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贄ノ国 episode 0.  作者: ななめハンバーグカルパス
第一部 二章 ひとひら、狂う
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第10話「そして、朝が来た」

 どこか遠くで、鳥の声がした。

 開け放たれた窓から流れ込む空気は、夜通し降っていた雨の気配をまだ残していて、ひんやりと肌を撫でる。


 しばらく、天井を見つめていた。

 言葉は何も浮かんでこない。

 ただ、彼の寝息が隣にあるという、その事実だけが、胸の奥で確かな温もりとなって静かに揺れていた。


 横に目をやると、真人がいた。

 カーテン越しの淡い朝日が、彼の長い睫毛の先に小さな光の粒を宿している。

 わたしの腕が、いつの間にか彼の肩にかかっていた。


 そのあまりに自然な重みに、昨夜のすべてが夢ではなかったのだと知る。

 わたしはそっと、彼の柔らかな髪に指を差し入れた。


 本当に、ここにいる。

 当たり前のようでいて、どこか奇跡のような感覚だった。


 やがて、真人がわずかに身じろぎした。


「……ん……先生……」


「……恵美って、言うたっちゃろ?」


 そう囁き返すと、まだ夢のなかにいるような声で、「……えみ……」と彼が呟く。

 まるで、その名前の響きを確かめるように。

 その瞬間、わたしの胸の奥に、熱いひとしずくが落ちてきた。


 名前を呼ばれるということが、こんなにも静かで、こんなにも胸を打つものだったなんて。

 気づけば、涙がこぼれていた。

 嬉しいのか、苦しいのか、それすらも判然としない。


 ただ、心の何かが溶けて、溢れ出してしまった。

 泣いているわたしに気づいてか、真人がゆっくりと目を開ける。


「……どうしたの?」


 声はかすれていたけれど、心配そうな瞳だけは、まっすぐにこちらを見ていた。


「……なんでもない。ちょっと、朝日が眩しくて」


 わたしはそう言って、彼の胸元に額を預けた。

 とん、とん、と規則正しく響く心臓の音を聞きながら、思う。

 わたしたちは、今日という日を迎えた。


 世界は、終わらなかった。

 その代わり、ただ静かで、ありふれた朝が始まった。


 夜の熱を肌に残したまま、わたしはそっと彼の腕の中から抜け出す。

 キッチンに立つと、トーストの焼ける香ばしい匂いがした。いつもは自分のためだけに適当に済ませる朝食が、今朝はひどく特別なものに感じられる。


 ふたり分の皿を棚から取り出し、テーブルに並べる。

 その単純な行為のひとつひとつに、まだ慣れない戸惑いと、背徳的な喜びにも似た緊張が宿っていた。


「おはよう」


 背後から彼の声が届いた。

 振り返ると、そこにいたのは制服姿の真人だった。

 紺のブレザー、白いシャツ、緩く締められたネクタイ。


 見慣れたはずのその服装が、今はまるで、わたしたちの関係を禁じる印のように見えた。

 夜を共にしたという事実が、教室にいる彼とは違う、生々しい輪郭を彼に与えていた。

 その体温を、わたしはもう知ってしまっている。


「……ごはん、冷めるよ」


 できるだけ平静を装って声をかける。

 彼は頷き、テーブルの椅子に座った。

 並んで食べるトースト。


 会話は少ない。けれど、沈黙は少しも苦ではなかった。


「真人くん」

「はい」


「これからのことだけど、ゴミ出しとか、ベランダに出るとか、共用部分では絶対、人に見られんようにしてね」

「……わかってます」


「制服でいるところを見られたら、ほんとにアウトだから」


 彼は頷いたあと、わずかに視線を落とした。


「……先生のこと、巻き込んでごめんなさい」


「違う。わたしが勝手に……守りたいと思っただけ」


 自分で口にしたその言葉の重みに、喉が詰まりそうになる。

 この制服姿の少年を隣に置くことの意味。


 それはあまりに重く、けれど、もう手放すことなどできなかった。

 その重さを、わたしは覚悟と共に胸に抱く。


 けれど、無情にも時間は流れていく。

 時計の針が、社会的な役割へと戻るべき時刻を指していた。


 ジャケットのボタンを留め、身支度を整える。学校へ行かなければならない。日常へと、戻らなければ。

 鞄を肩にかけながら、リビングの隅でカーテン越しに光を見ていた真人に声をかけた。


「……今日は、学校、無理して行かないでいいから。ゆっくり休んでね」

「え……でも、俺、ずっと休んでたから」

「学校にはわたしから連絡しとく。“体調不良”で通すから、安心して」


 彼を追っていたという謎の集団。その脅威が去ったわけではない。

 何より、わたしはこの小さな部屋に、もう少しだけ彼を留めておきたかった。


 靴を履こうとして、ふと手が止まる。

 昨夜の夢の残り香が、胸の奥でふわりと広がった。


「……ねぇ、真人くん」

「はい」

「夢、見たりしない? 村にいたころのこととか。もう忘れたと思っていたような、古い風景が出てくるとか」


 わたしの問いに、真人は少し考えて、ゆっくり頷いた。


「あります。俺、小さい頃に遊んでた川とか、石段の道とか……。目覚める直前には、たいてい“風の音”がしてる」

「……風の音」

「山を抜けてくる風。すこし湿ってて、重たいんです。……なにかを運んでくるみたいな」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの中で、夢の中のあの光景が鮮烈に蘇った。

 揺れる木々。山裾の石段。焚き火の煙。

 そして――わたしの手を引いて、走ってくれたあの男の子。


 顔も、声も、記憶の靄の向こう側にあって思い出せないのに、その背中の感触だけはどうしても忘れられない。


「変なこと聞いてごめんね」

「いえ。先生も……夢、見るんですね」

「たまにね。……懐かしいけど、同時に、“なにか思い出せてないことがある”って、いつも感じる」


 それが何なのかは、まだわからない。

 でも、村の記憶には、故意に開けられたような見えない穴が空いていて、そこには“何か”が埋められている。

 その“何か”が、最近になって、静かにこちらを見ているような気がしてならなかった。


「……じゃあ、行ってくるね」

「……行ってらっしゃい、先生」


 そう言って、彼は笑った。

 その笑顔の奥に、わたしははっきりと――何かが変わり始めている気配を見た。


 マンションの外に出ると、都会の朝が始まっていた。

 だけど、空のどこかが妙に霞んでいて、ビルの隙間から差す光に、山の霧のような冷たさを感じる。

 まるで、“村”の気配が、もうこの街にまで届いているかのように。


 わたしは、なにを忘れているのだろうか。


 その問いだけを胸に、わたしは、今日も「先生」の顔で職場へ向かった。

 けれど、アスファルトを踏む足音のひとつひとつが、どこか昔に置いてきた場所へと、わたしを引き戻していくような気がしていた。

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