第11話「ひとひら、夜香る」
数日ぶりに登校した真人は、驚くほど何事もなかったかのように、教室の空気に馴染んでいた。
あの夜、わたしの腕の中で震えていた彼。
雨音だけが響く部屋で、初めて互いの肌に触れた、あの熱。
そして今朝、わたしの家から制服を着て、少し照れたように「行ってきます」と囁いた彼。
そのすべてを知っているのは、世界でわたしだけのはずだった。
なのに、わたしの目の前にいる彼は、制服をきっちりと着こなし、涼しい顔で自分の席に座っている。
そのあまりの切り替えの早さに、わたしは教壇の上から、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
今日は現代文の授業で、班ごとの小発表がある。
柊沙都という快活な女子生徒と真人が同じ班になったのは、ほんの偶然。
けれど、その偶然が、ささくれのようにわたしの胸を逆立てた。
「じゃあ、この詩の“孤独”って、“いま”で言うとどういうことだと思う?」
沙都が真人に話しかける声は、ころころと弾むように明るい。
真人は少しだけ首を傾げ、それに答える。
「うーん、SNSで繋がってても、誰にも本音を言えないとか……?」
「わかる。え、真人くん意外とちゃんと考えてるんだね」
沙都の屈託のない笑い声に、周囲の数人がつられて微笑む。
その輪の中心に、真人はいた。その笑顔は、わたしの前では決して見せない、少年らしい無防備な光を放っている。
教卓の上で握りしめたペンのキャップの内側で、指先がじっとりと汗ばんだ。
喉の奥がひりつく。ほんの数時間前、朝の光が差し込む部屋で、わたしはこの子の制服を脱がせ、その唇を貪るように塞いだというのに。
どうして、あんなにも自然に、世界の一部に戻っていけるのだろう。
声を荒らげたいほどの怒りではない。けれど、胸の奥で何かがぐらぐらと煮え立つような、静かな熱が止められなかった。
これは、嫉妬だ。教師としてではなく、ひとりの女としての、醜く、純粋な感情。
授業の喧騒のなか、彼がふと、こちらを振り返った。
教卓のわたしと、目が合う。
その瞬間――彼の瞳が、ほんのわずかに、悪戯っぽく細められた気がした。
まるで、わたしの心のざわめきをすべて見透かし、それを楽しんでいるかのように。
その無言のやりとりが、わたしの胸に、またひとつ、どうしようもない波を立てた。