第10話「そして、朝が来た」
どこか遠くで、鳥の声がした。
開け放たれた窓から流れ込む空気は、夜通し降っていた雨の気配をまだ残していて、ひんやりと肌を撫でる。
しばらく、天井を見つめていた。
言葉は何も浮かんでこない。
ただ、彼の寝息が隣にあるという、その事実だけが、胸の奥で確かな温もりとなって静かに揺れていた。
横に目をやると、真人がいた。
カーテン越しの淡い朝日が、彼の長い睫毛の先に小さな光の粒を宿している。
わたしの腕が、いつの間にか彼の肩にかかっていた。
そのあまりに自然な重みに、昨夜のすべてが夢ではなかったのだと知る。
わたしはそっと、彼の柔らかな髪に指を差し入れた。
本当に、ここにいる。
当たり前のようでいて、どこか奇跡のような感覚だった。
やがて、真人がわずかに身じろぎした。
「……ん……先生……」
「……恵美って、言うたっちゃろ?」
そう囁き返すと、まだ夢のなかにいるような声で、「……えみ……」と彼が呟く。
まるで、その名前の響きを確かめるように。
その瞬間、わたしの胸の奥に、熱いひとしずくが落ちてきた。
名前を呼ばれるということが、こんなにも静かで、こんなにも胸を打つものだったなんて。
気づけば、涙がこぼれていた。
嬉しいのか、苦しいのか、それすらも判然としない。
ただ、心の何かが溶けて、溢れ出してしまった。
泣いているわたしに気づいてか、真人がゆっくりと目を開ける。
「……どうしたの?」
声はかすれていたけれど、心配そうな瞳だけは、まっすぐにこちらを見ていた。
「……なんでもない。ちょっと、朝日が眩しくて」
わたしはそう言って、彼の胸元に額を預けた。
とん、とん、と規則正しく響く心臓の音を聞きながら、思う。
わたしたちは、今日という日を迎えた。
世界は、終わらなかった。
その代わり、ただ静かで、ありふれた朝が始まった。
夜の熱を肌に残したまま、わたしはそっと彼の腕の中から抜け出す。
キッチンに立つと、トーストの焼ける香ばしい匂いがした。いつもは自分のためだけに適当に済ませる朝食が、今朝はひどく特別なものに感じられる。
ふたり分の皿を棚から取り出し、テーブルに並べる。
その単純な行為のひとつひとつに、まだ慣れない戸惑いと、背徳的な喜びにも似た緊張が宿っていた。
「おはよう」
背後から彼の声が届いた。
振り返ると、そこにいたのは制服姿の真人だった。
紺のブレザー、白いシャツ、緩く締められたネクタイ。
見慣れたはずのその服装が、今はまるで、わたしたちの関係を禁じる印のように見えた。
夜を共にしたという事実が、教室にいる彼とは違う、生々しい輪郭を彼に与えていた。
その体温を、わたしはもう知ってしまっている。
「……ごはん、冷めるよ」
できるだけ平静を装って声をかける。
彼は頷き、テーブルの椅子に座った。
並んで食べるトースト。
会話は少ない。けれど、沈黙は少しも苦ではなかった。
「真人くん」
「はい」
「これからのことだけど、ゴミ出しとか、ベランダに出るとか、共用部分では絶対、人に見られんようにしてね」
「……わかってます」
「制服でいるところを見られたら、ほんとにアウトだから」
彼は頷いたあと、わずかに視線を落とした。
「……先生のこと、巻き込んでごめんなさい」
「違う。わたしが勝手に……守りたいと思っただけ」
自分で口にしたその言葉の重みに、喉が詰まりそうになる。
この制服姿の少年を隣に置くことの意味。
それはあまりに重く、けれど、もう手放すことなどできなかった。
その重さを、わたしは覚悟と共に胸に抱く。
けれど、無情にも時間は流れていく。
時計の針が、社会的な役割へと戻るべき時刻を指していた。
ジャケットのボタンを留め、身支度を整える。学校へ行かなければならない。日常へと、戻らなければ。
鞄を肩にかけながら、リビングの隅でカーテン越しに光を見ていた真人に声をかけた。
「……今日は、学校、無理して行かないでいいから。ゆっくり休んでね」
「え……でも、俺、ずっと休んでたから」
「学校にはわたしから連絡しとく。“体調不良”で通すから、安心して」
彼を追っていたという謎の集団。その脅威が去ったわけではない。
何より、わたしはこの小さな部屋に、もう少しだけ彼を留めておきたかった。
靴を履こうとして、ふと手が止まる。
昨夜の夢の残り香が、胸の奥でふわりと広がった。
「……ねぇ、真人くん」
「はい」
「夢、見たりしない? 村にいたころのこととか。もう忘れたと思っていたような、古い風景が出てくるとか」
わたしの問いに、真人は少し考えて、ゆっくり頷いた。
「あります。俺、小さい頃に遊んでた川とか、石段の道とか……。目覚める直前には、たいてい“風の音”がしてる」
「……風の音」
「山を抜けてくる風。すこし湿ってて、重たいんです。……なにかを運んでくるみたいな」
その言葉を聞いた瞬間、わたしの中で、夢の中のあの光景が鮮烈に蘇った。
揺れる木々。山裾の石段。焚き火の煙。
そして――わたしの手を引いて、走ってくれたあの男の子。
顔も、声も、記憶の靄の向こう側にあって思い出せないのに、その背中の感触だけはどうしても忘れられない。
「変なこと聞いてごめんね」
「いえ。先生も……夢、見るんですね」
「たまにね。……懐かしいけど、同時に、“なにか思い出せてないことがある”って、いつも感じる」
それが何なのかは、まだわからない。
でも、村の記憶には、故意に開けられたような見えない穴が空いていて、そこには“何か”が埋められている。
その“何か”が、最近になって、静かにこちらを見ているような気がしてならなかった。
「……じゃあ、行ってくるね」
「……行ってらっしゃい、先生」
そう言って、彼は笑った。
その笑顔の奥に、わたしははっきりと――何かが変わり始めている気配を見た。
マンションの外に出ると、都会の朝が始まっていた。
だけど、空のどこかが妙に霞んでいて、ビルの隙間から差す光に、山の霧のような冷たさを感じる。
まるで、“村”の気配が、もうこの街にまで届いているかのように。
わたしは、なにを忘れているのだろうか。
その問いだけを胸に、わたしは、今日も「先生」の顔で職場へ向かった。
けれど、アスファルトを踏む足音のひとつひとつが、どこか昔に置いてきた場所へと、わたしを引き戻していくような気がしていた。




