電車を一本ずらして職員室を出たわたしは、駅までの道を真人と肩を並べて歩いていた。
並んで歩くだけなら、誰にも咎められない。教師と生徒が偶然、帰り道が同じだっただけ。
でも、その“偶然”が重なる日々の中で、わたしたちは誰にも言えない関係になっていた。
「……沙都さん、さっき先生と話してましたよね」
「……ちょっとだけ、ね」
「俺のこと、なんか言ってました?」
その言い方が、あまりに無邪気で――少しだけ、胸が軋んだ。
「どんな話をしてたかは……話さないでおく」
「沙都さん、優しいですよ。今日も“また何かあったら手伝うから”って言われて……」
そう言って真人は、少し照れたように肩をすくめる。
わたしは、笑顔のまま――黙っていた。
その沈黙に、真人も気づいたのか、ふと、わたしの顔を覗きこむ。
「……先生、怒ってます?」
「……怒ってないよ」
「なんか、急に静かになったから」
「静かに聞いてただけ。真人くんが、どんな子と、どう接してるかって」
言い終えてから、自分でもその語尾に棘があったことに気づいた。
真人は一瞬、目を瞬いた。
「……真人くん」
ふいに、名前を呼んだ自分に驚いた。
それは“先生”でも、“大人”でもなくて――ただの、一人の女の声だった。
「うち、ちょっと……気持ちが揺れとるだけ。なんも、責めよるわけじゃなかけんね」
そう言ったあとで、真人の手が、そっとわたしの指先に触れた。
駅へと向かう人波のなか。その触れ方は、とても静かで優しかった。
「……俺、ちゃんと先生を見てますよ」
「……ほんとに、そうと?」
「うん。俺の目に映ってるのは、先生だけです」
その言葉に救われそうになった自分を、ほんの少しだけ、苦々しく思った。
けれど、すぐにその不安も胸の底に沈んでいった。
なぜなら――この関係が、崩れていくとしたら、それはきっと、わたしの側からだとわかっていたから。